99 諦めない③
「誰の指示」
しんと静まり返った林の中で、少女の声が耳に届く。
自分に聞かれたのかと思った。
しかし少女の視線は、足元に転がっている男子に向かっている。
どうやら男子生徒は意識があるらしく、低くうめいている。
「誰の指示」
その声からは、感情は見られない。
恐怖も、苛立ちも、この状況に対する疑問さえ見えない。
「…誰が、そう簡単に喋るか―――ひっ!」
強気だった男子生徒の声が、一瞬にして恐怖に染まる。
それもそのはず、葦毛の馬が前脚を上げて男子生徒を踏みつぶそうとしていた。
ダンッと前脚が付いたのは、男子生徒の頭のすぐそばだった。
どうやらギリギリで手綱を引いて、少女が軌道をずらしたらしい。
しかし男子生徒は、今にも泡を吹いて気を失いそうになっている。
「誰の指示」
3度目の問いにも、感情は見られない。
男子生徒の目には、馬に対する恐怖と少女に対する恐怖が映っている。
「…く、久遠財閥の人間に…さ、攫えと…」
予想していた答えだったのか、女子生徒の反応に驚きはない。
それ以上の情報はいらないのか、男子生徒の首に軽く手刀を落として意識を奪う。
一連の流れをただ見ていることしかできなかった男は、次は自分の番かと震えた。
しかし、女子生徒が自分に襲い掛かることはなかった。
もう一度男子生徒に向かって前脚を振り上げたさそうな馬の背中を撫でて、宥めている。
「ど、どうして…」
感情の見えない瞳がこちらを向いて、そのあとの言葉を続けることができない。
どうして自分だけ何もされていないのか。
どうしてそんなに強いのか。
誘拐されそうになったのにどうして驚いていないのか。
そのどの疑問も、今の自分の立場では聞くことが許されない質問だ。
誘拐しようとした側の人間であるのに、何も聞けるわけがない。
「理事長に、事情を話したらいい」
「え…?」
何のことかと驚く自分と反対に、女子生徒は変わらず落ち着いている。
「わたしを誘拐しようとした経緯を、包み隠さず。そうすれば、娘は保護してもらえる」
純は、葦毛の馬の毛並みを撫でながらその真っ黒な瞳を見つめる。
「もう、学園では働けないと思うけど」
静華学園を裏切り、孫を誘拐しようとした人物を雇い続けるほど、祖母は甘くない。
ただ他の3人とは違って、この職員は弱みを握られていたようだからそこは鑑みてくれるだろう。
「…自分がやったことの愚かさは、理解しています」
力なく項垂れる職員に、葦毛の馬が近付いていく。
ふんふんと鼻を近付ける馬に、慣れたように手を伸ばす。
しかし、撫でることなくその手を下ろす。
「脅されていたとはいえ、悪いことをした。すまない…」
撫でてくれないことが不満なのか、地面を蹴っている馬に寂しく愛おしそうな目を向ける。
しかし一度も触れることなく、純に頭を下げる。
「…馬たちを、よろしくお願いします」
純はそれに応えるように馬の背中を撫でると、視線を林の奥に向けた。
「…あれを誘拐しろとか、無理があるだろ」
馬の背中に乗り、少し離れたところから双眼鏡を覗いていた男子はため息をついた。
ひ弱な男子生徒はともかく、屈強な男2人が手を出す暇もなくやられていた。
それも一瞬のことで、ここから見ていただけでは男2人が急に倒れたように見えた。
あれは、ただの女子ではない。
人気のないところで男数人で囲めば学園の外くらいには連れ出せるかと思ったが、あれでは何人揃えたところで難しいだろう。
「適当な人間を使っておいて正解だったな」
様子見をするために何かあっても切り捨てられる人間を使ったのだが、結果的にそれでよかった。
あれは、真正面から行ってもどうにもならない相手だ。
もう少し、手段を変える必要がある。
さっさとここから退散するかと思った時、双眼鏡の向こうから感情のない目がこちらに視線を向けた。
「…気付いてるってか」
数百メートルは離れているというのに、ここから覗き見していることは気付かれていたらしい。
ということは、今回の主犯があそこで寝転がっている男子ではないことにも気付いているということだろう。
「面白いな」
割に合わない仕事かとも思ったが、意外と面白そうだ。
誘拐する対象には特に興味もなかったが、ここまで気付かれているとなるとただの女子ではないことに興味がわく。
「いい暇つぶしになるかもな」
口元に笑みを浮かべると、男子はその場をあとにした。
ポツポツと、窓に雫が当たる音がする。
梅雨である今の時期は、雨の日が多い。
純は、授業をさぼって図書室にいた。
図書室の奥は窓が少なく、人気もほとんどない。
室内にいても雨を見ると体調が悪化するので、雨が降った時はこうやって窓が少ない場所でやり過ごすことが多い。
どこか人目につかない場所に隠れるのが一番良いのだが、雨が降るたびに姿を消していると純と雨の関連性に気付かれてしまう。
だからこうやって、あえて人目につく場所にいることもある。
しかし、雨が降っているので体調は悪い。
体は重く、鈍い頭痛が頭に響く。
雨が降ると感覚が鈍るので、いつもだったら感じる人の気配を察知できない。
早く雨が止むことを祈りながら、ぼんやりと本を眺める。
別に読んでいるわけではないのだが、こうやって本を読んでいるふりをしていると人に話しかけられないので楽だった。
「何を読んでいるんですか?」
しかし今日に限って空気の読めない人間が話しかけてきて、思わず舌打ちしそうになる。
その人間が近付いてきたことに気付かなかった自分にも腹が立つ。
声の主を見て、さらに顔を歪めそうになった。
多くの生徒が着る深緑の制服に、人懐っこそうな笑みを浮かべた男子である。
「このくらい、答えてくれてもいいじゃないですか」
「気持ち悪い」
純がバッサリと切り捨てると、人懐っこそうな笑みが消えて口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「なんだ、こういうのが女子は好みかと思ったんだが」
あっさりと偽りの仮面を脱ぎ捨てたあたり、純を試したのだろう。
「あんた、この前俺のこと気付いてただろ」
「だから何」
「あんた、一体何者だ?」
面白そうな笑みを浮かべた視線を、純は興味なさげに返す。
「何故、あいつらに狙われている?嫌いな相手の弱みを握るためかとも思ったが、あんたを人質にするのは骨が折れすぎる。あいつらにとってのあんたの価値は、何だ?」
それをこの男子に教える筋合いはない。
純は椅子から立ち上がり、その場を去ろうとした。
「待てよ」
しかしその腕を、男子に掴まれる。
「せっかく見つけたんだ。もう少し付き合えよ」
「断る」
「無理にでも付き合わせるけどな」
「………」
純は腕を引き抜こうとしたが、男子は手を離すつもりはないらしい。
いつもだったらこの男子を投げ飛ばしてでもこの場から離れたのだが、今日はそれができなかった。
『…力が入らない』
雨の日は、力の調整がうまくできないのだ。
いつもだったらしている手加減が、うまくできなくなる。
無理に力を入れると、この男子の骨を折ってしまいそうだった。
久遠の手先となるような生徒なのだ。
骨を折ったところで純としてはどうでもいいが、対外的にはそうとられない。
まず間違いなく、理事長である祖母に迷惑をかける。
薄笑いを浮かべている男子を睨みつつ、純は仕方なくこのやり取りにもう少し付き合うことにした。
純に睨みつけられて、男子は面白いものを見たように口の端を上げる。
「理事長の孫は、ただの大人しそうなお嬢様じゃなさそうだな」
そのまま肩を押され、純は勢いに押されるまま椅子に座る。
それに覆いかぶさるように、男子は純を椅子に押し付ける。
知らない人間が見れば、仲の良い男女が戯れているように見えるかもしれない。
しかし実際は、拳一つほどしかない距離で殺気交じりの視線が交差していた。
「抵抗しないのか?」
鼻先が触れそうな距離まで近付いても、抵抗はしてこない。
先日はあれだけ楽々と男たちを倒していたというのに、何故抵抗しないのか解せない。
「まさか、俺に気があるとか言うなよ」
「気持ち悪い」
吐き捨てるようにそう言うと、何故か少し楽しそうにしている。
「その方がいい」
『意味が分からない…』
純に拒絶されて楽しそうにしている男子の思考が、本当に理解できない。
少し前にもこんなことがあったな、と純は頭の隅で思い出す。
外国からの客人を接待した時も、こんな状況になった。
どうにも、自分に近付いてくる男はこういうよく分からない人間が多い気がする。
何故だか分からないが、興味もない。
「あの人たちは、とにかくあんたの身柄が欲しいらしい」
目の前の男子の声に、どこかへ行っていた意識が戻ってくる。
雨のせいで、頭の中の思考が鈍い。
「周りがどうなろうと構わないから、連れてこいって言ってる」
純は、ただ反応もせずに視線だけ返す。
「あんたにはそれだけの価値があるのか?理事長の孫で、学年2位の学力を持つつぼみの百合。それ以上のことを知る人間は、学園にはほとんどいない」
男子の手が、純のネクタイに触れる。
深緑のネクタイは、つぼみのメンバーにしか着用は許されないものだ。
そのネクタイをほどくように、結び目に指をかける。
そこまでしても、何も抵抗はしてこない。
「…あんた、何か企んでるな」
さすがに、ここまで何も抵抗してこないのはおかしい。
顔を上げると、薄茶色の瞳にかすかな笑みが浮かぶ。
「図書室の奥で、つぼみを襲う男子。いい見出しになるんじゃない」
ふと気付くと、背後から人が近付いてくるのを感じる。
足音を聞く限り、こちらに真っすぐ向かってきている。
どうやら、何かしらの方法を使って人を呼んだらしい。
さすがにこの場を他の人間に見られるのは、望むことではない。
「どちらかというと、愛を囁き合う男女じゃないか?」
軽口を言いながらも、男子は純から離れる。
その際、指にかけたネクタイをほどいて純の胸元から外す。
そのまま立ち去ろうとしたが、何かを思い出したように一度振り返る。
「そういえば、名前を言ってなかったな。俺は諏訪大和。またな、櫻純」
そう言って、本棚の奥に姿を消す。
その後ろ姿を睨みつつ、鉛のように重い体を起こす。
軽くなった胸元を手で押さえて、軽く舌打ちをする。
「間に合いませんでしたか」
そう言いながら現れたのは、理事長付きの職員である。
スーツ姿に眼鏡をかけた細目の男で、班目という。
屋敷にいる使用人たちと同じく、弥生を主人として忠誠を誓っている人物である。
学園に勤めているので普段は屋敷にいないが、純の事情も把握しているので学園内では頼りになる。
「来てもらっただけで助かったから、大丈夫」
さっきはああ言ったが、あの場面を他の人間に見られるわけにはいかなかった。
だからと言って今の純にはあの男子に抵抗するのは難しかったので、制服に仕込んである発信機で班目に来てもらうように連絡したのだ。
「屋敷から、迎えを寄越しましょうか」
純が立ち上がるのに手を貸しながら、そう尋ねる。
予報では、まだ雨が止む気配はない。
これ以上学園にいるのは、得策とは言えない。
純が雨がトラウマであることを、他の人間に知られるわけにはいかない。
人に弱みを握られるということは、相手に有利な手札を渡してしまうことになる。
足の引っ張り合いが日常茶飯事なこの学園においては、自分の弱みを握られるということは、それはある意味死に等しい。
特に純は、久遠の人間に知られるわけにはいかない。
知られてしまえば最後、純を無力化するために雨の日に狙ってくるだろう。
そして雨の日の純に、それを撃退できるだけの力はない。
「そうする」
かなり不機嫌な声色に、班目は細い目を細める。
不機嫌の理由は大体察している。
「諏訪大和と言いましたか」
「うん」
「厄介な男に、目を付けられましたね」
あの薄っぺらい笑みを思い出して、純はため息をついた。




