婚約破棄された公爵令嬢だけど、田舎で幼なじみと幸せに暮らすことになりました。
「シャルロッテ・レアード、そなたとの婚約を破棄する」
海辺近くの離宮の大広間で催された舞踏会の会場。私を指差しながらそう告げたのは、マーティン王太子殿下。私の婚約者。いや、もう元婚約者というべきなのか。
「マーティン殿下。それはどういった理由なのでしょうか」
彼の心が私から離れていることは、とうの昔に気づいていた。でも、私たちは、次代の国王たる王太子とこの国最大の貴族である公爵家の令嬢なのだ。簡単に婚約関係を解消できることなど出来はしないはず。
「シャルロッテよ。そなたには心当たりがあるだろう?」
王太子は、憎々し気な表情で私のことを睨みつけている。でも、私に非などあったのだろうか。将来の王妃として、日々真摯に努力を重ねてきたこの私に。
「いえ、まるでわかりません」
「シャルロッテよ、白々しいぞ。そなたは、このジョシー殿を毒殺しようとしたであろう。証拠は残っているのだぞ!」
王太子はの傍らに寄り添うように立って、私を見ていたのはジョシー・フローレス。新興貴族のフローレス男爵家のご令嬢。ここ数か月、王太子との距離を縮めている人。可愛らしい容姿をしているのだけど、男性に見せる態度と女性に見せる態度は露骨に違っていて、あまり好感の持てるタイプではない。
でも、私がこの人を毒殺しようとした? 何を言っているのかわけがわからない。
「マーティン殿下。誤解ではございませんか。私にはまったく心当たりがございません」
「この期に及んでしらばくれるとはな。実に、ふてぶてしい女だ。さきほど夕刻、ジョシー殿が口にしようとした焼き菓子には、毒が塗りこめられていたぞ。その焼き菓子は、そなたの実家、レアード公爵家から送られたものではないか!」
王太子は、興奮した様子で顔を赤らめながらそう言った。ええ、その焼き菓子は本日の舞踏会の参加者全員に私の実家からお配りしたものよ。でも、私自身はその焼き菓子に触れてもいないし、誰かに毒を塗らせることなんてこともするはずがない。
「マーティン殿下。その焼き菓子は――」
「ええい、つまらぬ言い訳はもうよい。そなたの話など聞きたくはないわ。誰か、この女をこの場からつまみ出せ!」
王太子はそう命令したが、お付きの侍従や離宮の衛兵たちは困惑した様子だ。私は、レアード公爵家の令嬢なのだ。彼らが私に気軽に触れることはできないだろう。まあ、仕方ない。私からこの場を立ち去るしかないか。
「マーティン殿下。わかりました。本日は、これで失礼させていただきます。それでは、ごきげんよう」
私は身を翻し、離宮の大広間を去った。私が振り向く瞬間に、ジョシーがニヤリと冷酷な笑いを浮かべたのを見逃しはしなかった。
◇◆◇
その日から一か月。私は王都の公爵家の屋敷で謹慎生活を送っていた。もちろん、私がジョシーを毒殺しようとしたなんて、まったくの濡れ衣だ。確かな証拠が見つかるはずもない。だから、私が罪に問われることはなかった。
だけれども、大勢の人の目の前での一国の王太子が発した言葉は、けっして軽くはなかった。毒殺未遂事件の証拠が無かったからといって、あの発言を取消すことなどできるはずはない。
今日、正式に王宮から、私と王太子との婚約解消を告げる使者が来訪した。お父様は、使者の口上を苦虫をかみつぶしたような表情で聞いていた。
使者が帰るとすぐに私は自分の部屋に戻された。お世話係りの侍女さんも心配そうな様子で私を見つめながら、部屋を出ていく。
「はあ、よかった。これで自由の身になれた……」
私は一人になると、安堵の息をつきながら、独り言を呟いた。
正直に言うと、王太子の婚約者、つまり次代の王妃になると言われたときから、強い重圧を感じていた。一国の王妃として、やると定められたことを定められた通りにやる生活。そこには一切の自由なんて存在しないはずだから。
私に寄り添ってくれるはずのマーティン王太子も、とても身勝手で傲慢な性格だった。ちょっとしたことですぐに癇癪を起こし、周囲の者にキンキン声で当たり散らす。とても尊敬できるような人ではなかった。
私は椅子から立ち上がると、手を伸ばして大きく背伸びをした。肩がとても軽くなったような気がした。
◇◆◇
それから半年間。私は屋敷の外を一歩も出ることが無かった。離宮での毒殺未遂事件とその後の婚約破棄騒動は、王都に住む者ならば誰もが知っていた。渦中の人である私と会って話したいと思う人なんて、いるはずもない。
そんな退屈な日々を送っていたある日のこと、私はお父様の部屋に呼び出された。
「お父様、お呼びでしょうか」
「うむ、シャルロッテよ。そこに座りなさい」
「はい」
私は、大人しく部屋の中央の大きな椅子に座る。一体、何の話だろう?
「シャルロッテ。お前の縁談が決まった」
「ええっ? 私の縁談ですか?」
つい、大きな声を出してしまった。だって驚いてしまったのだ。毒婦として悪名高い私と結婚したい人なんているはずがない。そのうち、修道院に行くしかないのだろうと思っていた。
「うむ、そうだ。だがな、気を落としてほしくないのだが、縁談の相手は一応は貴族だが爵位を持っているわけではない」
「はい。まあ、そうでしょうね」
「その相手はな、お前もよく知っているフランコ侯爵家の次男坊、フリオ殿だ」
「ええっ!? フリオ君なの!」
フリオ君は、私と同い年。フリオ君のお母様と私のお母様が、貴族学校時代からの大親友ということもあり、子供の頃から一緒に遊んだ幼なじみだ。優しくて真面目な努力家で、誰からも好かれる男の子なのだ。
「ああ、お前も知っての通り、フリオ殿は去年、フランコ侯爵家の傘下の農村で領主をされている。お前もその村で領主夫人となる。まあ、王太子妃とはえらく違ってしまったが、気を落とさないでほしい」
「はい! 大丈夫です!」
思わず声が弾んでしまった。フリオ君の奥さんだったら、どこに住んだとしても耐えられると思う。優しいし、気を遣ってくれるし、それにとても誠実だし。
「それで、婚姻の日取りなのだが、来月、フリオ殿が王都に用事で来られるとのことだ。その機会に王都の教会で結婚式を挙げ、お前はそのままフリオ殿と一緒にご領地に向かうこととなる」
「えっ? 来月ですか? あ、はい。でも、大丈夫です。しっかりと準備いたします!」
その後もお父様は細々としたことをおっしゃったが、浮かれた私の耳には入らなかった。
へへへっ、そうかあ。私はフリオ君の奥さんになるのかあ。子供の頃いっぱいおままごとで奥様ごっこをしたなあ。
「はい、あなた。今日は特製のウミガメのスープですよ」
「ああ、なんでだろう。ロッテちゃんのスープは不思議な味がするなあ」
「えへへへっ。私の愛情がいっぱい詰まってるからだよ」
ああ、なんて楽しい思い出だろう! あのおままごとが現実のものになるんだ!
◇◆◇
縁談の話を聞いて、最初のうちはずっと浮かれていた。でも、時間が経つにつれ、不都合な現実と向き合うようになってきた。
そう、私の毒婦としての悪名は今や王都にとどまらず、この王国全土に広まっているらしい。当然、フリオ君の耳にも入っていることだろう。
ひょっとして、フリオ君はこの結婚に乗り気ではないのではないか。私のお父様に無理やり押し切られて、イヤイヤ結婚を承諾したのではないか。いや、ひょっとして結婚式の場に現れることすらないのではないか。そんな考えが私の頭から離れないようになってしまった。
そんな風に思い悩んでいるうちに結婚式の当日になった。フリオ君は、この日の朝に、領地から王都に着いたばかり。式の前にフリオ君の気持ちを確かめることはできなかった。
私は、純白のウェディングドレスに身を包むと、家族と一緒に馬車で王都中央にある教会に向かった。
オルガンの音が鳴り響く中、お父様にエスコートされて荘厳な造りの教会の建物内へ入る。通路の両脇に座る参列者は、驚くほど少ない。お互いの家の身内の者だけだ。まあ、仕方がない。今の私は毒婦なのだから。
通路の奥の祭壇の前には、純白のタキシードに身を包んだ凛々しい男の人が立っている。フリオ君だ。フリオ君に会うのは二年ぶり。ああ、また背が伸びたんだ。体つきもガッシリとしていて姿勢もいいし、本当に格好よくなってる。よかった。ここに来てくれて本当によかった。
そして、私はフリオ君の隣に並んで立つ。神父さんは、私たち二人に結婚に関する有難い教えを聞かせてくれた。
そして、いよいよ誓いの言葉だ。神父さんがフリオ君に問いかける。
「新郎フリオ。あなたはここにいるシャルロッテを、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、妻として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」
私は、フリオ君、お願い、誓って下さい! と祈るような気持ちで神父さんの言葉を聞いていた。
「はい、誓います!」
フリオ君は明るくはきはきとした声でしっかりと答えてくれた! うん、やったあ!
「新婦シャルロッテ。あなたはここにいるフリオを、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、妻として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」
「はい! 誓います!」
私もすぐさまそう答えた。
そして、二人は指輪を交換する。神父さんが、フリオ君と私が夫婦となったことを高らかに宣言してくれる。こうして、私とフリオ君の教会での結婚式はつつがなく終わった。
◇◆◇
夕方には、フリオ君の実家、フランコ侯爵家の王都屋敷で食事会が催される。本来なら、公爵家の令嬢と侯爵家の子息の結婚式なのだから、大勢の来客を招いて華やかに行われるべきものだ。
でも、今の私にはそんな華やかさは相応しくない。お互いの家族、数名ずつが参加するだけのこじんまりとした食事会となっている。
その食事会の直前、フランコ侯爵家のお屋敷の一室で、私が長椅子に腰かけて一人で休憩をしていると、トントントントン、とドアを優しくノックする音が聞こえた。
「ロッテちゃん、今、入っていいかな?」
フリオ君だ!
「はい、もちろん。どうぞ!」
私は慌てて姿勢をただすと、フリオ君を招き入れた。
「ロッテちゃん。お疲れ様。大丈夫? 疲れてないかい?」
「うん、大丈夫、平気だよ。フリオ君こそ大丈夫。王都に着いたばかりなんでしょ」
「はははっ、僕なら大丈夫さ。教会ではさ、ゆっくりとお話ができなかったら、今、お話してもいい?」
「うん、もちろん!」
二人きりで話をするなんて何年ぶりだろう。ああ、胸がドキドキしてきた。
「ロッテちゃんは、この結婚をどんな風に思っているの?」
「……えっ?」
フリオ君からは思いがけない言葉が出てきた。いや、式の前まではそれなりに覚悟はしていた。でも、教会で神父様に対して、フリオ君がはっきりと誓ってくれるのを聞いて安心をしていた。
ああ、それなのに、こんな質問をしてくるなんて、フリオ君もやっぱり私との結婚を悩んでいたんだ。
「僕はさ、ロッテちゃんにすごく申しわけなく思っているんだ。ロッテちゃんが、僕みたいな爵位も持たない田舎の領主に嫁いでくれるなんて、とんでもないことだからね」
「……えっ?」
えっと、フリオ君は、いったい私に何を言おうとしているの?
「いや、本当に悪いとは思っているけど、最初にロッテちゃんとの縁談の話を聞いたときに、深く考えずに飛びついちゃったんだよね。ああ、やったあ。ロッテちゃんと結婚できるなんて、夢のようだってね。もう、そのときは自分のことしか考えてなくてさ、ロッテちゃんの気持ちまで考えられなかったんだよ。本当に、ただただ嬉しくて、舞い上がっちゃってね。はははっ」
フリオ君は顔を赤らめながら、照れくさそうに頭を掻いている。まるで子供の時と同じように。
「だからさ、せめてもの罪滅ぼしに、できるだけロッテちゃんの言うことを聞いてあげたいなと――」
「ううん、罪滅ぼしなんて、そんなの必要ない。私も、私も、フリオ君と結婚できて、夢のようだって思ってる。すごく嬉しいって思ってる。最初に話を聞いたときにも、私もすごく舞い上がったよ。だから、罪滅ぼしなんて、本当に必要ないから!」
自分の声が、興奮のあまり震えているのが分かる。気持ちが昂って、目には涙が込み上げている。ああ、よかった。フリオ君も私と同じ気持ちだったんだ!
「えっ、そうなの。本当に? はははっ、それはすごく嬉しいな。よかったあ。安心したよ」
「うん、私も安心した」
二人はどちらからともなく近づいた。そして、しっかりと互いの体を抱きしめ合った。ああ、フリオ君の体は暖かいなあ。
「でもさ、僕の領地はすごく田舎で何もないから、期待しないでね。あるのは、小麦畑と湖と、あとは温泉ぐらいだから」
「温泉?」
「うん、そう。地面から温かいお湯が湧き出ているんだよ。今、そこに大浴場を作らせているから。完成したら一緒に入ろう」
へえ、地面からお湯が湧き出てるんだ。すごく不思議だな。……んっ? 今、フリオ君、一緒にお風呂に入ろうって言った?
私は、顔を上げてフリオ君の顔を覗いてみた。フリオ君は、少し恥ずかしそうな顔をしていた。ふふふっ、なんだ、フリオ君も恥ずかしいのか。うん、でも、いいよ。二人は夫婦なんだし、一緒にお風呂に入るのも悪くはないよ、きっと。
「あっ、そうだ。そこの戸棚に焼き菓子が入ってるから。老舗のお菓子屋ですごく美味しいって評判のやつみたいだよ。ロッテちゃん、甘いものが好きだったでしょ」
「うん、大好き。特に、焼き菓子は…………」
私は思わず息を呑んでしまった。焼き菓子と聞いて、あの海沿いの離宮での事件を思い出してしまったのだ。そう、そして、とても嫌な考えが頭に浮かんできた。
ひょっとしたら、フリオ君はずっと田舎にいたので、あの事件の話は聞いていなかったのかもしれない。そう、だから、私と結婚すると聞いて素直に喜んでくれたのだろう。
もし、あの事件の噂を聞いてしまったら、フリオ君の私を見る目が変わってしまう? イヤだ。そんなのは耐えられない。でも、このまま隠し続けることは絶対にできないだろう。
私は、勇気を出して聞いてみた。
「ねえ、フリオ君は、あの離宮での舞踏会のお話をもう聞いていたりする?」
「ん? ああ、あの話か。うん、聞いてる。聞いてる。ひどい話だよね。もう、みんな、ロッテちゃんのことを知らないから、適当なことばかり言ってるしさ。僕は、ずっと腹が立ってるんだよね」
フリオ君は、口を少し尖らせてそう言ってくれた。
「ああ、そう、フリオ君は知ってたんだ……」
私は思わず両手で自分の口を覆った。よかった。フリオ君はあの濡れ衣の話は知っていた。それでも私を信じてくれた。そして、私を選んでくれたんだ!
「うん、そう。ほらっ、ロッテちゃんは子供の頃から正義感が強いからさ、よっぽどのことが無いとあんなことはしないよね」
「…………んっ?」
「いや、すごく分かるよ。あのジョセだかジョシーだかいう男爵家の令嬢は、よっぽどの悪いやつだったんだろ? このままじゃ、あの女がこの国をダメにすると思ったから、ロッテちゃんは勇気を振り絞って頑張ったんだよね?」
「えっ? い、いや、そうじゃなくて」
「うん、でも、本当にあの女を仕留められなくて残念だったよね。僕を呼んでくれていたら、ちゃんと協力してあげたのになあ」
「あのお、フリオ君、本当にそうじゃなくて」
「あっ、ロッテちゃん、もう食事会が始まる時間だよ。そろそろ行こう!」
フリオ君は、とんでもない方向で私のことを誤解していたようだった。こういうのも買いかぶりというのだろうか。うーん……。
もちろん、私は食事会の後、二人で仲良く寝る前に、フリオ君の誤解を解いてあげたのでした。
◇◆◇
王都から、フリオ君の領地までは、馬車に乗って十日余り。二人で一緒に旅ができて本当に楽しかった。仲良くおしゃべりをしている間に、どんどん馬車は進んでいく。
そして、峠を越えた盆地にあるフリオ君の領地に到着した。領地の中央部には小さな村があって、その中心にレンガ造りの小綺麗なお屋敷が建っていた。私たちはお屋敷の前で馬車から降りた。
「へえ、思っていたよりも立派な建物ね」
「ははは、僕がここを引き継いだ時に父上がお金を出して新築してくれたんだ。僕は、そんなお金があったら、水路の整備とか道の補修に使いたいって言ったんだけど、父上に、領民に軽く見られないようにすることも領主として大切だって言われちゃってね」
うん、フリオ君と一緒ならどんなところに住んでもいいと思ってたけど、綺麗なところに住めるのだったらそれに越したことは無い。
「フリオ様、おかえりなさいませ。お疲れさまでございました。奥様、ウーラワ村にようこそいらっしゃいました。執事のエチェバリアと申します。何もないところですが、悪い人間はおりませんので、ご安心なさってくださいませ」
お屋敷の中から執事さんが現れて、玄関の前でフリオ君と私に挨拶をしてくれた。辺りを見回してみると、村の住民たちも私たちを見てニコニコと笑っていることに気が付いた。私が軽く手を振ると、オオッという嬉しそうな歓声が沸き起こった。
「この領地の人間は全員、奥様のことを歓迎しております。なにかございましたら、遠慮なく何なりとお申し付けください。できる限りのことを致したいと思っております」
執事さんは、とても親切そうな人だった。
「有難うございます。お気持ちは大変嬉しく思います。私も、領主の妻として、領民の方々にできる限りのことを致したいと思っておりますので、何か足りないことがありましたら遠慮なくおっしゃってくださいね」
私は、丁寧に挨拶をした。王妃となるために色々と勉強してきたこともある。せっかく学んだことを少しでもこの領地の方々の為に活かしていきたい。私は本心からそう思ったのでした。
◇◆◇
そして、フリオ君の領地での暮らしが始まった。慣れない田舎暮らし。大変なことも少なくなかった。でも、領民の皆さんはみんないい人ばかりで、優しく私のことを助けてくれた。
それに何より旦那様のフリオ君。領主としてのお仕事はとても忙しいのに、自分の身の鍛錬は欠かさない。それなのに、私にもいつも優しく気遣ってくれる。本当に素晴らしい旦那様だった。
だから、私も彼のお仕事をできる限り支えようと必死で頑張った。
毎年の収穫量を畑一つ一つでキチンと記録し、それを整理分析してどこの畑にどの作物を植えればいいか考えた。都会から商人が来た時は、領民が騙されないように交渉の場に同席した。領民同士の言い争いが起きたときは、双方の言い分をしっかりと聞いて、公正な仲裁を行った。隣の領地との間で諍いが起きないように、領主同士の付き合いにも気を配った。そして、領民が楽しく暮らせるように、節目節目に楽しいお祭りごとを企画もしてみた。
気づけばフリオ君の領地は数年で劇的に発展し、ウーラワ村の人口も倍近くにまで膨れ上がった。
そうそう、もちろん、お仕事を頑張ったばかりじゃない。フリオ君との家族の時間も心から楽しんだ。
村の外れにある温泉を利用した大浴場。普段は、男湯と女湯に別れていて、大勢の領民や近隣からの泊りがけでの来訪者で賑わっている。
でも、月に一度はフリオ君と私の貸し切りの時間を作ってもらっている。ふふふ、領主特権というやつだ。そして、その時間は、仲良く二人でお風呂につかっているのだ。初めのうちは、フリオ君の前で裸になるのが恥ずかしかったけど、すぐに慣れた。二人でお風呂でノンビリしながら、いろんなことを語り合うのは本当に楽しい。
私とフリオ君は、まるでオシドリの夫婦のようにとても仲良しだった。やがて、二人の間には、女の子と男の子が一人ずつ生まれた。子供たちはとても元気で可愛くて、私とフリオ君はとても幸せだった。
そして気が付けば、そんな幸せで充実した田舎暮らしを五年間も送っていたのでした。
◇◆◇
ある日の晩、子供たちを寝かしつけ、夫婦二人で仲良く語り合っているところに、王都のフランコ侯爵家から急ぎの報せが届いた。
報せを読むフリオ君の表情がみるみるうちに曇っていく。そして、読み終わると黙り込んでしまった。
「フリオ君、何か問題でも起こったの?」
「ああ、王宮でとんでもない事件が起きたようだ」
「えっ? とんでもない事件?」
「うん、驚くような話なんだ。先週の王宮での食事会で、国王陛下が毒殺されそうになったんだ」
「ええっ!?」
私は驚いてしまって二の句が継げなかった。どうしても、自分が濡れ衣を着せられかけた五年前の事件を思い出してしまう。
「しかもさ、その容疑者が王太子妃らしいんだよ」
「えええっ!?」
マーティン王太子の妃は、五年前の事件のときに「被害者」だったフローレス男爵家の令嬢、ジョシー。私と王太子との婚約が解消してすぐに二人は婚約。その一年後には大勢の賓客を招いて大々的な結婚式を挙げたとの話を聞いている。
フリオ君は、また暗い顔をして黙り込んでしまう。
「あの、フリオ君、それで王太子妃はどうなったの?」
「彼女は容疑は否認してるんだって。王太子も、これは自分を廃嫡させるために、誰かが仕組んだ陰謀だって主張してる。それで、妃を連れて王都の外れの要塞に立てこもっているらしいんだ」
「そうなんだ。恐ろしい話ね……」
おそらく王太子の抵抗も長くは続かないだろう。あの我がままで傲慢な性格のせいで、彼には人望がまるでない。おそらくこの国内で彼を積極的に支持する人間は限られるだろう。
でも、フリオ君は難しい顔をしたままだ。
「それでさ、ロッテちゃん。戦いの準備をするようにと父上から指示があった」
「戦いの準備? いったいなぜ?」
「メッライ帝国が国境近くで不穏な動きを見せているとのことだ。この動きが王太子の立てこもりと関係があるのか、まだわかってはいないようなんだけどね」
えっ!? 私がまだ幼い頃には、帝国と王国の間で大きな戦争があった。王国北部の平原で大規模な戦闘が繰り広げられたものの結局は決着がつかなかった。一年ほどの膠着状態の後、休戦協約を結んで双方が軍を退いた。それ以降は、両国の間は友好関係とは言わないまでも、直接的な衝突は起きていなかった。
「もし帝国と戦争になったら容易なことにはならないだろうね。だけど、戦争に負けてしまうとこの国は属国だよ。絶対に負けられない!」
フリオ君は、拳を強く握りしめそう言った。爵位こそないもののフリオ君も貴族の一員だ。国を守る為に戦うことは彼の義務なのだ。
「ロッテちゃん。僕がいなくなったときは、この領地の管理をよろしく頼むよ」
「うん、わかった」
そして、そのまま二人とも黙り込んでしまった。私は、戦争にならないことを、フリオ君の身に危険が迫らないことを、ただただ神に祈っていた。
◇◆◇
「フリオ様、そして従士の方々、皆様の御武運を心よりお祈り申し上げます。この地は残された者たちが守りますのでご安心ください。領民一同、あなた方がお元気に帰ってくることを待っております。皆様に慈悲深き神のご加護があらんことを」
「おとうしゃん、がんばってねぇー」「ぶぅーっ」
「ああ、ロッテちゃん、リーンちゃん、ズーサくん。そして、村の皆さん。これから王国を守りに行ってきます。後のことは頼みました」
王都から報せが届いてから一週間後、フリオ君は領地から選抜された五十名の従士たちと共に王都に向かうことになった。今は村の入り口で、出陣する一行のお見送りの儀式中だ。
王太子への支援という名目で帝国の軍勢が国境を超え、王都に迫っているという続報が届いたのだ。帝国の軍勢は約三万。グラシアル将軍という歴戦の勇者に率いられているとのことだ。王太子と王太子妃も、闇夜に紛れて要塞を抜け出して、帝国軍と合流しているらしい。
私は泣きたい気持ちを必死に抑え、フリオ君を見送った。フリオ君が危険な目に逢うのは嫌だけど、でも戦争に負けると多くの人が悲惨な目に逢ってしまう。フリオ君は、貴族だ。何かがあったときは、国を守るため、先頭に立って戦わなくてはいけない。
一行は、街道を王都を目指して進んでいった。
「フリオ君、どうかご無事で」
私は、フリオ君一行が見えなくなるまで、その姿を見送り続けたのだった。
◇◆◇
帝国軍との戦いが始まってから半年後。私は馬車に乗っている。ちょうど王都の正門に到着したところだ。御者さんが衛兵と入門に関してなにか話し合っているようだ。しばらくすると、無事に王都の正門を通ることができた。
私の腕の中では、息子のズーサくんがすやすやと眠っている。向かい側の席では、娘のリーンちゃんが窓から興味深げに外の様子を眺めている。
「おかしゃん、ここがおーと?」
「ええ、そうよ」
「おうちが、いっぱいだねぇ」
「そう、ここには大勢の人が住んでるからね」
町を歩く人の中には、怪我をしている人もチラホラといる。中には片腕や片足を失っている人も。だが、町を行く人々の表情は明るい。
「すっごく、おもしろそうなところだねぇ」
「ええ、とても楽しい町よ。リーンちゃんもすぐに気に入ると思うわ」
馬車はフランコ侯爵家のお屋敷の前で停まった。屋敷の使用人たちは、玄関の前で私たちのことを待っていてくれた。私たちが馬車から降りるとすぐに、屋敷の中からフリオ君が現れた。
「やあ、ロッテちゃん、リーンちゃん、ズーサ君。長旅お疲れさまでした。大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫です。侯爵閣下こそお疲れではございませんか?」
「ちょっと、ロッテちゃん、侯爵閣下と呼ぶのはやめてよ。キミからそんな風に呼ばれると落ち着かないよ。それにそんなに硬苦しい感じに話さないで。ははは」
フリオ君は明るく笑っている。そう、フリオ君は先月、フランコ侯爵家を継いだのだ。
「あ、ごめんなさい。それで、お義父上様は、お元気なの?」
「ああ、もう大丈夫さ。でも、ウーラワの温泉で傷が完全に癒えるまでゆっくりしたいと言っているよ」
先代のフランコ侯爵は、帝国との戦いで全身を負傷してしまったのだ。なんとか一命をとりとめたものの、以前のように活動することは難しいとの話だった。
「そうね。あの温泉は、怪我からの回復には効果抜群だもんね。それで、お義兄様への御処分は決まったの?」
「ああ、なんとか処罰を受けることは免れた。ただ、貴族特権は剥奪されちゃうことになったよ」
フリオ君のお兄さんのマットさんは、もともとフランコ侯爵家の嫡男だった。マットさんは元王太子のマーティンの子供の頃からの学友で、あの反乱以前は、将来にわたって王宮で重用されることが期待されていた。
「そう。お義兄様は、あの反乱とは直接関わっていなかったのに、なにか可哀そうね」
「まあ、残念なことだけど、仕方ないんだろうね。本来ならばさ、あの男が反乱を起こす前に諫めなくてはいけない立場だから」
フリオ君は眉をひそめながらそう言った。お義兄様に代わって侯爵家を継いだわけだけど、フリオ君はけっしてそのことを喜んでいるわけではない。
「おとうしゃん、おかあしゃん。お話が長いよ。リーンちゃん、つかれたあ!」
「ブギャァーーン!」
長話で子供たちを退屈させてしまったようだ。私たちは、慌てて屋敷の中に入った。子供二人をお世話係の侍女に預けて、私とフリオ君は居間で話を続けた。
「あの二人の処罰について何か聞いている?」
私は、元王太子・マーティンとその妃・ジョシーの処遇について訊ねた。
「ああ、もう取り調べはすべて終わったと聞いているし、関連する人物の処刑も始まっている。あの二人も、来週に王宮の中庭で処刑されるみたいだね」
「そう、処刑されちゃうんだ……」
「まあ、帝国の軍勢をこの国に引き入れたのは、大罪だからね。それに国王陛下の毒殺未遂の件もあるし。あの二人を生かしておくなんてあり得ないよ」
「そうねえ……」
正直に言って、あの離宮での出来事もあって、あの二人に対しては良い感情を持っていない。でも、自分の知り合いが処刑されると聞かされると、あまりいい気分はしてこない……。
「ねえ、ロッテちゃんは、マーティンのやつに会いたいって思ってる?」
「えっ? なんで?」
「いや、ほらっ、元婚約者であったわけだしさ」
フリオ君はちょっと心配そうな顔をしながら私のことを見ている。
「ううん、全然。まあ、婚約者といっても、私が望んでなったわけじゃなかったし。それにあの人のことが特に好きってわけでもなかったから」
私がそう言うと、フリオ君の顔がぱぁーっと明るくなった。
「そう、そうなんだ。それはよかったよ。まあ、マーティンとジョシーは王宮の記録からも抹消されるみたいだから、もう関わりは持たない方がいいよね」
「うん、そうなんだ。じゃあ、私の記憶からもあの二人は抹消しておくわね」
うん、そう。もう、あの二人のことは過去のこと。今さら考える必要なんて、まったくないでしょう。
「そうそう、それがいいよ。あっ、そうだ。来月にはさ、戦勝記念の大舞踏会が王宮で開かれるから、ロッテちゃんもドレスを新調しなよ。ほらっ、戦争での褒賞金も貰えるからさ、ちょっと贅沢しても構わないよ。それにこれから王都住まいになるとパーティーもいっぱいでなくちゃいけないから、もう好きなだけ新しいドレスを仕立ててよ」
フリオ君は、明るくそう言ってくれた。まあ、贅沢な暮らしがしたいわけじゃないけど、フランコ侯爵家の奥方として恥ずかしい身なりもできないよね。
「うん、わかった。どうも有難う。嬉しいわ」
「はははは、ロッテちゃんに喜んでもらえて僕も嬉しいよ。うん、色々と忙しくなると思うけど、これからもよろしくね」
「うん、よろしく。フリオ君、愛してるよ」
私は優しく微笑みながら、愛しの旦那様に自分の気持ちを正直に伝えた。
「え、えっ、ロッテちゃん。いきなり、どうしたの? はははっ、い、いや、すごく嬉しいけど。うん、僕もさ、ロッテちゃんのことを愛してるよ」
そして、フリオ君は優しく私のことを抱きしめてくれた。フリオ君に抱かれていると、とても幸せな気分になる。生きているっていいことだなって気持ちになる。これからの人生も私はこの人と共に生きていく。ああ、それって、とても素晴らしいことじゃない!
こうして、私は王都でフランコ侯爵家の奥方としての暮らしを始めることとなった。
思えばこれまでの私の人生は、本当に波乱万丈だった。ひょっとして、これから先も、いろんなことが私の身に起こるのかもしれない。でも、愛する旦那様、フリオ君と一緒ならば、たとえどんなことであっても乗り越えられるだろう。私は、強くそう信じているのです。
~ ~ 終 ~ ~
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