神道004 -縄文文化の宗教観-
カミという言葉はどういった成り立ちなのか。
火水でカミと読むのが語源である。
土器を作り調理をするときに不可欠となる、火と水をそのまま組み合わせてカミとした。
ただ、縄文文化の幕開けを飾る土器の発見というイベントは原始的では済まされない偉大な業績である。
これによってヒトは人類となり文明を築いた、とはいえると思う。
この喜び、気づきを純粋にカミの姿に仮託している。
そういった意味で、非常に原始的で力強く素朴な縄文の宗教観である。
ヒトは日本の古ヤマト言葉においてどう表現されてきたか。
これを考えるうえで格好の表現がある。
忍者を示す言葉としてクサ、ハッパがある。
王が民を表現するときタミグサと表現する。
つまり古ヤマト言葉においては、クサ=ヒトなのである。
これをさらに細かく見ていくと、ヒトにある部分を表す言葉はクサにも対応するものがある。
目と芽、歯と葉、歯ぐきと葉茎、鼻と花などがそれである。
この音が同じなのは偶然ではない。
古ヤマト人にとって、クサとヒトは区別されないものだったし、区別しないことが宗教的に正しいということになる。
だからこそ、クサは根があるのにヒトには根がないため、定住することは「根を生やす」となる。
「浮き草」のような暮らし、「根なし草」というのは、無職・住所不定で非常に不名誉なことになる。
同時に「根性なし」は蔑まれるのである。
こういった表現が罵倒語になるのが日本語の面白さだと思われる。
ここであえて取り上げるのが、天叢雲剣である。
これはヤマトタケルの手に渡ったときに、草薙剣になった。
クサがヒトも指すとすると、この剣はクサもヒトも薙ぎ払う名剣ということになるわけである。
これに気づいていない方は意外と多い。
言霊思想とよばれるものは、日本において現在でも一般的であり、現代ではそれを引き寄せの法則などと呼び替えているようである。
言葉は発言した瞬間に叶う、もしくは発動して現実化する、というのが言霊の思想である。
しかし、このことを信じてしまったせいで、犠牲になってしまったものがある。
それは、文書化された歴史である。口伝は各地の神社に残っている。
今でも、日本人は本名よりも役職名、名よりも姓を公式には選択的に使う。
よほど親しい人以外には敬称なしで下の名を言わせない。
呼び捨てという言葉には非常な怒りがこもっている。
愛している、という言葉も、特に男性は、一生のうち一度言うか言わないか、だと思われる。
言葉が現実化するのであれば、その人の名をみだりに唱えることはその人の人生を支配する、ということを意味するためだ。
そのため、優秀で目立つ人、英雄視された人ほど、名がはっきりとは残りにくくなり、様々な言い替えや異名が設定されることになる。
年代的なもの、血縁関係的なものは特に、はっきり書き残すと、どう利用されて呪われてしまうかわからない。
この場合重要なのは、呪う方法が具体的にあるかどうかではなく、呪う方法があるかもしれないと恐れを抱く、という部分にある。
こうなると、武内宿禰のごとき、三〇〇年の時を生きた、というような話が残ってしまう。
実際は、現在の歌舞伎役者のような襲名制度があって、どこで線を引けばいいかわからない。
複数人を一個人としてみなして記述してしまっている、ということがあると思われる。
神武天皇や欠史八代の実在性が疑われるのも、同じような問題であると思われる。
そもそも日本は縄文時代一万年以上が、はっきりした歴史の体裁をとっていない。
この時代は特に、優秀で目立つ人、英雄視された人は、ぼんやりとした事績だけしか残っていない。
どれぐらい前の人かすら良く分からなくなり、血縁関係や実際の所在を追うことすらできない。
この辺を先史として記述する際、神話のような形で記述するしかない、というのは、やむを得ない事情であるといえる。
つまり、実際は神話でないという可能性はかなり高いと思われる。
ただ、支那のごとき、時の革命政府の官製正史という発想自体がなかったため、個々の物語られる内容には政治的な中立性がなんとなく保たれた。
つまり、日本人の几帳面でまじめな性格的な部分もかんがみると、公正でないと感じる歴史、政治的に中立でないプロパガンダ的な捏造や飛躍が含まれる歴史記述は、徹底して避けられた、と見ている。
むしろ皇族方の不名誉な事績などは、血筋的なあやしさも含めて露悪趣味・ゴシップ的に採用されていると思うのだ。
ヤマトタケル、応神天皇、雄略天皇、武烈天皇、継体天皇のあたりは特にひどい。
支那正史における王朝末期のごとき記述内容まである。
逆に言えば、万世一系という天皇家の継承論理が盤石であり、疑いの余地があまりないからこそ、こういう部分でお遊びができると理解すべきである。