神道028 -儒教と理気二元論-
今般よく見かける議論の中で、儒教と理気二元論がある。
まあおおむねあの困った隣国の性質的な部分を説明するのに使われる。
しかしその中でこういう認識を披露する方々がある。
曰く、古代国家の発想だ、華夷秩序的で頑迷である。
まず、理気二元論について詳述してみる。
気の世界は、律令、物理的法則等に支配された民の世界である。
その上には理の世界がある。
ここは徳の高い君主が管理し、天の意思に従い管轄する世界である。
よって理の世界つまり道理の世界は、気の世界より優越する世界である。
また理の世界は、気の世界の世論の影響を色濃く受ける。
君主が徳を失うと、たちまち理の世界は革命を求める。
実は理気二元論に最も符合した世界を今でも維持している国家がある。
支那や朝鮮だと思うだろうか。
違う、断じて違う。
何度も言うが、こんなことが可能なのは今でいう先進国だけである。
彼らは徳の高い君主というファーストステップからして準備できていない。
実はこの徳の高い君主を用意するには、徳の高い民衆がいるのだ。
徳の高い民衆に支えられてこそ、徳の高い君主による律令国家は正統性を得られる。
もちろん十七条憲法を頂点とする律令体制は重要である。
この理気二元論というやつは何のことはない。
わが国日本の朝廷を頂点とする律令政治体制なんである。
今では立憲君主制という呼び名に変わっているため、勘違いしやすい。
天皇制というなんとも言い難い言い方に変わっているのも誤解されやすい。
歴史は悲しいかな途切れず連続しているものである。
日本が実は上記の律令国家であることをやめた日など、今なおないのだ。
もちろん時によっては屈辱をなめたり、貴族から武士に実権が移ったりはした。
しかし政治の実権というものは、結局気の世界の話である。
何度も改定は繰り返されたが、憲法は依然として権威的で重い。
何より憲法は今でも、天皇が憐れんで民衆に導きを与える態で書かれている。
国民主権だから、基本的人権を尊重するから、皆で話し合え。
そして、お前たちのいいような政治を平和的にやれ。
わたしはその間、世界の安寧と平和を祈ろう。
こう指導されている態なのである。
これが何よりの証拠である。
つまり理気二元論や儒教は、いまだに我が国にとっても重要だ。
今西欧の理論やキリスト教的発想も大事なように。
結局のところ、こういうバランス感覚が重要だと思う。
我が国が先進国として今後も生き残るためには。
古いから駄目だとか、新しいから受け入れられないとか。
こういうのが一番よくない。
上記を踏まえてならば、困った隣国の歪んだ思想をあげつらうのは悪くない。
どこまで行ってもどんな立派な発想も、結局は人によるのである。
全然徳が高くはない民族だからこそ、徳の高さを上下関係だと誤認するのである。
平気で残酷なことができる民族だからこそ、人の非道をあげつらって喜ぶのである。
根にあるものが結局表出しているだけで、発想や思想の問題ではない。
そしてそんなことは、やらかした自分が一番よくわかっているはずである。
論語はそれを「少なし仁」と説いているではないか。




