神道026 -支那文献と倭の五王-
前回に続き、参考までに他の文献を出して、単純に知識の補完をしたい。
倭の五王についても、はっきりするのではなかろうか。
宋書夷蛮伝倭国条より
高祖永初二年(四二一年)、倭王讃、除授を賜うべし、と詔して曰く。
文帝元嘉二年(四二五年)、讃また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。
讃死して弟珍立つ。
使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。
詔して安東将軍倭国王に除す。
珍また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。
詔して並びに聴す。
文帝元嘉二十年(四四三年)、倭王済、使いを遣わして奉献す。
また以て安東将軍倭国王となす。
文帝元嘉二十八年(四五一年)、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加ふ。
安東将軍は故の如し。
ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。
済死す。
世子興、使を遣わして貢献す。
孝武帝大明六年(四六二年)、倭王世子興、宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし、と詔して曰く。
興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。
順帝昇明二年(四七八年)、使を遣わして上表す。
詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王に除す。
梁書諸夷伝倭条より
晋の安帝時、倭王讃がいた。
讃が死に、弟の弥が立った。
弥が死に、子の済が立った。
済が死に、子の興が立った。
興が死に、弟の武が立った。
斉の建元中(四七九年~四八二年)、武に使持節都督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に任命した。
梁の高祖(武帝)が即位し(五〇二年)、武の号を征東大将軍に進めた。
梁書にある、晋の安帝時、倭王讃がいた。という記述は実は誤りである。
晋書安帝紀には、倭国としか記載がなく、讃とは限らない。
支那の史書は、実はこういうことがありうる。
今までの経緯からして、倭王讃は仁徳天皇以外ありえない。
倭王武が、雄略天皇なのはいうまでもない。
間の珍(弥)、済、興が諸説あってはっきりしない。
反正天皇、允恭天皇、安康天皇が妥当な線だとは思うが。
なぜはっきりいえないかといえば、安康天皇が即位後一年ぐらいで殺されている。
そのあとは雄略天皇による有力継承権者に対する粛清が始まったため、特に比定が難しい。
木梨軽皇子は、太子でありながら同母妹との恋で失脚した。
そのため安康天皇に討伐され、その後安康天皇は即位した。
その彼も、根使主の讒言を信じておじの大草香皇子を誅殺した。
その妃であった中蒂姫を皇后に立てた。
翌年八月九日に連れ子の眉輪王に殺されている。
ちなみに履中天皇は、ちょうど狭間で即位し三年で亡くなっている。
支那には伝わっていないため、弟という誤情報が残ってしまったと思う。
ここのところも、意思の疎通が支那との間で難しいのが伝わってくる。
この時代は実は支那の方も、南北が分断され王朝交代が頻繁に起こる混乱期である。




