神道025 -支那文献と応神天皇-
文献は三国志魏書東夷伝倭人条ばかりではない。
今回は参考までに他の文献を出して、単純に知識の補完をしたい。
晋書四夷伝倭人条より
(倭人は)正歳と四節を知らない、ただ計るに秋収の時を以って年紀としている。
宣帝(司馬懿)が公孫氏を平げると、景初二年(二三八年)六月に帯方郡に至り卑弥呼が朝貢した。
文帝(司馬昭)が宰相となったころに、正始元年(二四〇年)、同4年(二四三年)、同8年(二四七年)と数至った。
泰始の初め(二六六年)、跡を継いだ臺與が武帝(司馬炎)の就任への朝貢をした。
晋書武帝紀より
泰始二年(二六六年)十一月。倭人、来たりて方物を献ず。
円丘・方丘を南・北の郊に併せ、ニ至の祀りをニ郊に合わせたり。
武帝が亡くなる前年の太康十年(二八九年)、東夷絶遠三十余国、西南夷二十余国、来献せり。
卑弥呼および臺與については、さんざん語っているためここでは言及しない。
冬至の祭祀が十一月にあり、それを倭人は楽しんだらしい。
倭人は正歳と四節を知らない。
ただ計るに秋収の時を以って年紀としている。
春秋年を採用し通年の概念がない我が国をおかしいと思っていそうだ。
晋書安帝紀より
義煕九年(四一三年)に高句麗、倭国、および西南夷・銅頭大師、並びて方物を献ぜり。
三国史記高句麗本紀第二十代長寿王条より
元年(四一三年)、使者・高翼を東晋に派遣し、国書を奉呈し、白馬を献上した。
安帝は王を封じて、高句麗王楽安郡公とした。
日本書紀の応神天皇条より
二八年(四一三年)秋九月、高句麗王、遣使して朝貢す。
よりて表を上せり。
その表に、高句麗王、日本国に教う、と謂えり。
時に太子・菟道稚郎子、その表を読み、
怒りて高句麗の使を責むるに奏状の無礼を以ってし、すなわち其の表を破れり。
応神天皇は末っ子でやんちゃな菟道稚郎子を愛した。
ちなみに百済の肖古王からの七支刀銘文では倭王旨との名で知られている。
高句麗国の広開土王とは激烈な戦争中である。
このあと高句麗国の広開土王に我が国は大敗北を喫し、菟道稚郎子は自死する。
つまり日本書紀によればこの時代は応神天皇の時代だということになる。
しかし支那への朝貢では、内部的にはもめ事を起こしながらも、足並みをそろえたことになっている。
もしくは、菟道稚郎子の性格を紹介するための捏造記事である。
なぜなら、高句麗国の長寿王というのは広開土王の死後即位した人だからである。
むしろそれを報告するために、支那へ朝貢を行っている。
これの日本サイドの相方は、これも次代の仁徳天皇でなければつじつまが合わない。




