神道024 -記紀と実年代確定-
神武天皇から、欠史八代といわれる時代を経て、崇神天皇につながる。
具体的には、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の各天皇まで。
ここでは、今までに語ってきた孝霊、孝元、開化の各天皇については言及しない。
今回意識を向けておきたいのは、孝の字と代数の積み重なりである。
三国志魏書東夷伝倭人条における倭国大乱といわれる時代は、どれ位に起こり、七、八〇年かけてどのあたりで終結したのか。
ここでは、記紀の年代表記はとりあえず無視して一代平均三十五年として試算してみる。
すると在位期間がおよそその半分とすれば、十七年程といったところであろう。
そうすると、孝昭、孝安、孝霊、孝元の各天皇でおよそちょうど七、八〇年といったところに落ち着く。
開化天皇の果たした役割については、今まで語ってきたものを参照願いたい。
もちろん前代懿徳天皇の時代に始まっている可能性もある。
ただ本格化したのが、孝の字のある代である可能性は高い。
乱暴な推論ではあるが、後世に名づけた諡号であるためその辺りをわかってつけた可能性が高い。
桓帝と霊帝の間に倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、主導する者がいなかった。
こう後漢書にある。
桓帝の在位は一四七~一六七年、霊帝は一六八~一八八年だ。
一六八年を中心に両帝の間にまたがって倭国大乱を考えれば良い。
孝昭、孝安、孝霊、孝元の各天皇の時代が結構具体的になる。
そしてこの推論を続けていくと、この四代前の神武天皇の実年代が見える。
紀元前後、まさに、建武中元二年(五七年)ごろに朝貢しているのである。
建武中元二年(五七年)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。
使者は自ら大夫と称した。
倭国の最南端にある。
光武帝は印綬を賜った。
こう後漢書にある。
倭国の最南端という記述は気になるが無視する。
魏書もそうだが、倭国が正直に申告していない方角はあてにならない。
漢倭奴国王の金印を後漢の光武帝にもらっている。
奈良の奴国と当時は名乗っていたのかもしれない。
安帝永初元年(一〇七年)、倭国王の帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内し天子にお目にかかることを願い出た。
これも後漢書にある。
安寧か懿徳天皇が、安帝永初元年(一〇七年)に朝貢した可能性がある。
帥升等というのは、シキトウと読める。
磯城津彦玉手看が安寧天皇の名である。
大日本彦耜友が懿徳天皇の名である。
等を複数人と読むかどうかで解釈が分かれる。
安寧天皇のみか、安寧、懿徳の各天皇が、朝貢した記録がこれであろう。
初代から数代かけて支那へ朝貢して、天皇の権威付けに利用している気配が濃厚ではないか。
五七年には支那に朝貢できるほど、神武天皇はすでに倭国の統治者だった。
推論に推論が重なっているため、根拠性ははなはだ薄い。
信じるか信じないかはあなた次第である。
ただ、支那文献と記紀を併せてみると、これぐらいの解釈は可能である。




