神道016 -中大兄と中臣鎌足-
記紀神話のその後である。
このあとは、日本書紀からの流れである。
そういう意味では神道神話ではなく歴史時代である。
最初に挙げるべきは、天智天皇である。
このあたりからは支那の文化や影響が大きい。
支那の唐国に飲み込まれた隣国の影響もである。
漢字文化も完全に定着している。
中大兄にとっても、そうである。
中臣鎌足のちの藤原鎌足にとっても、そうである。
あと、乙巳の変(大化の改新)後、立太子記事が何度も出てくるのも彼の特徴である。
何度も立太子記事が出るということは、天皇になれないということである。
難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)に遷都する孝徳天皇を、最後は謀略で引きずり降ろしている。
どうも、いろいろ彼には問題があったようだ。
その後も長く皇太子という身分のまま政治をやっているようなのである。
そもそも、中大兄という名称が、おかしい。
普通のちに天皇になられる方は、皇子か尊という号がつくものなのだ。
あと、中というのは、二番目の、という意味なのだ。
血筋的には後継者としては厳しい人だったのではないか。
そもそも、この後を継いだ天武天皇、大海人皇子は弟とされている。
しかしこれも、中大兄の皇子、大友皇子から奪う形で即位している。
この辺の血縁関係は、実はいろいろ議論がある。
天武天皇は戦国時代より前に初めて、天下分け目の関が原をやらかした人である。
尾張の物部系勢力の全面的な支援を受け、大友皇子を叩き潰している。
ということは、当時の正規軍を尾張の物部系勢力が潰した、ということだ。
既にそのとき、大友皇子は弘文天皇として即位していたらしい。
中臣鎌足も、本当に中臣氏だったのか。
藤原氏という姓を改めてもらって名乗っているのは、さほど意味はないことなのか。
この人は、百済皇子・扶余豊璋のことではないか、という説もある。
ただ、百済はもちろんこのころに白村江の戦いにて滅びている。
これは源義経がチンギスハンだ、というような説だろうと思う。
ただ事実として中大兄は全面的にこの百済を応援した。
そして支那の唐国を相手に大敗するのである。
その後は国防を全力で整えたようだがやり方が悪く、世論の評判がすこぶる悪かったようである。
この後、近江大津宮(大津市)へ遷都して、やっと天智天皇として即位するのだ。
前回の聖徳太子とはえらい違いの格好悪さである。
これが歴史時代の悲しさとでもいうものだろう。
状況が詳しく語られてしまうため、解釈の仕方で逃げられない。
古代なら適当に年数を長くとって、いかにも慎み深いような印象で語れた。
後世になんだか胡散臭い感じに語られなくて済んだはずである。
ちなみに、万葉集での扱いも結構ひどい。
大伴家持はあまり天智天皇が好きではないようである。
というより反藤原氏なんだと思う。
万葉集はそういう目で読み直したほうがよいと思う。
おおらかな古代人の純朴素朴なみずみずしい感性なんて解釈ではなく。




