神道011 -隣国の憂鬱-
現在、韓国といわれる地域について、さほど思い入れや価値意識はない。
だからこそ、なんとなく、古代のあの地域について言及するのは心苦しく気の毒な感じがある。
我が国が縄文時代と呼んでいる時代に、おそらくあの地域は五千年にわたり人が住んでいなかった。
その後、縄文時代中盤に鬼界カルデラ噴火が起こって、九州地域に人が住めなくなったときに、おそらく縄文人があの地域に避難したようだ。
この避難は相当大規模に行われたらしく、南北アメリカ大陸や沖縄諸島にもその痕跡を残している。
つまり、縄文土器が生活の痕跡とともに出土しているのだ。
これはあの地域でも同じである。
あの地域の檀君神話とかいうものは、この辺の時代の話であり、非常に気の毒な残念なことである。
その後、ワイ族などの異民族が、どんどんあの地域には入り込み、混血が進んだ。
この場合の混血というのは、男は皆殺し、女は性奴隷にされて混血児を産む、という民族としての死を意味する。
地獄である。
その後も、漢民族が同じように入り込んで、混血模様が複雑化する。
其子朝鮮、衛氏朝鮮、漢四郡、公孫氏の燕。
漢の支配が弱まったあとも、三韓地域は小国家が分立し、統一独立は遠い夢である。
その時たまたま漢四郡に対抗する勢力がいた。
のちの満州族となる女真族の分家、扶余族である。
高句麗国のちに高麗国・渤海国を作った。
強大な軍事国家として今の北朝鮮・支那東北部領域を支配していた。
ちなみに今のコリアンというのは高麗人という意味である。
何度も言うが、扶余族は満州族である。
おかげで今、支那との間にどちらに帰属するのか歴史問題を抱えているのは言うまでもない。
ちなみに、三韓地域でのちに強大化する百済は、王族が扶余族だったらしい。
ただし、百済は代々王太子を倭国に人質として遊学させており、王が死ぬとその王太子が後を継ぐために百済に帰る、ということを繰り返していた。
ちなみに、新羅は昔脱解王が倭国の東北一千里のところにある多婆那国・丹波から訪れて、四代目として、倭人の大臣・朴瓠公とともに統治したようだ。
ちなみに、瓠はヒサゴの意であり、朴というのもその関連であり、この人はヒサゴをぶら下げて倭から来た、ということのようだ。
のちに朴、昔、のちに派生した金は、王族となって近親婚を繰り返したようだ。
倭人であった彼らにとって周囲の人々は、あくまで異民族、異種族だったのだろうか。
このように、三韓地域は、倭国の影響下にあって、高句麗国や漢四郡と対峙している状況だった。
任那に関しては、もろに倭国の支配地である。
ただ、歴史を通じて少しづつ異質な分子が入り込み、最後は新羅が唐の軍事力を利用して統一した。
白村江の戦いで、百済と倭国は連合して敗れた。
百済があった地域は今、全羅道といって、いまだに被差別地域である、といえば、こういった際の彼らの心象がわかるのではないだろうか。
その後も李氏朝鮮に代表されるように、時の支那政府に属国化され続け、力もないのに小中華思想や恨の思想という非常にゆがんだ思想を育てることになってしまった。
ただし、この李氏朝鮮を作った李成桂という男は、モンゴル元を裏切った高麗軍人で、結局高麗も滅ぼした異民族の女真族である。
儒教も道徳もくそもない。
水田稲作、青銅器、鉄器、漢字、仏教をあの地域からしっかり教わったかどうかは、上記状況を踏まえて、我々も冷静に考え直す時期に来ていると思われる。
今の彼らを見ていると、素直で誠実な教え手であったかは非常に疑問であるし、その証拠に非常にゆっくりとした速度でしか伝播していない。
そもそも学ぶものなど、あの地域にあったのであろうか。
この中で、神功皇后、武内宿禰による三韓征伐、および倭の五王が献じた支那王朝への上表文、高句麗国の広開土王の戦勝碑文面という歴史問題がある。
端的に言えば、あの地域は倭の支配領域だから認めろ、と主張されているのだ。
そして、時の支那王朝はこれを追認して、官職を与えたりしている。
高句麗国碑文は、あの地域をめぐっての倭との抗争を克明に描いている。
歴史問題と言っているが、日本側の証拠は万全で、別段解釈の違いもない。
ひたすら、違うと言い張り、捏造・論点すり替えを繰り返す相手に疲れ果てる構図が、いわゆる慰安婦・徴用工等の問題と同じである。




