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天使の十三階段  作者: 東風
プロローグ
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1

 王国を縦断するリウム川の北西に広がる都ギンビスは、ローマ時代より交易路の拠点とされてきた街である。大河がもたらす風光明媚な景観に魅せられた王侯貴族たちが居城を数多く構えたため、十四世紀以降さらなる繁栄を遂げた。

 街の中央にそびえるサンタフェリア城はギンビスが首都に制定された際に建てられたもので、高い尖塔が幾つも連なる細長い優美なシルエットの王城だ。美しい姿とは別に、戦乱時には要塞として何度となく戦禍を退け時には牢獄としても使用された歴史を持つ。

 豊かさを求めギンビスを訪れる者は数多いが、市街に入るためにはリウム川を越える他なく、街の外からやって来た者達が必ず通る石橋がシェオル橋である。

 幅広い橋の欄干には三体の天使像が等間隔に立っており、訪れる者達を出迎えている。剣を振りかざす天使長ミカエル、神の声に耳を澄ませるガブリエル、旅人の手を引き道を指し示すラファエルらが翼を広げ行き交う人々を見守っている。

 シェオル橋を渡った先にあるのがシェオル広場だ。白い石畳が敷き詰められた美しいこの広場は街の玄関口であり、公開処刑場でもあった。

 円形の広場の中央には櫓が組まれ、太い荒縄で作られた輪っかがぶら下がっている。

 人々はそこに晒された罪人の屍を見て、この街で悪事を働いた者が辿る末路を思い知るのであった。


 朝、冬のシェオル広場は身を切るような冷気に包まれ、石畳は薄い雪化粧を纏っている。

「縄は長すぎても短すぎてもいけないよ。短いと絶命までに時間がかかってしまうし、長いと首が千切れ飛んでしまう」

 灰色の厚い雲の下、処刑台の上で父は言った。7歳の誕生日を迎えたばかりの幼いルカは、短く「はい、お父さん」と応えた。

 処刑執行人の正装である赤と黒の格子模様のコートを着て、ひとを吊るすのに最適な縄の長さについて語る父ジャンは、普段と変わらぬ表情だった。

 ジャンについて、およそ処刑執行人にふさわしくないと人々が口を揃えるのは、彼が優しく穏やかな人柄で、また際立って美しい容姿をしているからだ。ブルネットの髪に明るいグリーンの瞳、長い指に白手袋をはめ背筋を伸ばして歩く姿は貴公子のような威厳を醸し出していた。

 見物人の若い女性らの中には、ちらちらとジャンに熱っぽい視線を送っている者もいる。そして隣の友人らと顔を見合わせ、小鳥のようにさざめきたち笑い声を漏らす。その様を見て老人らは眉をひそめ、ため息を吐く。

 ルカの家は代々、この国の処刑執行人を務めてきたヴァンサン家である。血濡れのヴァンサン、シェオル(墓場)の使者などと呼ばれ、市民らからは忌避される存在だった。


人殺し!

人殺し!


 ある日のこと、お使いを頼まれたルカが街を歩いていると暗い顔をした年配の女が道を塞いできた事があった。女は突然拳を振り上げると、怒鳴りながら悪魔のような形相で追いかけて来た。怯えたルカは、泣きながら転がるように必死で走って家へ帰った。

 広場を抜け、橋を渡り、霧深い森の奥にそびえる家の玄関を開け、母の膝にすがりついて泣いた。騒ぎを聞き、驚いて駆けつけた家族の誰もがルカを慰め優しく抱きしめてくれた。

 仕方がないことなんだ、とこの時家族の誰もが口を揃えた。家族や親しい者をヴァンサン家に殺され、恨みを抱いている者がこの街には数多く居る。

 そんな人々にいくら言葉を尽くしても、この街全体に古くから根付いているヴァンサン家への悪感情は容易に拭えるものではなかった。

 自分たちの力では変えられないことが、仕方のないことがこの世にはたくさんあることを、幼いルカはこの時に知った。

 父も祖父も、本当は優しい人たちなのに。それでも家族を養うために、仕方なく罪人を殺しているんだ、と。

 処刑執行人の身分は奴隷よりも低いとされ、学校に通うことも教会で祈ることも許されていない。

 それでもこうして街の郊外に屋敷を構え家族揃って暮らしていられるのは、処刑執行による必要経費や報酬が王室の国庫から支払われているからに他ならない。

 立て続いた戦争と王家を巡る陰謀、爆発的に広がった魔女の脅威と魔女裁判、混乱極める情勢に市井の治安は悪くなり犯罪は増える一方で、ヴァンサン家の人々の仕事が減る気配は一向に無い。

 父ジャンに至っては七歳の頃より処刑執行人として処刑台の上に立ち続けているのだ。

 今日の処刑にルカが連れてこられたのも、少しずつ仕事に慣れさせるためだろう。

 初めて見る処刑台の上からの景色は、何もかもが色褪せて灰色だった。集まった人々の好奇の目も、騒々しいおしゃべりも、気にならないくらいの緊張感が漂っている。

 冬の冷たい空気の中、寒さのせいか恐れのせいか、体が小刻みに震えるのを感じたルカは助けを求めるように父の顔を仰ぎ見た。

 天使のような感情の読めない微笑みを浮かべていたジャンは、ルカと目があった瞬間だけほんの少し困ったように眉を下げた。

 やがて広場へと続く道の向こうから、ガタガタと音を立てて馬車がやって来た。

 馬車の荷台に人影が見える。教会で最後の祈りを終えた罪人を乗せて来たのだ。

 広場に集まった観衆のどよめきがさざ波のように広がっていく。隣に立っていたジャンは背筋を正し、馬車を迎えるために処刑台の階段を降りていく。ルカも慌てて後を追った。

 馬車が近づいてくると、荷台に乗っている人物の姿が徐々に見えてきた。それは毛皮のコートを纏った美しい貴婦人だった。

 結い上げた髪は輝くような金髪で、透けるように白い首筋に幾重にも連なる真珠のネックレスをつけている。

 ひと目見て、高貴な女性であることがわかる姿だった。

 馬車が停止すると侍者がジャンの前に立ち、文箱に載せた封書を差し出した。それは裁判所と教会の印が押された処刑執行証であった。

中身を確認したジャンは、優雅に馬車から降り立った女性を見やり問いかける。

「アンヌ・バトレーですね?」

「ええ」

 アンヌは伏し目がちに頷いて応える。ただそれだけの仕草も洗練されていて儚げだった。

 ルカはジャンの背後から窺うようにその姿を見ていた。

「では、こちらへ」

 ジャンが促すとアンヌは着ていたコートを肩から滑り落とし脱ぎ捨てた。

 コートの下は深い紫色の華やかなドレスで、深く開いたデコルテとコルセットできつく締め上げた細い腰。ふわふわと広がるスカートの裾が夢のように綺麗だった。

 初めて目にする上流階級の貴婦人の美しさにルカが見惚れているうちに、ジャンは階段を上がり処刑台の上に立っていた。アンヌもそれに続いて階段を上がろうとした。

 あの長いスカートでは上り辛いのではないか。

 そう思ったルカは慌てて足元に駆け寄ると、スカートの裾を摘み上げ一緒に階段を上った。階段を上りきったところでアンヌが振り返って微笑んだ。

「ありがとう。紳士なのね」

 大きな宝石のような瞳で見つめられ、冬の空気で冷え切っていたはずのルカの頬がぽっと熱くなった。

 何か答えたかったけれど、緊張で喉が掠れて上手く声にはならなかった。そうしてルカがぎくしゃくしている間に、アンヌの宝石のような瞳から光が消え翳りを含んだ覚悟の表情になった。

 まるで舞台女優のように衆人の注目を集めながら、アンヌは処刑台の中央に向かって歩いて行く。

 中央部分の床は落とし戸になっており、仕掛けに繋がっているロープを切断すると床が抜け落ちるようになっている。このロープを切るのが処刑執行人の役目であった。

 真っ直ぐに正面を見据えるアンヌの前に、ジャンが向かい合うようにして立つ。

「アンヌ・バトレー。貴女にはこの場に集まった人々へ、最期の言葉を遺す権利があります。何か言い遺したいことはありますか?」

 ジャンの静かな言葉にアンヌは数回、瞬きをして考えこんでいた。

 そして深呼吸を数回繰り返し、唇を開く。

「では、息子へ。…善い子に育ってね、と」

 アンヌはただ一言、そう言っただけだった。

 聞き届けたジャンは深く頷くとアンヌの首に縄をかけ、踵を返して所定の位置へ向かっていく。

 ルカは、父を止めなければと強く思った。アンヌが悪い人間とは思えなかったからだ。

 そう思うのに、身体は強張ったまま動かない。心臓の音が耳元で聞こえてくる。

 なぜこの優しげで美しい女性が死ななければならないのか。どれほどの罪を犯したというのか。

 ルカには分からなかった。

 侍者が罪状を朗々とした声で読み上げだすと、観衆は大きな声で野次を飛ばし手を叩いて囃し立てる。広場は異様な熱気に包まれ、人々の興奮は最高潮へと達する。

「仕方のないことなのよ」

 アンヌが言った。ルカにしか聞こえないくらいの、小さな声だった。

 瞬間、ジャンの長剣が閃いてロープを切り落とした。

 バンっと音を立てて仕掛け戸が開かれる。首にかけられた縄が張り詰め、ギイギイと軋んだ悲鳴をあげる。紫色がゆらゆら揺れる。

 ルカはこの日、初めてひとが死ぬ瞬間を見た。

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