二人のお姉ちゃんと妹
ボクはベッドの上に座る女の子をじっと見つめた。
髪の色はこのあたりでは珍しい漆黒。ユーカの髪も、同じように真っ黒だった。ユーカは目の色も黒かったけど、この子はどうだろう。部屋の中が薄暗くてわからない。
ボクが近づくと、女の子は追い詰められた獲物みたいにぎゅっと身を固くした。
「そんなに怖がらなくても……なにもしないよ?」
落ち着かせようと声をかけてから、言葉が通じないことを思い出す。
まいったな。頭をかいて途方に暮れた。
「お姉ちゃん?」
「うわっ」
突然後ろから聞こえた声に、体がびくりと反応する。
「り、リーナか……。あ、あのさ、いま帰ってきたんだけど、これは――」
「おかえりなさいっ、お姉ちゃん!」
女の子のことを聞こうとしたら、リーナはそんなことおかまいなしにボクに抱きついてきた。ボクのお腹に顔を埋めたリーナが、ぱっと顔を離して眉を寄せる。
「……お姉ちゃん、くさい」
「し、仕方ないだろ。ここ何日もずっと歩きっぱなしだったんだからっ。いや、そんなことはどうでもいいんだ」
「うふふっ、お姉ちゃん、びっくりしたでしょ?」
「あの子のことか」
ボクは女の子に視線を向けた。
「お姉ちゃんってば、見てわからないの? ユーカだよ! ユーカが帰ってきたんだよ!」
リーナは手に持っていたカゴをテーブルに置き、ケープを外して椅子にかけると、女の子のいるベッドに飛び乗った。
「ユーカ、ただいま」
リーナはその勢いのまま女の子に抱きついた。女の子は慌てながらももリーナのことを受け止めて、二人に笑顔が浮かぶ。
「……リーナ。その子、どうしたの?」
「もう、お姉ちゃん。その子、じゃなくてユーカだよ。あのね、リーナが見つけたんだよ。ユーカね、山で迷子になってたの。すごく疲れてて、リーナを見たら倒れちゃってね」
「あ、ああ……それはおばさんから聞いたよ。でも、どうしてその子がユーカだって思ったんだ?」
「ユーカはユーカだよ?」
質問の意味がわからない、という感じ。聞き方を変えよう。
「見ただけでユーカだって思ったのかい? だけど、ボクの知ってるユーカはまだ赤ちゃんだったし、リーナだってそうだろ? それに……いなくなってから、もう3年も経ってるのに」
「リーナもびっくりしたよ? だって、こんなにおっきくなってるんだもんね。きっと、迷子になってるあいだ、いろんなことがあったんだよね」
リーナは慈しむように、ユーカの――いや、女の子の頭をなでた。
目の前にいる女の子が自分の妹だということを微塵も疑っていないようだった。
「いや、おかしいと思わないか? だって、3年だぞ? 3年で赤ちゃんがここまで大きくなるかい?」
「不思議だよね。でも、こうして帰ってきてくれたんだもん。リーナはそれだけですっごく嬉しいの」
いや、不思議って。そんな一言で片付けていい話じゃないだろう。
ボクがちゃんとしなくちゃ。だけど、本人に事情を聞くことができないとなると、どうすればいいんだろう。……もしかしたら、行方不明者として誰かが探しているかもしれない。ギルドに要請すれば他の町とも連絡が取れるから、なにかわかるかもしれない。でも、もし自分から逃げてきたんだとしたら……そうだ、そういう可能性もあるかもしれない。
とりあえず本人は落ち着いてるし、このままでも危険はなさそうだ。リーナにもなついてる。しばらく様子を見るべきか?
何が正解なのかわからない。そんなボクの気も知らずに、リーナと女の子はのんきに手遊びなんか始めちゃってる。
「ねー、ユーカ」
にこにこ顔で上機嫌のリーナ。こんなふうに笑うリーナを見たのは、いつ以来だろう。
「りーなおねえちゃ」
鈴が鳴るような軽やかな音色が耳をくすぐった。
――え? しゃべった?
いまの声は、この子のものか? 体付きに見合わないたどたどしい発音だったけど、いま、確かに「リーナお姉ちゃん」と聞こえた。
「リーナ、いま――この子がしゃべったのか? というか、言葉をしゃべれるのか?」
「ううん、しゃべれないよ。だからリーナが教えてあげてるの。ねっ、ユーカ!」
話しかけられて少し困ったような顔で首をかしげる女の子。リーナはボクに向かって得意気に笑い、自分たちが乗っかっているベッドを指差した。
「ユーカ! これは?」「……べっど?」「正解、ベッドだよ! よくできたね」
リーナが大袈裟なくらいに喜んで女の子の頭をなでると、女の子は照れ臭そうにはにかんだ。
リーナはいろんなものを指差して女の子に答えさせていく。
「これは?」「こっぷ」「あれは?」「いす――てーぶる?」
女の子が答えるたびに、リーナは遠慮なくがしがしと頭をなでた。おかげで髪がぐちゃぐちゃになっているけど、女の子は嬉しそうだった。
「ね、ユーカ、たくさん言葉覚えたんだよ。すごいでしょ?」
「たしかに。この調子ならすぐに話ができるようになるかも」
「あっ、そうだ。ユーカ、このひとはね、スーニャ! スーニャお姉ちゃんだよ!」
リーナが唐突にボクのことを指差して言った。
「えっ、なに?」
「すー?」
「スーニャお姉ちゃん」
女の子が遠慮がちにボクの顔を見上げる。目と目が合った。黒く濡れた瞳がまっすぐにボクを見つめている。
どきり――心臓が跳ねた。
「すーにゃおねえちゃ……?」
ぴしゃーん! 雷にでも打たれたような衝撃がボクを貫いた。
舌っ足らずな甘い声が、ボクの名前を呼んだ。正直、それだけでもボクにはかなり効いた。だけど、なによりも、年の近い、もしかしたらボクより年上かもしれない女の子が、まるで言葉を覚えたての幼女みたいにボクのことを、すーにゃおねえちゃんって――。
「そう! スーニャお姉ちゃん!」
「すーにゃおねえちゃっ」
女の子はうれしそうに繰り返した。
あっ、なにそれ、ずるい、かわいい……。
「お姉ちゃん、ユーカに呼んでもらえてよろこんでる?」
「え、いや、まあ、そうかも」
「じゃあユーカのこと誉めてあげて」
「……あー、えっと、よくできました……?」
「そうじゃなくて、ちゃんとなでてあげなきゃだめだよ」
「なっ…………リーナみたいに、なでればいいの?」
「うん」
ボクは女の子の頭の上に、そっと手のひらを置いた。真っ黒な髪は、見た目よりもずっと柔らかくて繊細だった。ボクはリーナがくちゃくちゃにした髪を直すように、そっと指を通してすいてみた。
「……んっ」
女の子が声をもらした。
「ごめん、痛かった?」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。ユーカ気持ちいいみたい。もっとしてほしいって言ってるよ」
「そ、そう?」
リーナが言うならしょうがないなあ、と、女の子の隣に座ろうとしたところで、自分がひどい格好をしていることを思い出した。
遠征中ずっと着たきりだったから、全身土ぼこりやらなにやらで汚れきっている。このままベッドに乗っかったらシーツを泥まみれにしてしまう。
「ごめん、ボク汚い格好してるからさ……着替えてくるよ」
「じゃあリーナも手伝う。お姉ちゃん体も汚れてて気持ち悪いでしょ? リーナがふいてきれいにしてあげるね」
「え? いや、リーナ。いまはいいよ。あの子もいるし」
女の子とはいえ、初対面の人の前で素肌をさらすのは抵抗がある。
革製の胸当てを外すと、体が少し軽くなった。
「お姉ちゃん! あの子じゃなくてユーカだってば!」
「リーナ? どうしたんだ、急に大声を出して」
「お姉ちゃん、変だよ。ユーカが帰ってきたのに、全然嬉しそうじゃないみたい……」
「それは――」
だって、この子はユーカじゃないから。だけど、いまのリーナにそう言ってもきっと、わかってはくれないだろう。言い合いになるだけだ。
だからと言って、リーナの言い分に合わせてこの子をユーカとして扱うのが良いことだとは思えない。
この子にだって帰る場所があるはずだ。ずっとうちに置いておくことはできない。
それを、リーナにどう伝えればいいんだろう。ボクが言葉に詰まっていると、リーナが口を開いた。
「リーナね、ずっと探してたんだよ」
ぽつりと。
「パパとママと、ユーカが山から帰ってこなくって……リーナのせいなんだよ」
つぶやくようなリーナの言葉からは、どんな感情も感じられない。
「ユーカと一緒にお留守番したくないって、リーナが言ったの。ユーカのお世話するの嫌だったから。そしたらママがユーカを連れてったの。リーナがユーカと一緒が嫌だって言ったから。全部リーナのせい。……リーナはお姉ちゃんなのに、どうしてユーカのそばにいなかったんだろうって、ユーカと一緒にいてあげなかったんだろうって、ずっと思ってたよ。ユーカがいなくなってからずっと思ってた」
かけるべき言葉が見当たらなかった。抑揚のない声は、少しでも揺らげば崩れてしまいそうだった。
「お姉ちゃんは危ないから山に行っちゃダメって言ったけど、リーナは探さなくちゃいけなかったから。リーナが探さなくちゃいけなかったから」
「そう……だったのか」
リーナは、ずっと自分を責めていたんだ。ユーカの――妹の命を小さな体に背負って、3年間ずっと探し続けていた。たったひとりで罪を背負って。
「お姉ちゃんの言うこと聞かなくてごめんなさい……」
「いいんだ、リーナ……。リーナは、立派なお姉ちゃんだな」
「……ほんと?」
リーナの眼が輝いた。
「ああ。……お姉ちゃんっていうのはね、妹のためならなんだってできちゃうんだ」
「リーナはね、ユーカをみつけたよ」
「うん」
「リーナ、ユーカのお姉ちゃんでいてもいいのかな」
ボクはリーナを抱き寄せた。
「あたりまえだろ。ユーカはボクたちの妹なんだから……」
ボクたちのパパは、魔物と戦って死んだ。ママは、大切なものを守るように、背中に傷を負って死んでいた。だけど、ユーカの遺体は見つからなかった。
真実は誰にもわからない。リーナの言うことが正しいのかもしれないし、全く見当外れかもしれない。
だけどボクはリーナを信じることにした。
なぜって、ボクはリーナのお姉ちゃんだから。