知らない言葉と世話焼き幼女
ん……朝? 珍しく自分で起きた。でも、まだちょっと眠い……。それになんだか体がだるいし。妹が起こしに来るまでは寝ててもいいよね。
なんだっけ……なんか、すごい酷い目にあう夢を見た気がする。
……うん、思い出してきた。異世界に行く夢。いきなり熊に殺されかけて、助かったと思ったら蛮族に襲われて。とにかく逃げ続けて、最後には疲れ果てて死んじゃう夢。
いま思い出しても質感がリアルで、冷や汗が出る。ひどい悪夢だったけど、目が覚めてしまえばこっちの勝ちだ。
腕を伸ばそうとしたら、左手がふにふにとしたやわらかいものに包まれていて動かせない。なんだろ、と思って見てみると、そこにはベッドの横でねむりこける小さな女の子が。
「…………あ?」
だ、誰? っていうか、幼女……? このご時世に見知らぬ幼女はやばくない? しかも外国人っぽいし……。
なんでわたしの部屋に……まさか、誘拐……? いやそんな記憶ないから! でも連れ込んでいるのは間違いないわけで……事案だ、これ。え、このくらいで逮捕とか、されないよね……? いや落ち着け、なんにもしてないから大丈夫…………なんにもしてないよねわたし!?
脳内にパトカーのサイレンが響き渡る。
あれ? でも、この子どこかで見たような……。あっ、そうだ、夢に出てきた幼女!
って、おかしくない? だってあれは夢の中の出来事で、いまのわたしは――
ゆっくりと体を起こす。ぐらり、世界が回るような目眩がした。
どこ、ここ。わたしの部屋じゃない。どころか、全く見覚えのない部屋だ。
強いて言うなら、西部劇かなにかで見たような木造のおうちに似ている。
ぽかんとしていたらと、突然誰かから声をかけられて、わたしは飛び上がるほどびっくりした。
ここにいたのは幼女だけじゃなかった。部屋の真ん中らへんにテーブルと椅子があって、そこに農夫風のファッションをした見知らぬおじさんが腰かけている。気づかなかった。てことは、この幼女のお父さん?
おじさんはわたしに話しかけてきた。でも何を言っているのかさっぱりわからない。聞いたことのない言葉だ。もっとも、英語すら理解できないわたしにとって、日本語以外の言葉はすべて異言語なので何語だろうとあまり変わりはなかった。
最初のうちはだまって首をかしげてみたけど、どうも、言葉がわからないことが伝わっていないように思えたので、わたしも日本語で話しかけてみた。ここはどこ、とか、言葉がわからないこと。少ししゃべったところで、おじさんも、わたしに言葉が通じないことがわかったらしい。困ったような顔をして立ち上がり、眠っていた幼女を揺すり起こした。
幼女は顔を上げてわたしを見た。茶色の大きな瞳がぱちぱちとまばたきを繰り返す。目を見開く。
――ユーカ!
そう叫ぶと、幼女はベッドの上に飛び乗って、わたしをぎゅっと抱き締めた。
わっ、なに?
あっ……肌、ふにふにする……やわらかー。それに、ミルクみたいないいにおい……じゃーなくて!
「ちょ、ちょっとまって……! なんなの、あなたは……」
いきなり声を張ったせいか、喉がかすれて咳がでた。
幼女はぱっと離れてどこかへ行ったかと思うと、コップに水を汲んで戻ってきた。それをわたしの顔の前に差し出して、優しい声色で促した。
わたしに持ってきてくれた、んだよね。
「あ、ありがとう」
ひとまずお礼をいって、お水を口に含む。川の水でお腹を壊したことを思い出して少し不安になったけど、これは大丈夫かな。
なめるようにして一杯の水を飲むと、幼女がわたしの顔を見て微笑んでいた。
少し落ち着いてみると、部屋の壁にわたしのジャージがかかっているのを見つけた。泥まみれで、だから着替えさせられたんだろう。ゆったりとした服だけど、胸のあたりが少しきつい。着ているものから他人の匂いがするのは、変な感じがした。
それから何度か言葉を交わしてみたものの、やっぱりお互いに言葉がわからないみたいだった。
おじさんと幼女は二人で何事か話し合っている。諭すような口調で幼女にいい聞かせるおじさんに対して、幼女は同じ言葉を繰り返すばかり。
最後にはおじさんのほうが折れたみたいで、幼女になにか言い残して部屋を出ていった。やれやれって感じ。
ドアが開いたときに外の様子がちらりと見えたけど、ここは一軒家だったらしい。
幼女はわたしに振り向いてにこりと笑うと、部屋の隅に行って鍋のふたをあけた。そこが台所なのか。白い湯気がふわりと上がって、食べ物の匂いがした。
そういえばお腹空いてたんだ……。それこそお腹と背中がくっつきそうなほど。意識したとたん、お腹の音がぐうとなった。
幼女は器に鍋の中身をよそうと、わたしのところへ持ってきた。受け取っていいものか少し迷っていると、幼女は持ってきたスプーンでおかゆのようなものをすくい、ふーふーと息をふきかけ、わたしの顔の前に差し出した。
食べろって、ことだよね……?
「あ、あーん……」
ぱくりと口に含む。ほんのりと甘い香り。とろりとしたおかゆは、幼女が冷ましてくれたおかげでちょうどいい熱さになっていた。噛む必要もないくらいやわらかくて、喉に流し込むと、お腹がぽかぽかと暖かくなった。
おいしい……。ほっとする味っていうのかなあ。幼女のおかゆをひとくち、またひとくちと食べていく。
器が空になるまで全部食べ切ると、幼女は嬉しそうに笑って、小さな手でわたしの頭をなでてくれた。
この歳でそれは、恥ずかしいけど、ひとに頭をなでられるのって、ちょっと、いいかも。幼女が手を止めたので、もっとなでてほしいなー、と幼女に体をあずけるように倒して
ガチャリ
家のドアが開いて、おばさんが入ってきた。
おばさんは幼女とわたしを見て、目を丸くした。傍から見たら……どう見える、これ?
「ち、ちがうんですこれは、ちょっともたれ掛かってただけって言うか――」
あーそうだ、言葉通じないんだったー。やばー。やったー。
ひとり頭を抱えたわたしをよそに、おばさんが幼女に何か問いかけて、幼女はそれに答えた。……なんだ、わたし空気じゃん。
おばさんは肩をすくめて返事を返し、何事もなかったように椅子に腰かけると、手に持ったかごから道具を取り出して編み物を始めてしまった。
……どういう状況なのかよくわからない。答えを求めて幼女を見ると、ほおを膨らませて不満そうな顔。
このおばさんは、幼女のお母さん? それにしては、なんだか距離を感じる。幼女に聞こうにも、わたしには聞く術がなかった。
幼女はこちらに向き直ると、わたしを安心させるような口調で語りかけ、毛布を被せて寝かしつけようとした。わたしもまだ立ち上がるほどの体力はなかったので、おとなしくされるがままになる。
ただ、横になっても眠くはなかったので、動き回る幼女やおばさんの様子を観察してみる。
おばさんは自分の仕事に集中していた。と思ったら、顔を上げて二言三言わたしになにか言った。でも何を言っているのかわからないので、首をかしげるくらいしか反応ができない。すると、おばさんは壁にかけてあるわたしのジャージに近づいて、また何か聞いてきた。ジャージに興味があるのかもしれない。どう返事をしたものかと困っていると、おばさんは熱心にジャージを触りはじめた。あ、わたしよりジャージですか。
さっきのおじさんにしろ、このおばさんにしろ、親にしてはよそよそしさを感じる。どういう関係なんだろう。
当の幼女はというと、台所で食器を洗っている。足の下にはかわいい踏み台。じっと見ていると、幼女がわたしの視線に気づいてそばに来てくれた。
微笑みながら、わたしの頭をなでてくる。もう、そんなに子供じゃないんだけどなあ……。幼女はわたしをなでながら、子守唄のような優しいメロディを口ずさんだ。
なでられて気持ちいいのもあいまって、つい、うとうとと。
ドアの閉まる音で目が覚めた。いつの間にか窓の外は暗くなって、室内にはランプの明かりが灯されている。
家のなかにはわたしと幼女だけしかいない。さっきの音はおばさんが帰った音かな。やっぱりお母さんじゃなかったんだ。
でも、この家に幼女ひとりだけって、おかしくない? 親はどこにいるんだろう。帰ってこないのかな。あのおばさんたちが親じゃないとしても、どこの馬の骨とも知れないわたしを幼女ひとりの家に置いて帰るって、どういうこと?
その幼女はというと、台所でなにか料理を作っているみたいだった。わたしの見たところではせいぜい10歳くらいだと思うんだけど、まさか一人暮らしってことは、さすがにないよねえ。
幼女が食事を持ってきた。どうやらシチューのようだ。
そのままベッドに腰かけたかと思ったら、またわたしに食べさせてくれるみたい。いや、もう自分で食べられるから。器とスプーンを受け取ろうとしたら、幼女が不満そうな顔をする。
しょうがないなあ……。あーんと口を開けると、幼女は満足そうに笑って食べさせてくれた。美味しい。
だけど、なんでここまでしてくれるんだろう。見ず知らずのわたし相手に……。それがどうにも理解できなかった。
そして、食後、お腹が膨れたところで、わたしの体に差し迫った問題が訪れた。
ぴりりと下腹部が圧迫されるこの感じ。
どうしよう……って、どうするもこうするもない。早くトイレに……。あ、トイレ、どこだろ。
この家は見たところ部屋分けなんてされてないワンルームタイプ。出入り口の他にドアは……あ、ひとつだけあった。きっとあそこがトイレだ。
わたしはベッドから起き上がってドアに向かった。立ち上がると、まだ少しふらつく。よたよた歩いていると、食器を片付けていた幼女が飛んできて、わたしの前に立ち塞がった。
「あのね、トイレに行きたいんだけど……」
幼女は首をかしげた。日本語で言っても伝わらないかー。幼女はわたしをベッドに戻したいらしく、両手でわたしの体を押した。その手はお腹の少し下、ちょうど下腹部のあたりをリズミカルに刺激した。
「あっ、ちょっ、だめ、だめだって、そこは! もれるっ、もれちゃうから!」
急に叫んだわたしにびっくりしたのか、幼女はそれ以上押すのをやめてくれた。あ、あぶなかった! もう少しで……。
股を押さえてかがみ込んだわたしを見て、やっと幼女が察してくれたみたいだ。
幼女はトイレのドアを開けて――中から何かを持ってきた。
コトン
幼女は、陶器で出来た平たい花瓶のようなものを、わたしの眼の前に置いた。
「これって、まさか、おまる……?」
見上げた幼女は笑顔でうなずいて、ここにしろ、という感じのジェスチャーをした。
「いや、あの……せめて、個室のなかで――」
言葉の壁は厚く、結局わたしの要望が正確な意味で聞き入れられることはなかった。
――記憶はここで途切れている。