夢なら覚めてと叫んでみても
わたしは森の中を走っていた。
ぬかるみに足をとられて転んでも、あちこち擦りむいても、そんなことはどうでもいい。逃げないと殺される。
あのとき倒れていた熊が暴れ出さなければ、きっとわたしは殺されていた。
蛮族たちも熊は死んだと思い込んでいたらしく、背後から襲いかかられて慌てふためいていた。
だけど、わたしにとっては運が良かった。おかげでこうして逃げ出せたんだから、さんきゅー熊とでも言いたい気分。たぶんもう生きてはいないだろうから二度と会うことはないだろうし会いたくもないけど、あんたのことは忘れない。たぶん。そう、この悪夢が終わるまでは。
……ねえ、これ本当に夢なんだよね。
さっきから走り通しですごく苦しいし、すりむいた手のひらはじんじんと痛いし、つまさきなんかぶつけすぎて痛いとすら感じなくなってきた。
喉も乾いてきたし、そろそろ限界……かも。いい加減、あいつらも追っては来れないだろう。
そう自分に言い聞かせて、大きな木の根本に座り込む。
疲れた。もう二度と立ち上がれないような気がする。
手のひらは赤くなって、少し血がにじんでる。夢にしては、あまりにもリアルな痛み。全然目が覚める感じしないし、感覚全部がこれは現実なんだと訴えかけてきてる。
だけど、さ、これが夢じゃなくて現実だったら……。だったらどうすればいいの?
あの魔法の本が本物で、わたしは地球じゃない異世界に来ちゃったってことなら。……そうだ! もう一度あの本で! ……って、ないんだよなあ。ここへ来たとき、わたしは手ぶらでなんにも持ってなかったんだから。
じゃあ、呪文? わたしが魔法で転移できたっていうことは、あの呪文でもう一度転移すれば、元の世界に帰れるかもしれない。
よたよたと立ち上がって、記憶を探る。
「なんだっけ、わたしなんて言った? えーと、確か……悠久の時を流れる魔力の源よ、我のなかに眠りし魔力の源よ、異なる世界を繋ぎ、異世界への扉を開きたまえ、そして我が肉体と精神を元の世界へ送りたまえ……!」
次に目を開いたときには元の世界にいるはず、そう願って呪文を唱えた。だけど、まわりの空気が変わった様子はない。薄目を開けて覗いてみても、さっきと変わらない森が見えた。
最後の部分を変えたからかもしれない。目を固く閉じて、もう一度呪文を唱える。
…………。
だめか。細かいところが違ったかもしれない。もう一回だ。
…………………………。
……………………。
……………。
………。
何度試しても、わたしのいる世界が変わることはなかった。
やっぱり、あの本が……魔方陣がなければ魔法は発動しないのかもしれない。だとしたら、無理だ。ちらっとしか見てないのに、どんな模様だったか再現なんてできるわけがない。
このまま帰れないのかな。わけもわからないまま森に放り出されて、見たこともない動物の餌になるしかないの? 人間もいたけど、言葉はわからないし、まともな文明があるのか怪しいレベルだったし。
……詰みじゃん。
「帰りたい」
口から出た言葉が、頭の中をぐるぐると回る。一度口にしてしまうと、もうだめだった。体の力が抜けて、まっすぐ立つこともできなかった。近くの木に肩をくっつけて、棒切れみたいにもたれかかる。
「帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい。なんでわたしがこんな目に合わなきゃいけないの。トラックに跳ねられても異世界になんか行けなかったのに。なんでいまなの。ねえ、もとの世界に返ったら二度と文句なんて言わないから、勉強だって毎日するから、ほんとだよ。家事だって手伝う、妹にも、もうちょっと優しくするから、わたし、がんばるから、絶対、がんばるから、だから、ねえ、お願い…………家に帰して……帰してよ……」
涙がぽろぽろこぼれて、止まらなくなった。
声をあげて泣いた。もう戻れないかもしれないと思うと、目の奥が熱くなってどんどん涙が出てきた。
いまのこの状況に比べたら、あの家は天国だった。
しばらく泣き続けて、いい加減頭が痛くなってきた。ひとりで泣いていても、だれも心配してくれない。森の隙間から木漏れ日が差し込んでいる。光をたどって、ぼーっと上を眺めていると、微かに、チョロチョロという水のせせらぎが聞こえた。
そういえば、喉、からからだ。
這いつくばるようにして立ち上がり、音のする方へ歩いていく。考えなきゃいけないことはたぶん、たくさんあるけど、いまはとにかく喉が乾いた。
ああ、もう、最……悪…………。
いまのわたしからしてみたら、一時間前に泣きじゃくっていたころのわたしは天国にいたようなものだった。
原因はわかってる。さっき飲んだ川の水。生水が危ないって話は聞いたことがあった。だけど、いままで生きてきて水にあたったことなんてなかったし、あの川だってすごくきれいな川に見えた。手ですくってみても透明だったし、変な臭いもしなかったから、大丈夫だと思ったのに。
だけど異常は驚くほど早く現れた。尋常じゃないほどの腹痛となって。
あまりにも痛くて、死ぬんじゃないかと思った。いまは、お腹の痛みこそだいぶ収まっているけど、おかげで体の中が空っぽだった。
風が吹いたらどこかへ飛んでいってしまいそうなほど、体重が軽くなっている気がする。それなのに、歩くためのエネルギーが全然足りない。それと、水分も。
このまま動けなくなったら、ほんとうに、死ぬ。
だけど、歩いてどうするんだろう?
右も左も、前も後ろもわからない森のなかで、一歩先に何があるかもわからないこんな世界で。いっそ蛮族に連れていかれた方がマシだったかもしれない? どうかな、あの場所で殺されてたかも。どっちにしたって、もう遅いけど。
………………。だめだ、もう、一歩も動けないや。それに、またお腹が痛くなってきた。
立っていられなくて、その場にうずくまる。喉が乾いて死にそうなのに、吹き出す汗が止まらない。
しゃがむのもつらくて地面にすがりつくように横に倒れると、重力から解放されたせいか、お腹が少しだけ楽になった。
ああ、これだめかもしれない。こんなことなら、朝ごはん、もっと良いもの作ってもらえばよかったなあ……。
――がさり
なんの音……?
恐怖の感情も、行くところまで行き着くと感じなくなるらしい。来るなら来いって感じ。いまの私、無敵。
足音が近づいてくる。こんどはどんな動物が来たんだろう。
きょろきょろと目で探すと、最初に小さな靴が目に入った。
……人間の足だ。ごくりと息を呑む。
茂みから出てきたのは、小さな女の子。まるで童話の中から出てきたような幼女だった。
かごを持って、頭巾をかぶって、赤ずきんみたいな。赤くはないけど。
――ユーカ?
そう聞こえた。幼女の声を聞いて、わたしも我に返った。
「たす、けて」
かすれた声で、幼女に手を伸ばす。
さっきのとは違って、ちゃんと人だ。助かった。助かったんだ。
幼女は駆け寄って、わたしのふるえる指をきゅっとつかんだ。小さな手からぬくもりが伝わってくる。
幼女が小さな口を動かしてなにか言っている。やっぱり言葉はわからなかったけど、優しげな声色はわたしのことを迎え入れてくれているみたいで、なんだかとても、ほっとした。