異世界なんて、あるわけないし
「…………………………えっ」
発した声は場違いな響きとなって森の奥深くに吸い込まれていく。
「いや……。いやいやいや、さすがにそんな。……あ、夢か。うん、夢だこれ」
夢ならまだ納得できる。目を閉じていたから、うっかり眠ってしまったんだろう。
……立ったままで?
まあ、寝不足だったし。そういうこともあるはず。っていうか、現にいまなってるし。
だって、そうじゃなかったら、ここはどこなんだって話。
……あの「魔法の本」が本物だった、なんてことは。
あり得ない。700円で買ったんだよ? 本物だったら700万とかするでしょ。
とにかく、そんな可能性は万にひとつもあり得ない。
それにしても、ずいぶんとリアルな夢だ。色や音はもちろん、匂いまでついてるなんて。それに、なんだか薄っすらと肌寒い。
服装はさっき着ていたジャージのまま。舞台は森だというのに靴すら履いていない。靴下があるだけマシと言うべき?
上を見上げると、空は葉っぱで覆われて見通しが効かなかった。太陽の光が緑のフィルターに遮られているみたいだ。
周りを眺めてもなにも起こらないので、とりあえずほっぺをつねってみる。いたい。
……まあ、痛いからって、これが夢じゃない証拠にはならないし。心の中で言い訳をしながら足を踏み出す。
地面に木の根っこがぼこぼこ飛び出していて歩きにくい。バランスを崩して木の幹に捕まったら、手のひらサイズのクモが居た。
「うっわっ!」
慌てて飛び退く。虫はわりと平気なほうだけど、でかいのはきつい。よく見ると周りにも結構虫がいた。踏まないように気をつけないと……。
とまあ、足元ばかりに気を取られていたから気づかなかった。
ふと顔を上げると、行く先に場違いな黄色い物が見えた。形は丸っこくて、距離から察するにかなり大きい。近づいていくと、それはわたしの足音に反応して、動き出した。のっそりとこちらに向けたごつい顔は、ザ・肉食獣って感じ。
……虎だ。いや、熊……?
やばい。これ。まだ距離は離れてるけど、明らかにわたしよりも大きい。しかも、見られてる。動物園みたいに檻なんかない。そんな状況だと、大きい生き物はただ動くだけで怖い。
見つめあっているうちにどこかへ行ってくれ、という願いは熊が一歩距離を詰めたことで儚く散った。
逃げろ! 心の中でわたしが叫ぶ。だけど背中を見せたら最後という予感もびしびしと感じていた。
わたしが後ずさると、熊が進む。一進一退の攻防。
だけどそんなのは当然、長く続かない。だってわたし後ろ向きに歩いてるもん。平らな地面ならともかく、こんな障害物ありまくりな場所で後ろ歩きをしてどうなるかって、わたしの運動神経をなめるなよ。
「……っと、とおっ!?」
転ぶに決まってるじゃん。
わたしは地面から飛び出した根っこに踵を引っ掛けて、たたらを踏んだ。
やば。思う間もなく熊は動いていた。重量感のある巨体が地面を打楽器のように響かせて、遮るものを破壊しながらここへ向かって一直線に突進してくる。
あんなのにぶつかったら、死ぬ! いやこれ夢だっけ? なら大丈夫か。戦っても勝てるんじゃ――
いややっぱ無理!
すんでのところで倒れるように身をかわす。
夢だろうが現実だろうが怖いものは怖いよ!?
ズドンと衝撃。見れば熊は勢いをそのままに、わたしが背中を預けていた木に激突していた。
めきめきという音と共に、背の高い木が根本から倒れていく。熊は頭をぶるんと振って、わたしに向き直った。
やばい殺される――。ていうかこれ夢っ、夢なんだよね!? いいかげん目が覚めてくれてもいいのよ!?
そんな願いとは裏腹に、意識はますます冴え渡る。地面におしりを付いたまま後ずさるわたしを見て、黄色い熊は勝ち誇ったように後ろ足で立ち上がった。3メートルはあろうかという巨体を、わたしはただ見上げることしかできなかった。
――ガオォォオン!
勝利の雄叫びか。いっそこれで満足して立ち去ってくれないかなぁあ?
右腕を大きく振りかぶった熊が、ニタリと笑ったような気がした。
死ぬ、殺される。違う、これは夢、夢だから、だから早く覚めて!
そう願って力一杯目を閉じた。
ブンッ!
風切り音、そして、ドチャアッ、肉を切り骨を断つ生々しい音が聞こえた。
…………あれ、痛くないぞ。
ぱちり、目を開く。飛び込んできたのは、噴水のように噴き上がる真っ赤な血。だけどわたしのじゃない。血を噴いているは目の前の熊だ。
頭に、なんか刺さってる。なんだ、あれ、……斧?
斧と言っても、薪割りに使うような小さい斧なんかじゃない。大きい、それこそゲームの中でしか見たことのない巨大な両手斧が、熊の脳天に突き刺さっている。
「は? え?」
何が起きているのかわからなかった。1ミリも動けずにその様子を見守っていると、熊は立ち上がった姿勢のまま、まるでスローモーションのように倒れた。
そして、その向こう側にいたものは。
――ヤァァアーーーハアアアァァァーーー!
――ウガァアアアアーーーーー!
蛮族。
その言葉以上に彼らを表す言葉は存在しないだろう。
熊を倒したのは、獣の毛皮を羽織った熊のような二人の大男だった。
蛮族たちは倒れた熊に駆け寄ると、手にした斧や剣で熊を滅多打ちにした。突かれ、斬られるたびに熊の太い手足が痙攣し、黄色い毛並みは赤く染まっていく。蛮族たちは意味不明な怒声を上げ、また笑いながら剣を振るう。
やがて、ひとりがわたしに気づいて手を止めた。訝しむような視線をわたしに向けながら、仲間に声をかける。
しまった。すぐに逃げればよかった。
だけどもう遅い。蛮族たちの意識はすでに、熊からわたしへ移っていた。
二人の蛮族は肩で息をしながら互いに顔を見合わせ、そしてもう一度わたしを見た。
蛮族たちはニタニタと笑いながらわたしの前に立ちふさがり、血まみれの手でわたしの肩を掴んだ。