退屈すぎて、逃げ出したいよ
「ちょっと、お姉ちゃん!」
鼓膜に直接響くような甲高い声が、落ちかけたわたしの意識を引っ張り出した。
「……なに?」
「なにじゃないよ。いま寝てたでしょ!?」
鏡に写る妹は制服姿だった。あれ、もうそんな時間だっけ?
「寝てない……。さすがのわたしも歯磨きしながら寝るとか無理だから」
「しょっちゅうやってるじゃん、昨日も同じこと言ってたし」
「そうだっけ……」
言ったかなあ。いまいち記憶にない。まあ、寝起きだから覚えてなくても仕方ないか。
「や、どーでもいいのそんなこと。そんなことより早くご飯食べてよ、冷めちゃうじゃん!」
急かす妹に、うがいで返事を返す。洗面所を出ると、テーブルの上には二人分の食事だけが残されていた。
「お母さんたちは?」
「さっき出掛けた」
「ふーん」
妹は席に着くと、慌ただしくご飯とおかずを口に詰め込んでいった。頬を膨らませて食事する姿が、昔飼っていたハムスターとかぶる。
「もっと落ち着いて食べたらいいのに」
「んぐんぐ……お姉ちゃんが遅いからじゃん」
「十分早いって。わたしこんな時間に起きる必要ないのに、あんたが起こすから」
「起こさなかったらずっと寝てるんだもん。なんか……そういうのニートみたいでやだ」
「いやニートじゃないから。受験生だから」
「それ言ったら、あたしもだけど」
「……言葉もないわ」
微妙に気まずい沈黙が流れる。
一個下の妹と一緒の高校受験。妹は当然現役、対してわたしは浪人の身……。だけど、こんなことになったのはわたしのせいじゃない。妹もそれはわかっているから、しつこくからかうようなことはしない。
「じゃーちゃんと起きて勉強しなよ」
「してるってば。夜中に。深夜のほうが静かで集中できるの」
「そーやって夜更かしするから朝起きれないんじゃん」
「えー。べつに良くない? 朝起きなくても」
「…………。そんなだらしない生活してる人にはご飯つくってあげない」
「え! ちょっと、それはダメでしょ! ずるじゃん」
最終兵器とも言える「ご飯つくらない」宣言に、わたしは思わず声を張り上げた。
我が家の台所は実質妹のものだ。うちは共働きなので、朝は早いし帰りも遅い。最初はたまに作るだけだったのが、いまではほぼ毎食を妹が作っている。そしてわたしは料理ができないのだった。
「ずるじゃないですー。起きてこない人が悪いんですー」
「くぅ……わかったよ……。でもわたしが寝てたらちゃんと起こしてくれるでしょ? 自分で起きなきゃだめとか、そういうルールなしだからね?」
「えー、どうしよっかなー。くふふっ。ほんとお姉ちゃんは、あたしがいないとなんにもできないんだから」
妹は、にまにまと勝ち誇ったように笑みを浮かべている。
「そんなことないし。わたしだって、いざとなったら一人でなんでもできるし」
「へー。まあ口ではなんとでも言えるもんね。ていうかお姉ちゃん絶対結婚できないよね」
またか。最近この子は何かって言うと結婚だの恋人だのを持ち出してマウントを取ろうとする。そっちだって恋人なんか一回もできたことないくせに。お姉ちゃん知ってるんだぞ。
「そーいうのいいから。だいいち結婚なんてするつもりないし」
結婚とか恋愛とか、あんまり興味がない。けど言うだけあって、この妹は姉のわたしから見ても優秀だ。当然のようにテストで学年トップを取ってくるし、中学生でありながらこの家の家事をほとんど一人で片付けてしまう。このまま大人になったらどうなることか――
「あ、そっか。結婚できなくても、あんたに養ってもらえばいいじゃん」
「うぇっ、あたしが、お姉ちゃんを……? なっ、なにそれ! あたしの将来を勝手に決められてもこ、困るんですけど! そ、それに一緒に暮らすつもりならやっぱり少しは働いてほしいっていうか、あ、でも……そしたら――」
「いや冗談だから。そんな本気で考えなくてもいいから」
「……………………。はあーーー!? 全っ然本気とかないですけど! お姉ちゃんがばかなこと言うから冗談につきあってみただけですけど!? そんなこともわかんないの? ほんとお姉ちゃんはーーーっていうかもうこんな時間じゃん! やばっ! 遅刻したら完璧お姉ちゃんのせいだからね、いってきます!!」
妹は文句を言いながらも律儀に食器を流しに片付けて、鞄を引っ付かむと玄関から飛び出していった。
「……いってらっしゃい」
騒がしいのが居なくなると、点けっぱなしになっていたテレビの音が聞こえてきた。朝のドラマのオープニング曲が終わると同時にご飯を食べ終えて、テレビを消して自室に戻る。
「勉強……しないとなあ……」
勢いをつけようと思って口に出してみたまではいいけど、全然やる気がでない。とりあえず椅子に座って参考書を開いてみる。ペンをにぎってもまだ勉強という言葉が空回りしていた。
せっかくの朝なのに参考書とノートにしがみつくのは健康に悪い気がして、ぼうっと窓の外を眺める。
日向と日陰のぱっきりとしたコントラストが目に眩しい。空は快晴。真っ青に晴れている。
……天気、いいなあ。
ああ、どうしよう。全然やる気が出ない。
それに、必死に勉強して受かったところで、来年から妹と同学年になるのかと思うとがっくりと肩の力が抜けてしまう。中学の友達と会わないように、わざわざ離れた学校を受けることにしたのに、なんで同じとこ選ぶかなあ……。他にいくらでも選択肢あるでしょ。
二ヶ月前、高校受験の当日にわたしはトラックに跳ねられた。幸い大した怪我もしなかったけど、思い描いていた高校生活は見事に死んだ。
トラックに跳ねられた不運な子は異世界に行けるって聞いてたのに。話が違うよなあ。
だから、参考書を買いに行った古本屋で怪しげな「魔法の本」なんてものを見かけて思わず手が伸びたのは仕方のないことと言える。家に帰ったらサイズが微妙に大きいせいで本棚に収まらなくて、その辺に放置していたら妹に見つかってバカにされたけど。
わたしは座り心地の悪い椅子から降りると、クッションをお腹に敷いてアンティーク品みたいな立派な装丁の本を手に取った。ページを開くと、古い紙の独特な甘い匂いが漂った。
本の中身は、いかにもって感じの魔法陣のイラストに、なぜか機械翻訳のような日本語の説明文が付いている。魔法の本と言うよりは魔方陣の図鑑とでも言ったほうが良さそうなストイックさを感じる内容だけど、少なくとも英語の参考書を眺めてるよりはよっぽど楽しい。
魔法の種類もたくさんあって、炎魔法、光魔法といったゲームの攻撃魔法みたいなものから、浮遊魔法とか幻惑魔法なんていう、現実に使えたら便利だろうなっていうものも載っている。中でも特にわたしの目を引いたのは、やっぱりコレ。
「転移、転移……あった。世界転移の魔法」
ページいっぱいに描かれた緻密な魔方陣のイラストの下に、独特な説明文が書かれている。
”この魔法を使用することにより、あなたは他の世界へ転移することができるでしょう。しかし、この魔法は不完全です。あなたの能力が十分でないならば、正しい場所に到達することができません。”
「はーあ、ほんとに魔法が使えたらなー。異世界だったら勉強とかしなくていいし、適当にモンスター狩ってればお金稼げるし楽しいんだろうな。……異世界かあ」
きっとその世界ではわたしは英雄みたいに活躍して、まわりのみんなから感謝されて……ゆくゆくは王様に謁見、なんてことになっちゃったりして。だけど、そういうのってあんまり目立ちすぎると面倒ごとも増えそうだよね。やっぱり身分を隠して田舎に引っ越すかなあ。小さい村で、ときどき人助けのために魔物退治なんかしちゃってさ、お礼にもらった食べ物とかお金で何不自由無いのんびりした人生を過ごすんだあ……うへへ。
「でもさー、この本、使い方が書いてないんだよねー」
いや、信じてるわけじゃないけど。ここまでリアルに作るんだったらもうちょっと親切さがあってもいいと思う。呪文とか生け贄とか? そういう具体的なやつがなくっちゃ試せないじゃん。いや信じてるわけじゃないけど。
だけど……呪文とか、適当にやってみたらできちゃったりするかも。
そう思ってしまうような妖しさが、この本にはあった。
せっかく買ったわけだし、一回くらい試してみてもいいだろう。信じてるかどうかっていうのは、それは全然別の話。
わたしは本を手に立ち上がった。片手で持つには少々重い。
大きく息を吸う。こういうのは躊躇いなくやらないと失礼?だから、思いきってやる。
「きらきら☆マジカル☆みらくるりん♪ 魔法の本さん、わたしを異世界につれてって(はあと」
………………。
決めポーズを3秒キープ。しかしなにも起こらなかった。
「スゥーー…………。いや、違う違う。そういうんじゃないし。あれか、もうちょっと渋いのがいいかな。かっこいい系の。やっぱり魔法って言ったら詠唱?」
わたしは本を開いたまま勉強机の上に置いて、しばし頭をひねった。
背筋をピンと伸ばして魔法陣の上に右手をかざし、ゆっくりと目を閉じる。
「…………悠久の時を流れる魔法の源よ……我が魔力の源流よ…………異なる二つの世界を繋ぎ、異世界への扉を開きたまえ。そして我が肉体と精神を異世界へ移したまえ……!」
……うん、まあ、まあこんなものかな。
目を閉じたまま、魔方陣にかざした手のひらに意識を集中させていると、突然、ざあっと風が吹いた。
これはいい演出……。神タイミングでは?
風に運ばれてきた緑の香りが、まるで本当に森の中にいるみたいに錯覚させてくれる。
ん……風? あれ、っていうか窓なんか開けてたっけ。え、やばい。さっきのセリフ、外にダダ漏れだったの!?
急に恥ずかしくなって窓を閉じるべく目を向けると、そこに窓はなかった。というか……なんだこれ。
鬱蒼とした木々が立ち並ぶ、緑の森の中にわたしは立っていた。
「………………………はっ?」