バス停の彼
私はずっと彼のことが気になっていた。しとしとと雨が降る時期だけ、ふとバス停で雨宿りをしている彼を見かける。雨宿りしているだけなら気にも留めないけれど、彼は不思議な、人目をひく何かがあった。今日見かけた彼は、いつもの凛然と立ち尽くしている姿ではなく、おんぼろなベンチに腰掛け静かに泣いていた。
「どうかされたんですか?」
そう問いながら、私は彼に近づいた。ただの興味本位でもあるし、なんとなく放っておけない気がしたのだ。私に声をかけられた彼は、真っ黒なふたつの目を見上げて私をじっと見つめる。泣き腫らした目のまわりは真っ赤に染め上がっていた。
「大切な方と離れてしまったのです」
涙声で彼は、随分と深刻そうに言った。あまりに悲愴な雰囲気で言うので、私は、彼とその大切な方はもう会えないのだろうと思った。とりあえず涙をお拭きくださいとハンカチを差し出すと、彼は畏まって受け取り、「いつかお返しします」と言って雨の中傘もささずに立ち去った。それから彼をそのバス停で見かけることは無かった。
「あなたにお返ししたいものがあるのです」
黒い喪服を纏った老女が私に一枚のハンカチを差し出した。そのハンカチは私が以前、バス停で泣いていた彼に渡したものだった。雨の日に、いつものバス停で何の気なしに雨宿りをしていると、老女が話しかけてきたのだ。その老女は彼の母親なのだろうか。
「彼はあなたに直接返すことが出来なくなったので、私が代わりに渡しにきました」
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
ただそれだけ言って老女は去っていった。
彼と老女は一体誰だったのだろう。彼はなぜ雨の日だけあそこにいたのか、なぜ泣いていたのか。
今の私には知る由もない。
ただこのしとしと降る霧雨は、彼の涙と思えてならない。