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今日は家に帰りたくないの、そんな定型句を使えるようになる日が来るのだろうか、なんて二人と別れてしばらく歩いている中、灰色の雲で覆われた真っ暗な空を見上げて思う。
だいたい、まだ十時だしもっと長居してもよかったのでは? 十時に帰宅なんて高校生じゃあるまいし、育ちの良い二人だって大学時代にオールくらいは経験しているだろう、育ちが悪いあたしはそんな経験をしたことはないけど。
あたしの何が問題か、それは二つあるはずだ。
一つは、未だに門限を守り続けていること。もう一つは、ファミレスとコンビニくらいしかないこの街にとどまり続けていることだ。
花盛りの二十代に、ファミレスとスーパーとコンビニと家しか選択肢のないあたしの生活はどうかしている。もっとクラブやカラオケ、あとドンキやラウンドワンなど選択肢を増やすべきだ。
いくら地方だとはいえ、後者にあげたそれらがないわけではない。ただ、あたしが基本的に一人で行動する一匹狼であることが、何より問題なのだ。
電車で何駅か揺られたら小さなクラブやチェーン店のカラオケ、ドンキとラウンドワンくらいはあるけど、あたし一人じゃあなあ。
あと門限を守っていることも大問題だ。あたしくらいの歳になると「親の言うこと聞くなんて高校生まででしょ」なんてせせら笑う男女ばっかりだ。
十一時が門限なんて、今時大学生でもありえないわ。昨日は父親が出張でいなかったからあんなに遅くに帰宅したけど、父がいたならしっぽり叱られていたところだろう。
あたしには障壁が多すぎる。もっと環境が良ければ、と恨んだところでどうにもならないことはわかってるが、それでもたまには自分の運命を呪ったっていいじゃない、ね?
「相川、久しぶり」
背後から声がした、瞬間、あたしはダッシュで逃げ出そうと試みたが、奴の手があたしの肩に触れたので諦めた。どうしてあたしに触れるのだ。竜也はあたしを追いつめてどうしたいのか。
「バイトが思ったより早く終わってよ、今帰りなんだ。付き合えよ」
「嫌だよ。今何時だと思ってんの」
時刻を読み上げた「九時五十分」今日は父親が出張から帰ってくる日だ。あたしはもう叱られたくないの。
「高校生じゃねえんだからよ。マックでも奢ってやるからさ、付き合えよ。それが嫌なら俺んち来てもいいんだぜ」
「お断り。あんたって酒臭いから嫌い」
竜也は基本的に酔っていないときがほとんどない。だいたい、アルコール独特の臭いを漂わせているし、会ったことや話したことをほとんど忘れてしまっているのだ。要はアルコール依存症なのだ。本人も多少は自覚をしているらしい。
そいつはしょんぼりと前髪を垂らして、あたしの肩をつかんだまま離さない。
「俺のこと嫌いなのか。キスしたのに」
虫唾が走るわ、イケメンだからってこんな言葉を吐けるのだろう。どうせ、誰でもいいくせに。あたしにはわかる、こいつは女をはべらすためならなんだってできる、くそ男だということをね。
じーじーと電柱の明かりがちかちかと点滅している、ほら、もう真っ暗だもん早く帰らなくちゃいけないのに。
「離してよ。あんたなんて嫌いだもん。さっさと消えてよ。キモいわ」
「じゃあなんで拒否しなかったんだ? 俺は本気だよ」
一気に全身の鳥肌が立った。ぶっ殺すつもりで肩においてある手を引きはがして
「しねしねしね! そんなことばっかり、都合良く覚えていてよお。もうあたしには好きな人ができたんです、構わないでくれよもう」
そう怒鳴りつけた。昨日から精神エネルギーを消耗する出来事が起こりすぎている。もうすぐあたしの感情は死んでしまうのではないか、だってこんなに他人に投げつけているんだもん。
「そんなことばっかって?」
なんてのんきに聞いてくるし、あたしってばムカついて、殴り殺してしまいたいほど気持ちが高ぶっていたから、竜也から逃れるために走り続けた。だって犯罪者にはなりたくないし。
ん、アレ? あたしに好きな人なんていたっけ? ま、いいか、あんなのその場限りの言葉だし。
どうせ竜也は忘れてしまうだろう、これまでもそうだったし、これからもずっとそうなのだ。あいつはどうしようもなく堕落してしまっただめ人間なんだから、あしらいながら適度に放っておくのが吉だろう。
あたしの住んでいるアパートは築三十年の四階建ての建物で、近くにはバブル期に建てた一軒家が誰にも使われずに放置されていたり、うちと瓜二つのアパートが乱立している。ほとんど打ちと同じおんぼろアパートだ。
オートロックや駐輪場がないアパートだから、よく自転車が盗まれる。あと、うちの住民ではない子供がかくれんぼをしていたりする。近年は防犯意識が高まっている、だなんてニュースでは言っているが、あたしの身近は例外のようだ。いや、一人だけニュースの意見を真に受ける人間がいたっけ。
「最近は物騒だから、夜遅くまで遊んでいたらだめだぞ」
玄関で靴を脱いでいたら、父親の聞き飽きた言葉が降ってきた。もう何百回聞いたことだろう。
「物騒なら、オートロックがついてる家に引っ越せばいいじゃん」
そう言い返すと父は黙り込んでしまう。中小企業の平社員で年収も少ないのだ。それくらいは知っている。
「琴美ちゃんおかえりぃ」
母は専業主婦だ。専業主婦しかできないといったほうが正しい。
「ご飯は用意してるからねぇ」
「今日は食べてくるって言ったよね」
「ええ? 聞いてないよぉ」
あたしは深く深くため息をついた。もちろん当てつけだ。でもそんないらだちは母に伝わらないし、父が複雑そうな表情をするだけだ。
「明日の昼にでも食べるから、置いといて」
「じゃあ、克也の弁当おかずにするねえ」
これはいつものことだ。けして認知症なんかではない。父が母と出会ってからずっとこんな調子らしい、母は人の話を聞かないし、人の話を理解できない。親を選べない子の不幸、とはこのことだと思う。
ちなみに克也とは弟のことだ。高校生の克也はあたしと同じように勉強ができないので、工業高校に通っている。あたしが就活を失敗して、奨学金返済に苦しんでいる様子を近くで見てるから、「俺はお姉ちゃんみたいに進学しない」ときっぱりと言い切っていて、高校卒業後に就職すると決めているらしい。
明日はバイトがあるし、明後日もバイトがある。父は当分出張がないらしいから、あたしはバイトの残業も断らなければいけない。夜遅くのほうが時給もいいのに。
自室のベッドに倒れ込んで、誠治のことを考えていると、すぐに眠りについてしまった。




