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 あたしは誠治のような「感情」や「心」のないという人にとっての幸せについて考えながら自宅へ向かった。雨はもう小振りで傘をさしていない人もぽつりぽつりと見かけるほどだ。車のウィンカーも動いていない。


 真っ暗になった街の中はしっとりと湿っていて、何もかもが水浸しになってしまっている。さっきまで水滴をまとっていなかった腕も、かすかに濡れてしまっていた。


 そもそも、幸せなんてものをあたしはよく知らない。楽しいやうれしいを感じることはあるけれど、それが幸せかと問われると首を傾げてしまう。世の中にはうれしさや楽しさを感じるだけで幸せだと言う人もいるのだろうから、幸せなんてものは個人の尺度によって決定されるのは明白だろう。


「くだらない」


 口に出してみた。幸せだとか、不幸だとかってやつはくだらない。しかし、そう考えたって感じてしまうし、考えたってあたしたちはその心だとか幸不幸から逃れることはできないのだ。それらは一体何なのか、その疑問から逃れることもできない。人間の性なのだろう。考えただけで最悪な気分になれる。


 もしも、心や人生の幸不幸について考えなくてすむ人がいるとしたら、彼らは非常に幸福な人間なのだろう。


 あたしは帰り道に竜也を見かけることはないだろうかと、あたりをきょろきょろと見回していたけれど、結局彼は現れなかった。



 翌日も当たり前にバイトがあった。この日は元々竜也が休む日だったので、当然彼は現れなかった。幾度かスマホで着信を入れてみたけど、やはり通話にでることはなかった。


 いつもは悪態ばかりついてる男でも、いなくなったら寂しいものなのだろう。


「失恋でもしたんすか?」


 ジョンはあたしに聞いた。客の入りは平均的な日だった。ジョンの口調は平坦で、いつものふざけた感じはぬぐい取られてしまっていた。


「どうして?」

「いや、なんだかいつも以上に暗いから」


 そうかな、とチャーハンをレンジに入れた。


「いつも以上にってひどいなあ。あたしはいつもこんなんだよ」

「そうっすよね」


 むなしい笑いがキッチンに響いた。この笑い声の何倍ものむなしさを感じ取っている。


「竜也さんは大丈夫ですかね」


 聞こえないふりをした。会話は途絶えてしまった。あたしが切り取ったのだ。


 そう、あたしはいつもそうだ。


 自分で関係を切り取ったのに、あたかも誰かが故意にしたものだと思いこむ。相手にしてみればなんてわがままなのだと悪口の一つでも言いたくなるだろうが、不幸にもあたしの周りには指摘をする人なんて一人もいなかったな。



 バイトが終わったのは夜中の八時で、今日は自転車じゃなく徒歩だったので、念のためにもってきておいた傘を腕にぶら下げて、道路の真ん中を歩いていた。夜中は人がほとんどいないのだ。


 雲一つない夜空には一等星くらいしか見えない。地方都市でもコンビニやビルのせいで明るいのだ。だから、あたしは満天の星空なんてものはプラネタリウムくらいでしか見たことがない。ほんとうに存在す

るのかすら知らない。


 スマホで竜也に電話をかけてみるが、やはりでることはなかった。諦めて、ポケットにスマホを入れようとしたとき、スマホがぶるぶると震えだした。驚いて通話に出た。


「えっと」


 声すらまともにでない。


「何か用?」


 それは完全に竜也の声だった。あたしはどこかの映画に登場する真っ黒な妖怪みたいに、母音しか口にすることができずにいた。


「どうしたんだよ」

「えっと、びっくりして」


 やっと口にすることができたけど、いつもよりずっと振動してる。


「どこいってたの」

「別に、俺はどこにも行ってねえよ」

「休んでたじゃない」

「風邪ひいたんだよ。あの女と夜遅くまで付き合ってたから。さすがにこの歳になるとカラオケオールはしんどい」

「どうして付き合ったの」

「別にいいだろ。お前は俺の彼女でもないじゃん」


 それ以上言い返すこともできなかった。彼の言うことはもっともだからだ。でも、ここで諦めてしまったらいつもと同じになってしまう。


「キスさせてよ」


 息が止まってしまうほどの脈拍に、のどが締め付けられた。竜也も黙ってしまっている。この沈黙の間彼は何を考えてるのか、そればかりが気になって仕方なかった。


「誠治くんのことが好きなんじゃねえの」

「別にそんなんじゃない」

「酔った勢い?」

「いや」

「じゃあ、なぜ」

「わかんない」


 ふうん、と無機質な声で言った。


「竜也はあたしのこと、好きだからキスしたの?」

「どうだろうな」


 がたんがたんと道路の真ん中で走る路面電車が地面を揺する。


「お前は俺のこと好きなの」

「多分」

「他の男と同じ部屋で寝泊まりしておいて、よくもまあ好きだなんていうよな。数ヶ月でそんなビッチになるなんて思ってもなかったぜ」


 すでに涙が下まつげの先に待機していた。


「ごめんな、冗談だよ」


 竜也は子犬をなでる手みたいに優しい口調で言った。あたしはそんな竜也の声なんてはじめてで、胸の奥がきゅんとうずいた。


「うち来なよ」


 うん、とつぶやいた。



 竜也の家のインターホンを鳴らす頃、時間は八時三十分をすぎていた。インターホンを鳴らしたらすぐさま玄関が開かれて、冷えピタシートをおでこに貼ったままのジャージ姿の竜也が現れた。


「本当に風邪だったんだ」


 まじまじと彼の全身を眺める。


「もう熱は下がってるけど」

「じゃあ、何で冷えピタ貼ってるの」

「気持ちいいだろ」


 あたしの左腕をつかんで竜也はあたしの体を引き寄せた。玄関の扉はゆっくりと、独りでに閉まる。その金属音を聞きながら、あたしはゆっくりと顔を上げて竜也の顔を見た。彼の整った顔がほのかに赤いような気がするのは気のせいだろうか。


 両腕を体に回して力一杯抱きしめてくれた。


「どうしたの」

「なんとなく」


 竜也は左耳の近くで言った。かすかな息がかかって、頭がぼうっと真っ赤な感情でいっぱいになってしまう。


「俺のこと好きなの」


 うんと言った。


「俺も多分、琴美のことが好きなんだと思う」


 その、琴美と呼ぶ声が嫌じゃなかった。いつもは誰かにその名前を呼ばれるのが嫌で嫌で仕方がなかったのに。


「誠治君と琴美が寝たって聞いたときどうにかなってしまいそうだった」


 彼はあたしの唇に唇を寄せて、軽く口付けた。風邪をひいていたからか、竜也の唇はささくれたっていて、がさがさで少しだけ痛い。でも、不思議と嫌ではなかった。


「今日はお酒飲んでいないの」

「風邪ひいてるからな。それにお前がいやがるし」

「そんなにあっさりとやめられるんだ」


 うん、とつぶやいてまたキスをした。今度は舌が唇の間から侵入して、否応なくあたしの舌はもてあそばれた。脳がポップコーンのようになってしまう現象があることを昔知ったことがあるけど、多分今がその状態なのだろうと思った。それくらいに、竜也の匂いと感触があまりにも近くて五感のすべてを彼に支配されている感覚に酔ってしまっている。彼の汗ばんだ手があたしの頭をつかんでる。淫靡な息づかいと音で支配されていたのが、竜也が唇を離すことで解放された。

呆然としているあたしの手を引っ張って、彼はリビングにまで連れて行って座らせてくれた。それから、オレンジジュースが入ったコップ二つを、ちゃぶ台に置いた。


 竜也は自分の話をしだした。中学の時に荒れていたこと、中学の時に親が離婚したこと、大学へ進学して卒業したけど自分にやりたいことは何もなかったこと、それから漠然とした空虚感と、将来に対する不安感。


 あたしは何度も彼を抱き寄せて、受け入れようとつとめた。けれど、あたしが思ってる以上に彼はもう過去と決別して現在を生きていた。ありがとう、と言いながら抱き返してくれたけど、口元は微笑んでいた。


「別に、俺は病んでるわけじゃないんだよ」


 慎重に言った。でも、考えるのは辛い、とも。


「酒に走るのは過去を忘れるためなんだろうけど、これからは控えなきゃな」


 そうあたしを抱いてまたキスをした。


 竜也のすべてを受け入れるつもりでいた。

だから何でも良かった。恋に恋しているとか、自分に酔っていると言われたら確かに事実なのかもしれないけど、別にそれでいいじゃないか、と思えた。自己満足で誰かの気持ちを楽にできればそれでよいじゃないかと。


「ありがとう」


 そう言われてあたしは竜也に心をなでられた気持ちになった。うん、と答えて気がついた。そうか、あたしはあの夕日の差す教室で竜也に話しかけられたときから、触れられていたのだと。

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