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あたしたちは互いにスマホで連絡を取ったけど、二人に繋がることはなかった。よりによってあの二人が、どうして出て行ってしまったのだろう。
冷静になれないまま、悲しみとか苦しみの感情より先に、焦りと混乱があった。
いくら体の関係さえなければと口では言っていても、愛美も愛美で耐えられなかったのかもしれない。
さっきの「どうでもよくなきゃ誠治とキスしないよね」の愛美の見たこともないような暗い顔を再び思い返して、あたしまで胸が苦しくなった。いや、あたしが不用意な発言をしたのが悪いのだけど。
「とりあえず、もう家に帰りなよ」
誠治はこれまでといっさい異なった低いテノール声で言った。あたしも、今この場で「帰りたくない」なんてわがままも言うことができず、うなずいて鞄を持って去った。
ちゃぶ台には食べ残された袋菓子が悲痛な表情をしてあたしたちを責め立てていた。
帰宅する前に、あたしは竜也の家へ寄った。ひょっとしたら、すでに帰宅しているかもしれない。そんな可能性を考慮してだ。
インターホンを押すことに五分近く躊躇して、やっと人差し指に力を入れることができたと感激したものの、竜也は自宅にはいなかった。
二回押しても、三回押しても物音一つなかったので諦めて自宅へ向かった。その前に、自分を落ち着かせるためにブラックサンダーを一つだけ購入し、頬張りながら歩いた。
あたしは大学受験時か、それ以上の緊張を以て
玄関のドアノブをひねったが、その緊張は無駄だったようで、いつもの調子の母親が「琴美ちゃんおかえりい~」とぱたぱた駆け寄ってきた。
「どこいってたのお?」
あたしは一瞥して靴を脱ぎながら「友達の家に泊まってた」と廊下を歩いて自室にこもった。
扉の外から「パパ心配してたのよ」と不安そうな声が聞こえる。
「あたしもう二十三だし、心配しなくてもいいよ」
「親にとってはねえ、子はいつまでも子供なんだよお。だからパパの気持ちもわかってあげて~」
いつもと違ってなんて母親らしいことを言うのだろう。あたしがいなかったからなのか、そうなのか。
「琴美ちゃんがそんなに門限が嫌だったなんてパパ知らなかったみたいで、これからは外泊くらいなら許してくれるみたいよお。でも連絡はほしいっていってたわあ」
それだけよ、といつもの猫なで声のまま去っていった。
なんだか、あたしはどうしようもなく泣いてしまっていた。だって、こんな歳になってまであんなガキっぽい行動でしか自分の感情を表せないなんてばかみたいじゃないか。それに、ずっと無関心だと思ってた母や父が自分に意識を向けてくれたことに感激してしまったのだ。
こんなことなら、もっと早く何か言っておくべきだった。そんな後悔の念すらわいてくる。
この日の晩はカレーライスだった。母のカレーライスは久々で、食べながらうるうると目が潤んでしかたなかった。
次の日にあたしはいつも通りバイト先へ行った。昼からのシフトだったけど、前の日の夜はあまり眠れなかったから危うく遅刻しかけた。
バイト先にはあまり顔を出さない店長が珍しく今日はいたので、深々と頭を下げて謝った。すると自省の念でやられているあたしとは裏腹に毛六とした顔で
「ああ、そうだったんだ。竜也くんが代わりに働いてくれたから、うちは平気だったよ。ただ今日は休んでるけどね」
いくらファミレスでも、店長がシフトを把握してないってどうなんだ。
出勤したら竜也がいるだろうと予想していたのだが、今日は体調不良で休んでいるらしい。おそらく、体調不良じゃないのだろうな。
あたしは更衣室で制服に着替えてキッチンへ向かうと、竜也の代わりにジョンがしゃがんでスマホをいじっていた。平日の昼間ではあるが、ラッシュは終わった後なので暇なのだろう。あたしに気がついたジョンはバネみたいに立ち上がった。
「こっこちゃん、ひさしぶり」
純粋な笑顔にあたしは顔を背けてしまいたくなった。
「うん。ひさしぶり」
「竜也さん、今日お休みなんですよ」
らしいね、とあたしはジョンの横に立った。
「珍しいですよね。俺、竜也さんが弱ってるとことか想像できないもん」
たしかに。あたしもずっと考えられなかった。「こっこちゃんは、本当は何で休んでたの?」
やっぱりばれているのか。
「ただの病欠です」
自分でもちぐはぐな敬語だと自覚している。隣にいるとぺらぺら話してしまいそうだったから、ジョンから少し離れた。
「ほんとうに?」
「うそです」
だよねー、と笑いながら、ジョンは手を叩いた。
「家出したんだ」
「ほう」
「親と喧嘩して友達の家に」
「もしかして誠治のとこ?」
あたしはえ? と大きな声を上げた。
「だって、明らかに一人じゃ食べられない量の買い物していたし」
俺も呼んでくれたらよかったのに、と頬を膨らませた。
「今度機会があったらジョンも呼ぶよ」
今度なんて来なくて結構だけど。
「でも、こっこちゃんが家出なんてイメージないなあ」
結局、今日は客入りが悪くてほとんど仕事もないようなものだった。そういえば、今日は雨が降ると天気予報で言っていたような気がする。
案の定、外はどしゃぶりだった。俗に言う「バケツをひっくり返したような」土砂降り。
バイトが終わって、いざ帰ろうとしても、この土砂降りの中で自転車を運転したくはない。徒歩で帰宅することもできる距離だけど、傘なんて持ち合わせていないし。
「あ~、雨に降られて帰れないよ~」とツイートしたら、ヒースさんが真っ先に返信をくれた。
「大丈夫ですか? 災難ですね(汗)」
「ほんとですよ。自転車ですし~」
そう返した。こんなやりとりの最中に誠治からメッセが飛んできた「迎えにいこうか?」
あたしはまさか、誠治がすぐさま返信するとは思ってもなかったので「うれしい」と返事をした。
痛い痛いと地面が泣き声をあげていそうな雨の中で、傘さえ持たずにでるのは無理がある。こんな日に限って余分な傘が店に一つもないし。
空きの多いファミレスの席の、出入り口に一番近い席に座って、誠治を待った。
窓についた水滴を眺めながら、昨日のことを思い出していた。
もういちど、彼とキスをする機会があったなら、今度はどんな風になるだろう。あのはじめての時みたいに、思い出したくない記憶になるのだろうか。それとも幾度も思い返したくなるような、すばらしい思い出になるのだろうか。
あたしにはわからない。ただ、竜也の心に触れたいし、心を触れられたい。それだけだ。
誠治は十五分くらい経った頃に、店内に入った。あたしは立ち上がって、入り口にまで駆け寄った。
腕や肩に水滴のついている誠治は、いつものさわやかな表情で「じゃあ送っていくよ」と言った。
「いこうか」
あたしたちは店を出た。
誠治が来た頃には土砂降りだった外の雨が穏やかな雨に変わっていた。なんだか誠治に悪いことしたなあ、と少し後悔した。
誠治は二本持った真っ黒の傘をあたしに貸してくれた。
わざわざ来てもらってごめんね、と伝えるといや、いいよ俺が自分で来たんだしと気持ちよく言った。その誠治のはっきりとした口調にあたしは心底安心した。だから
「昨日、殺したって愛美が言ってたじゃない。ほんとうなの」
この疑問を問いかけることができた。
「うん。ほんとうだよ」
彼も答えた。したしたと降り続いてる雨音で、誠治の声すらかき消されそうになる。
「どうして」
彼は歩道の端に立ち止まって、誠治の顔を見上げるあたしを切なそうな表情で見つめた。
「二人きりで、話せない?」
あたしは、うんと答えた。
「かにかまって女に二〇〇万くらい借金してるって噂、実際どうなの?」
「さすがにそこまでしてないだろ笑笑」
「俺、知ってるぜ。かにかまはな……おや、誰か来たようだ」
「もったいぶってないで言えよ笑」
「まあ、お前等の言うほどひでえ奴じゃねえぞ」
「お? 自作自演か」
「ちげーよ。リア友だからよ。あいつ案外普通だぜ」
二人きりになれる場所なんて誠治の家くらいしかなかった。母には「少し遅くなる。ひょっとしたら泊まるかも」とメールを送信しておいた。どれくらい長くなるか予想がつかなかったからだ。
あたしは斜めがけの鞄をハンカチで拭きながら、ソファに腰掛けた。前のように紅茶を出してもてなすことはなく、ただ困ったような顔をして微笑んでいた。それが妙に不気味だった。
彼が「殺人犯」の可能性が拭いきれないからだろうか。彼らも誰でも彼でも殺すわけではないと頭では理解しているが、少しの恐怖はあった。自分でも信じられなかったけど。
「こっこちゃんには何もしないから」
うなずいた。それを確かめるように、彼もうなずき返した。
「殺したって自分の手で殺めたってこと?」
「違うよ」
きっぱりと言った。
「でも、俺が殺したようなものだよ。暴力を振るっていたのは事実だからね。一応母親といっても、義理の母親なんだ。血のつながった母親は俺が二歳の頃に死んだらしいよ」
遠い国の貧困を話すみたいに話す姿に違和感があった。
「義理の母親の姉の娘が愛美なんだよ。戸籍上は親戚だけど、血統的にはだいぶ離れているね。愛美はその母親とよく遊んでいたよ。お菓子作ったり、近所のデパートで買い物したりしていたね。母親が死んだとき、俺は十二歳だったんだ」
親戚もあまりいないあたしには実感があまりわかない。だいたい、誠治が暴力を振るっていたという事実がまず受け入れがたいのだけど。
「まあ、自殺したんだよ。確か、蒸し暑い夜だった。自宅で首を吊っていたんだよ、母親がね。俺は夜中にトイレで用を足した後だったけど、なぜだか、尿を垂れ流してひどい顔をしている母の死に様を見て、興奮したんだ。身近の人間が死んだのに、なぜだか悲しくもなかった」
誠治は本当におかしいのかもしれない。こういう人をなんと呼ぶか、あたしはよく思い出せない。
「葬式のとき、勃起しているのが愛美にばれたんだよ。それから、ずっと俺をいたぶるようになった。あんたはサイコパスだとか、人間じゃないとかさんざん言っていたよ。実際、言われても仕方がないと思っていたから、そうだねと肯定したら愛美は決まって傷ついたような顔をするんだよ。よくわからないだろ。自分が言っていることなのに」
「多分、反論されたいんじゃないかな」
「なぜ」
「誠治にも心があると信じたいから。あたしだって、ほんとうに何もないだなんて思ってないよ。ただ、そういう部位の動きが鈍いくらいじゃないかなって」
どうなんだろうね、と上の空で言った。
「だって、ほんとうに心がないなら、そんな出来事忘れてしまうに決まってるもん。心があって、感情があるから、言われたことも覚えてるんだよ」
「感情がないわけじゃあないよ」
誠治は言った。
「俺だって感情くらい持ち合わせてるよ。ただ、俺の感情の構造を愛美や母親のような人間が理解できないってだけだ。多分構造そのものがほかの人間と違うんだろうね」
そもそも、あたしにだって感情や心という部位についてちゃんとわかっていない。だから、誠治よりの人間なのかもしれない。だって、普通の人たちはそんな心や感情のありかなんて考えないもの。
「あたしも、少しわかるかもしれない」
「そっか」
はにかんだ誠治の顔を見て、愛美が好きになる気持ちが理解できた。あいにく、現在のあたしは誠治のことを恋愛対象として見ることはできないけれど。
「心とかよくわからないし、あんなものを信仰してる人なんてばかだって見下してるもん」
はっきりと、あははと笑った。
「こっこちゃんも、そうなんだ。共感してくれた人ははじめてだよ」
なんだか照れくさくてうつむいてしまう。
「俺の話、聞いて怖じ気付いた?」
首を振った。
「誠治が直接手を下したなら、怖かったかもしれないけど、そうじゃないって聞いて安心した。でも、なぜ暴力なんかふるっていたの」
誠治の喉仏が一つ跳ね上がった。
「俺のことを道ばたに落ちてるかめ虫を見るような目で見ていたから、むかついたんだ。殴ったら、その夜はよく眠れたから」
彼は彼の認識していないところでマグマのような激しい感情が眠っているのだろう、多分。
あたしは誠治のことを少しだけ理解できた気がした。その理解がほんとうの理解かどうかはわからないけれど。
話すこともあまりなかった。誠治の過去を知ったところであたしが何かできるかといえばそんなはずはないし、助けることも何もできない。そもそも、救済を彼は望んでいないのだから。
「こっこちゃんには幸せになってほしい」
マンションのエントランスで別れ際に誠治は目を伏せてそう言った。




