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 メッセージが届いていたことに気がついたのは、午後三時のことだった。起床したのは午後一時で、本当は午前中には起床する予定だったのに。あたしは目覚まし時計をたたき壊す勢いで壁中に投げつけて、じたばたと暴れていたようだ。それを見かねた母親が目覚まし時計計三つを止めたのだと、ため息交じりに聞かされた。


 いやいや、止めるくらいならついでに起こしてくださいよ、と関西のお笑い芸人の突っ込みばりに言うと


「んー、だって琴美ちゃんが寝ぼけてるとき怖いんだもん」


 そう、舌を出した。断っておくがあたしの母親は今年五十歳になったばかりだ。父親は今年五十八で母とは裏腹にしっかりした人である。悲しいかな、あたしは父親のほうに似てしまった。


 ついでにいうとあたしこの琴美という可愛らしい名前が大嫌いである。


 母は特に「琴美ちゃん」と呼んでくるので、会話をしているときはいつもいらいらして、腸が煮えくり返りそうになってしまう。


 もっとも、その嫌いになった原因は母親ではないから、母に文句を言うのも筋違いな気もするが、だからといって「呼ばないで」と一週間に一度は注意しているにも関わらず、しつこく「琴美ちゃん」と呼ぶ。軽くノイローゼになってしまいそうだ。


 ちなみに琴美、という名前を付けたのは母方のおばあさんで、あたしが生まれる前に


「もしもお父さんみたいな厳つい子だったらどうしよう」と相談していた、なんて話を去年聞いたのだが、そのときにおばあさんは


「大丈夫。あんたの子なんだから、可愛らしい性格のお洒落な子になるよ。今は化粧もいいもんがあるからね」


 なんてアドバイスを母にしたようで。


 ああ、なんてことを言ってしまったのだ。と娘ながら思うのである。


 このとき、「じゃあ、別の名前も検討しようか」なんて流れになってくれたらよかったのに。


 腹立たしい過去を思い出して、目の前にある四分の一だけ残ったポタージュを、床にたたきつけてしまいそうになった。危ない危ない。


 とりあえず、ラインのメッセージを確認すると「今日の七時にサイゼやで待ち合わせしよう」

 とにこにこ顔文字つきメッセージがあった。


「はい。何人くらい来るんですか」


 いつもより敬語が堅いような気がするが気のせいだろう。


 本当に、本当に、合コンなんてリア充イベントははじめてなのだ。はじめてだから、こんなに胸がばくばく高鳴って、こんなに不安になってしまうのだろう。


「同い年なんだからタメでいいよ(笑)」


 ジョンがあたしと同い年ということをはじめて知った、というより、なぜ教えた覚えがないのにジョンは知っているのだろう? と疑問が先立った。


 まあ、どうせあの男が教えたに決まってる。いつもいつも余計なことばかりをして、あたしの周りをうろうろと飛び回る蝿のような男だ。


「じゃあ、今日行くね」

「あ、琴美ちゃん、今日出かけるのぉ?」


 げえ、面倒なのがやってきた。とリビングの扉からスーパーの袋を両手に持った母親を一瞥してスマホを切った。


「ちょっとサイゼまでね」

「ふうん。お友達と? 琴美ちゃんはお友達が少ないから、ママも嬉しいわ」

「余計なお世話よ。友達なんていてもいなくても、どーだっていいじゃん」

「ええー、そんなことないよお。友達がいたら人生が豊かになるのよぉ」

「じゃあ、友達がいなかったら人生が豊かじゃなくなるの?」

「わからないわぁ。ただママなら耐えられないかもしれない」


 小学生と話している気分になるのだ。だから嫌いというわけじゃないが、好きにはなれない。実の母親だからなんだというのだ。


 あたしはほんの少しだけ残っていたポタージュを飲み干した。


「あのさ、琴美って呼ばないでよ。あたし、その名前で呼ばれるのが一番嫌なの」


 椅子から立ってキッチンへ向かい、音を立てないように皿とコップをシンクに置いた。


「でもぉ、琴美ちゃんは琴美ちゃんよ。あなたの唯一の名前でしょ。いつか好きになれるわよぉ」


 その甘ったるくて、締まりのない話し声を聞きたくなかった。あたしは耳をふさいで叫びたい衝動に駆られたけど、そんなことができるわけなくて、どうしようもないことはわかっていた。


 きっとこれからも琴美ちゃんと呼ぶ母親の声を、幾度も幾度も聞かなければいけないのは明白だ。それから逃れることは不可能だ。それでもあたしにとって不都合な現実でしかない。不快になるのだって、しょうがないじゃないか。


「今日は遅いから」


「いつも遅いじゃない」


 冷蔵庫に食材を詰める母親を振りきって、あたしは自室へ逃げ込んだ。



 そういえば昨日読んでいた少年犯罪の記事に、こんなことが書いてあった

「親がおかしいと子供もおかしくなる」


 そうなのだろうか。世の中はそんなにも酷なのだろうか。あたしはずうっと、ずうっと教師に「ナンバーワンよりオンリーワン」とか「一人ひとりの個性を発揮しよう」なんておだてられていたものだから、ほんとうの世の中を知らないままでいるのだ。


 知り合いが、法律を守らない企業で働いているにも関わらず「私がいなくちゃ会社が回らないんだ」なんて死んだ魚の目をしてぼやいたときには、身震いがしたものだ。


 たった一人が欠けたくらいで回らない会社なんて、潰れてしまえばいいんだよ。と彼女に言ったものの、乾いた笑いではぐらかされた。ここ半年は連絡が途絶えていて、彼女がまだ生存しているのかすら怪しい。


 でも、これがふつうなのだと誰かが言っていた。身を粉にしてまで会社に尽くすのがふつうなのだと。そんなのイかれてる、って返したら「いや、あんたが世間を知らないだけなんだよ」って鼻で笑われてばかにされたし、あたしは未だに社会とかふつうってものがわからないままだ。


 あたしが小学六年生の時に、あたしと同い年の男の子が同級生を殺した事件があった。確か隣の県で起きた事件だったのだけど、そのときはテレビでわいわいとお祭り騒ぎになっていて、気味が悪くなった。だって人が死んでいるのに。


 その男の子の親が弁護士でエリートなのに、どうして息子がああなったのかって何度も耳にたこができそうなくらいに、アナウンサーや有識者が話していたけれど、あたしはそれが不思議で不思議でしょうがなかった。


 だって、エリートの子供だから人を殺すのがおかしいのなら、貧乏の子供が人を殺すのは納得できるってことでしょう? 正当な理由があれば、犯罪を犯しても同情されるの?


 どんな人間が人を殺したって正当化できる理由なんて存在するはずがないし、貧乏だとしてもエリートでもだめなことはだめだ。同情するなら殺された子にしなくちゃいけない。って母親に言ったら、「よくわかんない」って耳を塞がれたけど。


 その男の子は確か

「人の運命を変えてみたかった」なんてふざけたことを言っていた。彼は今頃何をしているのだろうか。あたしより全うに生きていたら嫌だなあ、だってあたしは一切罪を作っていないし、迷惑をかけずにひっそりと生きているのだから。




 サイゼに行くためにあたしはとびっきりのお洒落をした。


 二年前に衝動買いをしたグロスとマスカラを塗って、髪の毛は広がらないようにワックスで整えた。くせっ毛なのはどうしようもないけど。


 洋服は母のお下がりのピンク色のワンピースを着て、小学生のときにお土産でもらった星がぶらさがったペンダントを身につけた。


 洗面所の前で一回転して、足をぴったり床につけた。目がおかしくないなら、今日のあたしは完璧だ。合コンに行くのも恥ずかしくはない容姿でいる。ファミレスなところがしょぼいけど。


 ドンキのテーマをふんふんと歌いながら、徒歩十五分先にあるサイゼへ向かった。


 慣れないヒール付きの靴を履いているからか、踵がひりひりと痛むのがわかる。


 世の女はこんな機能性が低い靴を履いてるのかと想像すると同情してしまうし、こんな靴を何時間も履いていたら外反母趾にもなるわ、と転びそうになりながら、慎重に歩く。


「もう着いてるよ」


 にこにこマークつきのメッセージが届く。ジョンのくせに十分前に到着しているのか、そりゃああの男でも彼女ができるわけだ。


 あたしはサイゼまでたどり着いてから、第一難関が立ちはだかった。


 サイゼに入店するには二十段以上はある階段を上らないと、たどり着けないのだ。あたしの足はもう白旗をあげていた。ただここで裸足になって駆け上がるわけにもいかない。


 サイゼの下の階段でサイゼを見上げて茫然としていた。あたしの努力もここまでか、と思い、涙があふれ出しそうになったとき


「どうしたんですか」


 後ろから声をかけたのは、あたしと同い年くらいの男性だった。見上げる形で、その男性を凝視すると、彼は少し照れくさそうな表情で斜めに顔を向けた。


「踵が痛くて、歩けないんです」


 とてもとても恥ずかしかった。ヒールの高い靴といってもたったの五センチくらいだし、その程度の靴も履きこなせない女だと思われるのは嫌だった。けれど、背に腹は代えられない。


「絆創膏を持っているんで、あげますよ。きっと、楽になりますから」


 手提げ鞄から二枚の絆創膏を出してあたしに渡してくれた。彼の手はあたしの一回りは大きな手をしていて、ああ、この手に触れたらどんな気持ちになるのだろう、と思った。


「ありがとうございます」


 彼の目すらろくに直視できなくて、あたしは自分の人見知りに嫌気がさす。こんなとき、奴のような性格ならば、連絡先の一つでも聞けるのだろう。ヒールを脱いで傷のできた踵に絆創膏を貼って履き直したら、彼の言うとおり歩けるようになった。


「よかったよ。じゃあ、俺は待ち合わせている人がいるから」


 ふんわりとした暖かい笑顔で彼は早々にサイゼへ入っていった。ん? 待ち合わせ? 彼は誰かと待ち合わせをしているのか? 


 あんな優しい男性なら、彼女の一人や二人いても不思議ではあるまい。息を吐きながら、あたしは階段を上って入店した。


 

 それは非常にあっさりとした運命の出会いだった、といえるだろう。あたしは入店後に禁煙席の一番奥の窓際の席にまで歩いていった。そこには二人の男がいて、一人はジョン、もう一人は……。


「彼女が相川さん?」


 そこにいたのは、さっき階段で絆創膏をくれた男性だった。ぴんと背を張った彼の背中は広々としていて、堂々としていた。二人の向かいの席に腰掛けたあたしは、一つ頭を下げる。


「そうだよ。相川さん、メイクすると雰囲気変わりますね。バイト先でもそんな見た目なら」

「あたし、メイクとか苦手なので、調理ですし」


 合コンというわりには人がいませんね、と聞いたらやんわりと「事情があったらしくてね」と教えてくれた。ジョンも案外悪い奴ではないのかもしれない。ただジョンとか名乗っているところが気にくわない。


「相川さんも俺たちと一緒に、ボランティアすればいいのにね」


 そう、こういうところ。


「譲二は意識高い系だから、大目に見てやってください」


 困ったように笑いながら、オレンジジュースを一口飲んだ。


「自己紹介遅れました。俺は飯田誠治と言います。誠治と呼び捨てで呼んでください」


 さわやかな表情はぺっとりと張り付いていた。おそらく、慣れているのだろう。


 その後、フライドポテトとアイスコーヒーを頼んだ。店員さんはやけに可愛らしいお人形さんのような人だった。あたしは出かける前に鏡で見た自分自身と比較して、なんとなく落ち込んだ。化粧は濃くもない。素材がよいのだろう。


「相川さんのことは何て呼べばいいですか」


 初対面なのにここまで距離を詰められるとは思ってもなかった。しかも彼は誠治と呼び捨てで呼んで欲しいと言ったのも、あたしのもやもやの原因になってしまう。


「琴美ちゃんでいいかな」


 それは嫌だった。だから考えた。考えている間にジョンが


「こっこちゃんならどう?」


 なんてふざけた口調で聞いた。


「相川さんはどうですか」


 誠治の顔はやれやれと言いたげな、あきれた表情が隠しきれずにじみ出ていた。


 あたしは琴美以外の名前なら、何でも良かった。それくらいあの名前が嫌いなのだけど、なかなか自分の名前が嫌いという感情は他人に理解しづらいようだ。


「こっこでいいです」


 小さい子供の考えたあだ名みたいだ、と心の中であたしは笑った。


「こっこちゃん、なんだか可愛いかも」


 ぼそりと誠治がつぶやいた声を、あたしは聞き逃さなかった。お腹のあたりがきゅんとうずいたのに気づいた。窓の外の淡いピンク色の軽自動車を眺めた。これが恋なのだろうか。



 ジョンと話すことなんてろくになかったから、ジョンの経歴を知らなかった。だから、あたしは驚いた。


 ここから五キロ先くらいにまあまあ頭の良い駅弁大学があって、彼らはそこを卒業したというのだ。底辺大に入学してちやほやされて、就職で撃沈したあたしとは大違いだ。


「就活はしなかったよな。だるかったし」


 なんてあたしも言ってみたいものだ。彼らは心理学部を卒業していると言っていた。もしも、この生活が続くようならば、院へ進学しても良いかな、と冗談交じりに話した。


 就活時には五十社ほどはエントリーしたはずだ。それで引っかかったのは携帯販売と、携帯会社の三次下請けの聞いたこともないような会社だけだった。五十社エントリーした中の三分の一は面接までこぎ着けたが、その二社以外はすべてお祈りされた。


 だから、この二人の会話を聞いて、かたかた震えていたのだ。あからさまに震えてはいなかったが、手が、震えていたのがわかった。


 この二人とは住む世界が違う、という事実を目の当たりにした、といったほうが適切かもしれない。


「こっこちゃんは?」


 誠治はそう聞いた。彼の顔は悪意のなさそうな笑顔だった。


「あたしは」


 目の前がぐるぐると渦を巻いていくのがわかる。小学生の時にピンクの髪留めをつけていって笑われたあの日みたいに、二人にばかにされるのではないか、と考えた。考えれば考えるほど、言葉は出なくなるし、自分の存在が恥ずかしくってたまらない。


「内定取れなかったんです」


 自信がないと相手の目を見れなくなるのはいつものことで、あたしは大抵相手の目を見て話すことができない。


「よくあることじゃん」


 誠治はポテトをつまんだ。


「そうそう、俺らは心理学部だから就職決まらない奴多かったし。自分を追いつめることはないさ」


 その言葉にずっと前から肩に乗っていた重石がなくなったような気がした。


「むしろ、俺は大学がここらで有名なところだからさ、就職しなかった理由をしつこく聞かれてうざったいよ。別に個人の勝手だろって」


 ジョンの言葉に、あたしはうなずいた。


「大卒なんだから就職くらいできるだろ、と説教されることもあって本当にムカつきます。親の金みたいに言われるけど、うちなんて奨学金借りてるし、返してるのはあたしだし」


「俺も半分は奨学金借りてるからわかるよ。譲二は裕福だからわからないだろうけど、奨学金借りてたら大変なんだよ」


「別に裕福じゃないよ。少しは裕福なんだろうが、特別裕福じゃないし、金があっても苦労することはあるよ」


「好き勝手遊んだり途上国でぷらぷらして留年したおまえがよく言うぜ」


「ぷらぷらとは失礼な。俺は他国へ行って貧困の実状を学んだんだ。あれは社会勉強なんだよ」


 はいはい、とあしらう誠治を見て、案外あたしは人と付き合えるのかもしれない、と思ったのだけど、もしかしたら二人があたしと同種だから、うまく会話ができるのではないか、とも考えた。


 最高に心が躍っていたのは事実だけど、この時間がずっと続くわけではないし、明日には大嫌いなあいつと会わなきゃいけないと考えると、あたしはとても、とっても憂鬱になった。


 ああ、あいつさっさと死んでくれないかなあ、なんて考えた。


 誠治の柔らかい顔に浮かぶえくぼを目撃してしまったあたしはその純粋な笑顔によって、どうしようもなく自分が醜いものに思えて、死ぬべき人間はあたしなのかなあ、なんて胸が締め付けられたけど。


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