16
無言でかにかま……誠治の自宅まで二人で肩を並べて歩いた。誠治も出会ってワンチャン狙っていたのかもしれないけど、まさか顔なじみの不細工だとは思ってなかったのだろう。
相変わらず誠治の部屋はだだっ広くて、掃除ロボが床を這っていた。あたしはリビングのソファに座って、いつもより少しだけ緊張しながら、誠治がロールケーキと紅茶を用意するのを待っていた。手伝おうか? と聞いても黙って首を振ったのだ。
机にティーカップと見覚えのあるブランドのマークがでかでかと描かれた皿の上に、さきほどコンビニで購入したロールケーキがあった。
「この皿って」
「ああ、エルメスだよ。親戚がくれた」
言葉も出ない。ソファの隣に誠治は座り込んで、手を一度合わせてから、紅茶をすすった。あたしも手を合わせてフォークでケーキを食べる。
「誠治が、かにかまさんなの」
あまりにも信じられなかったのだ。あたしの顔を一瞥した誠治は苦々しく口元をゆるめて低い声でうん、と頷いた。
「俺って悪い噂ばかりだからね、信じられないのも無理ないよ」
「噂って本当なの?」
まあ、と目線をそらした。
「本当じゃないと言うと、嘘になるかな」
好奇心と恐怖心が隣り合わせでせめぎ合っていた。このまま誠治と関係を続けるのはまずいのかもしれない、なんて考えていた反面、もっと接してみたいという好奇心もあった。
「愛美さんは知ってるの?」
「もちろん。ネットで流してる悪い噂も大半があいつが流してるんじゃないかな」
「どうして?」
「さあ。俺だって知りたいよ。ただ、あいつは昔からそうだったんだ。執着するし、独占したがる。そういう奴だよ」
「それは、誠治のことが好きだからじゃないの」
彼はフォークを皿に置いた。
「そんな生半可な恋愛感情とはわけが違うよ」
これ以上触れてはいけないような気がした。だから、「そっか」と答えることくらいしかできなかった。多分、あたしみたいな新参者が聞いていいことではないのだろう。誠治の過去とか、様々な事柄も同様に。
「でさ、こっこちゃんはどうして突然かにかまに会いたがったの」
「逃避、かな」
「なるほど」
誠治にありのままを話した。家のことや竜也のこと、竜也のことが心底好きだった中学の頃のことだとか、あの頃の幻想をいまだに引きずっていること。真摯に聞いてくれて、あたしは心の中が少しだけ楽になった。
「じゃあ、うちに泊まる? 要は家出がしたいんでしょ?」
え、と言葉に詰まった。確かにかにかまさんに連絡したのはそういう意図ではあるのだけど、いざ誠治に言われると戸惑ってしまう。
「俺は何もしないよ。こっこちゃんがしたいなら別だけど。部屋だって余ってるし、布団も余分が何枚かあるし」
「でも」
「対価として料理でも作ってよ。ほかは何も求めないよ」
じゃあ、とつぶやいて頷いた。
「あたしも、大したもの作れないんだけど」
「いいよいいよ。誰かの手料理が食べたいだけだからさ。ほら、飲食店の料理はちょっと違うじゃない?」
こんな具合で、適当な雰囲気と緩いノリに飲み込まれてプチ同棲生活がはじまったのだった。
あたしとしては、うれしい反面、不安もあった。明日は確かバイトのシフトが入っていたし、外泊なんてしたことなかったから。心配してないだろうか、大丈夫だろうか、そんなことを考えた。誠治に言ったら、
「まあ、別にいいんじゃない?」
適当に答えるし。
きっと坊ちゃんだから、なあなあに生きていても許されてきたのだろう。どこかその自由な生き方に憧れていた。。だいたい、親も労働者階級で、収入も平均かそれ以下の子供だから、自由になんて生きていけないんだけどさ。
現代には階級がないなんて大嘘だ。そんなのは階級差を認めたくない運の良い富裕層と、階級差があることを知られたくない賢人が言ってることだ。実際には誠治のような人と、あたしのような庶民じゃ全く生き方や選択肢が大きく異なるし、リスクだって大きく異なる。あたしのような庶民の中でも低いカーストだと高等教育を受けることすらリスクになるのだ。
こうやって愚痴ったって何も変わらないけどさ。
夕飯は肉じゃがとサラダとお味噌汁とご飯だった。肉じゃがとお味噌汁を作ることが精一杯で、、スーパーのカット野菜くらいしか用意ができなかったのだ。でも、ドレッシングは簡単に手作りした。すべてクックパッドのレシピだ。素晴らしいインターネット社会である。即興で作ったらどんなものになったことか。
ちゃぶ台の前に座り込んで、向かい合ってそれらを並べて食事をした。なかなか、我ながらまともに作れたほうで
「さすがキッチンやってるだけあるね」
と褒めてくれた。まあ、うちのキッチンはレンチンがほとんどだけれど。
「よかった。あたし、ぜんぜん料理しないからさ」
「じゃあ肉じゃがとか作るのはじめて?」
いくら男女平等だの言われるご時世でも、肉じゃが一つ作ったことがない女というレッテルを貼られることは、恥ずかしい。
「まあね」
「にしてはうまいね」
「クックパッドさまさまよ」
二人で笑いあった。
自宅で食事するときは、特別緊張しているわけじゃないけれど、母の言葉一つにいらだったり、父がおかずをこぼしながら租借したりするものだから、心安らげないのだ。それに比べて、誠治は食べ方一つについても隙一つなく丁寧だった。生きている世界が違うのだろうなあ。
「誠治は料理できるの?」
「多少は」
「たとえば何作れる?」
「作ろうと思えば何でも。豚の角煮とか一時期作っていたかな、あとクリームパスタとか。お菓子ならシュークリームくらいなら作れるよ」
そっか、と答えた。あたしごときが手料理を披露するのが恥ずかしい。
「でも、面倒で作らないんだよね。ほら、後かたづけとか疲れるじゃない。一人だと出来合いのもののほうが楽だしね」
「そんなものなんだ」
「うん。そんなものだよ」
「やっぱり、お母さんに教えてもらったりしたの?」
すると誠治は黙った。聞いちゃいけないことだったかな。茶碗を机に置いた。誠治はなお箸を進めている。
「俺の母親は中学の頃にいなくなったから」
「離婚?」
「まあ、そんな感じ」
これ以上は踏み込んではいけない、と思った。だから、聞くことをしないで、ただサラダを口に入れた。
「別に俺は話すことをためらったりしないけど、こっこちゃんが怖がるのは嫌だから、話さないよ」
と味噌汁をすする。
「あたしは怖がらないよ」
「本当に?」
「そりゃあ、何もかもじゃないけど。すでに放尿緊縛好きだってことは知ってるし」
あはは、と笑った。
「そんなこと、大したことじゃないじゃないか」
「そうなの?」
そうだよ、と答えた。
「世の中はもっとひどい性癖をもった人がたくさんいるよ。死体に興奮する人や、殴られる人を見て興奮する人だっているんだから」
「倫理的におかしいじゃない。おかしい人はいくらでもいるけど、比べちゃいけないよ」
「そうだね。だけど、言わないだけでおかしな人はいくらでもいるんだよ」
さらっと言ってしまった、誠治のことが少しだけ怖かった。だって、あたかも、自分が何もかも知ってると言いたげな口振りなんだもの。
「誠治は経験ないよね」
「どうだろ。ないことはないけど、あるってほどでもないかなあ」
そっか、とつぶやいた。
それから様々な話をした。それは子供の頃の話だとか、ふつうの人とずれているような気がする話だとか、そんなこと。不思議と話していて飽きなかった。
「へえ、こっこちゃんは処女なんだ」
「彼氏いたことないからね」
「じゃあ、キスもまだ?」
ソファにもたれているあたしの手に誠治は手を合わせた。
「キスはしたことがある」
言うと、誠治はあたしの唇に唇を合わせた。柔らかい唇にはどこか違和感があって、むず痒い気持ちになった。不快感なのだろうか、嫌なのだろうか。考えたけれど、意味なんてないと思ったから、できるだけ考えないようにした。
唇を離して、誠治の顔から思わず目をそらした。
「どうしたの?」
「したくなったから」
何故か竜也のことが頭に浮かんだ。どうして、誠治と一緒にいるのに奴の顔ばかり浮かぶんだろう。あいつのことなんて大嫌いなのに。
「愛美ともしたことあるの?」
「あいつとはしたことないね。どうして?」
「こんな簡単にできる人なら、愛美ともしてるかと思っただけ」
ああ、とクスクス笑いながら言った。
「ひどい言いようだね」
事実じゃん、と軽口を叩いたら「そうだね」とまた笑った。誠治は不思議な人だ。
「なんだろうね。嫌悪感とか罪悪感があまりにもあるから、する気になれないんだよ。でも愛美が迫ってきたら、多分俺は受け入れるだろうし、なんだかんだで素晴らしいことができるだろうよ。でも、あいつが迫ってきたことはたった一度もないんだよ」
「罪悪感?」
「愛美の親戚が俺の母親で、愛美は俺の母親によくなついていたけど、まあ、俺がちょっとしたことで母親を傷つけたんだよ。それだけ」
傷つけたという言葉の曖昧さに、あたしも、その事実が大したことのないことに思えた。事実、誠治は
「ご飯を食べた」と同じようなニュアンスで重いのか重くないのかもわからない過去の話を話してるのだ。
「だから、恋愛として好きじゃないってそういうことだよ。あいつは俺に痛い目を見てほしいんだ、だいいち、あいつはほかの男とほいほい寝るようなビッチだし、それをわざわざ俺に見せつけてるんだよ」
もしかして、と思った。もしかして、誠治は愛美のこと。
「愛美のこと好きなの?」
「どうだろうね。嫌いではないけど、考えたこともなかったよ」
そう自虐に笑った。
スマホの着信はずっと鳴り響いてうるさかった。だから電源を切った。
「いいの?」
誠治が今更心配してくる。
「別に、いいよ」
それからまたキスをした。