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木々がピンクに染まる季節になったって、あたしは何も変わらない。変わるのは子持ちの家族と十代の子供、あと教師くらいで、あたしのようなフリーターには一切縁のないことだ。
それでもソメイヨシノの咲く河川敷を歩いたら、やはりきれいだなとため息が出てしまうし、舞い落ちる花びらを掴むために悪戦苦闘していたりする。それを男子高校生に目撃されて指を刺されることも在った。
なんであれ、愉快になる季節なのだろう。
「皆さんで飲みに行きませんか」
就職活動中のジョンはバイト中にあたしと竜也にそう聞いた。土曜の夕方のバイトは三人で入ることが多い。ジョンは相変わらず仕事をさぼっていて、あたしもあたしで仕事が遅いので竜也ばかりが仕事を受け持っていた。
レンジにカレーライスを入れ終えた竜也は、シンクで水を飲んでいるあたしとジョンをぎろりと睨みつける。
「お前らは仕事もせずに飲み会の話なんてしてるんだ」
「まあまあ、先輩もそう怒らないでくださいよ。父からいただいた日本酒があるんですが、日本酒は飲まれますか?」
「おう、勿論飲むぜ」
竜也も単純なもので、酒で釣ればすぐに機嫌がよくなる。
「飲み会っていつにするの?」
竜也をおだてているジョンに聞くとコップに水を淹れながら
「どうだろう。来週の日曜なんかどうかなあ。誠治も誘おうと思っているんだけど。どうかな」
「誠治って誰だ?」
竜也は首をかしげた。
「俺の大学時代の友達で、こっこちゃんとも仲が良いんですよ。ね? こっこちゃん」
「そうだね。誠治とは仲良くしているよ」
「進展した?」
「何もしてないわ!」
このやり取りを見ている竜也の目は、嫌味のある意地悪な目をしていた。そして、何か思惑をたくらんでいそうだった。察しの悪いジョンは、そんな竜也の表情などお構いなしに話を進めていく。
「じゃあ決定ですね。みんなで焼き肉にでも行きましょう。楽しみですね」
心の底から楽しみにしていそうな純粋な笑顔とは対照的に、竜也の笑みは妖しいものだった。それからあたしは仕事に関すること以外口にせず、黙々と注文を捌いていった。
竜也も同じように仕事をこなしていっていて、不気味に思えた。ただ単にあたしが竜也の思考を読み取ろうとじっと観察していたから、余計にそう思うだけなのかもしれないけど。
バイトが終わったのは午後九時ごろだった。
春の夜はあたしの感情が少しだけ穏やかになる。花粉症も楽になるし、適度な気温も過ごしやすい。バイト先のファミレスの階段を下りていたところで、奴はあたしに声をかけた。丁度今日は同じ時間帯にシフト上がりだったからだろう。
「今日俺んち来ないか」
突然のことで言葉も出なかった。
それにしても門限ギリギリだというのに、どうしてこいつは不純な異性交遊と間違われそうなことをしようとするのか。全く理解ができなかった。
「あたし門限があるからさ」
「お前、いくつだよ」
「そもそも、こんな時間からしなくちゃいけないことって何があるのよ」
「酒盛り?」
「あんたはいつも酒飲んでるじゃない」
「俺一人ならいつでもいいけどよ、ホラ、君は昼から飲むタイプじゃないだろ」
「襲われそうで怖いわ。酔わせて何かするつもりなんでしょ」
「俺のことをなんだと思ってるんだ。そんなことしねえよ」
もしも、そうもしも。あたしがここで竜也の誘いに乗ったらどうなるのだろうか。いつ頃に帰れるかなんて知らないけど、この歳でもあたしは父に反抗することが許されないのだろうか。もう二十三になるのに。
竜也は「嫌ならいいよ」と階段を降りていく、あたしにすれ違おうとしたときにふわっと香水の匂いが香った。奴とキスした日の夜を漠然と思い浮かべて、顔がだんだん熱くなっていった。
「やっぱ、行くよ」
降りていく竜也の赤色のカーディガンの裾を掴んで、あたしは竜也の長い睫毛と少し茶色掛かった目を凝視した。
「いいのか?」
「いいの。だって、あたしもう二十三なんだから」
何故か竜也のほうが心配げで、そうか、とつぶやいた。「コンビニ行こうぜ。好きな酒とつまみを奢ってやるよ」
竜也はそう微笑んだ。この時、あたしから迷いの感情は消失してしまっていて、もうどこまでも飛んで行けそうな気持でいた。
コンビニへ行くと禿げ頭の男性が一人でレジの前にいて、あたしと竜也はそれぞれ好きなつまみを籠に入れていった。お酒は缶チューハイで、つまみはお菓子コーナーにあったチーズの盛り合わせを二袋買ってもらうことにした。
竜也はするめイカとウイスキーを購入していた。覇気のない店員の「ありがとうございました」をかすかに聞きながら、あたしと竜也は店を出て、小道に反れた場所にある薄暗い人の、一人もいない道の端をまっすぐに歩いて右折した場所にあるアパートにまで歩いた。
たどり着くまで一切あたしに触れることはなかった。あたしも竜也に指一本触れることはなかったし、それが一番正しいことだと信じて疑わなかった。
「ねえ、中学の頃のことって覚えてる?」
聞いたのは玄関で靴を脱いでいる最中のことだった。既に靴を脱いだ竜也はあたしのほうを振り返って、顎に右手を添えた。
「あまり覚えてないな。お前は覚えてるのか?」
「うん。鮮明に覚えているよ」
「すごい記憶力だな。仕事にも生かせればいいのに」
いつか、あたしはかつての記憶や、かつての竜也について詳細に聞いてみたいことがあった。時々こうやって中学のことをほのめかすような口調で問いかけることはあるけど、いつもこんなふうに会話はちぐはぐに終わってしまう。
そう、あたしが竜也とキスをしたあの日もだ。あたしはできる限りあの日の記憶を思い出したくはない。むしろ、どこかへ捨ててしまいたいほどなのに。ずっと、王子様のキスを待ち続ける少女のままでいたかったのに。
「もしも、あたしが竜也のことを好きだと言ったらどうする?」
彼は見たこともないほど見開いてから、だらしなく開いた口を手で隠した。
「俺のことが好きなのか?」
「別に好きじゃないよ。ただ聞いてみただけ」
彼はすぐさま背を向けて
「付き合うかもしれないし、付き合わないかもしれない」
曖昧に答えた。竜也の声はいつもよりはるかに自信がなさそうで、かすかに声は震えてもいた。そっか、とつぶやいてから、靴をそろえて立ち上がった。
「もしもだから。気にしないで」
それからあたしと竜也は浴びるほどの酒を飲んだ。買った酒はもちろん、竜也の家には酒屋さんが営めるのではないかというほどの酒があって、封を切られていない瓶をやみくもに開けて適当に水で割ったりして飲んだ。
「水みたいに飲むなよな。安くないんだぜ」
べろんべろんに酔ったあたしをたしなめる彼も、呂律は回っていなかった。スマホを取り出して、ゆでだこみたいな顔の竜也を撮ってゲラゲラ下品に笑った。
「あんただって酔っぱらっているじゃん」
「俺の酒だしいいの。お前は家に帰らなくちゃいけねえし、あんまり酔っちゃいけないだろう」
「もうお家に帰らないもん」
「それ、誘ってんのか」
にやにや嫌な笑みを浮かべている竜也をきっと睨みつけた。
「すぐスケベな顔になるんだから。気持ち悪い」
そっぽ向いたら竜也はあたしの髪の毛に触れた。床に手をつこうとしたら、空き缶によって手を滑らせてしまった。あ、と声が漏れたときにはすでに遅くて、仰向けに転がってしまった。頭上にあるのは竜也の顔で、理性が吹っ飛びかけてる頭では現状が把握できなかった。
「どうしたの」
「お前は俺のことが好きなのか?」
竜也はあたしに問いかけた。混乱すらできないほど呆けた頭では適切な答えが思い浮かばなかった。竜
也の表情は不安そうで、瞳はいつもより潤んでいた。
「竜也のことは嫌いじゃないよ」
ただ、と付け加えた。ぴたりと停止したままの竜也は唇を舐めた。
「中学の時の、あの竜也が好きだったの。あたしが好きだったのは、あの竜也で今のあなたかどうか、わからない」
「俺とセックスしたいと思う?」
首を横に振った。
「そういうのじゃないの。そういう好きではなくて」
「じゃあ、どういう好きなんだ」
「それは」
口ごもった。自分ですらうまく言葉に表せそうになかったからだ。あたしを俯瞰していた竜也はゆっくりと離れて、再び床に座り込んだ。新たにウイスキーを開けて、グラスに注ぎだした。
「わかったよ。俺のことは好きじゃないんだろ」
「違う」
「何が違うんだ? 今の俺は中学時代の俺なんかじゃない。あの頃の俺は全くの別人みたいなもんだ。そんな俺が好きだとお前がいうなら、そうなんだろう。でも、その俺は今の俺じゃない」
そうだね、と缶チューハイのプルタブを開けた。
「ごめん。何も聞かなかったことにしてよ。あたしも忘れるから」
後悔してしまうなら、はじめから言わなければいいのに。竜也の顔すら見ることができないまま、また缶チューハイを飲んだ。
竜也はあたしのことをどう思っているのだろうか。もしも、あたしが竜也のことを好きだと告白したら、付き合ってくれるのだろうか。中学の頃の竜也を引きずっているのは事実だ。
竜也はああいうが、中学の竜也も現在の竜也も同じではないか。同じ血を通った同一人物である。けれど、今の彼と付き合って、あたしは報われるのか?
過去の面影を追いかけて、結果叶えたとして、呪縛から逃れられるのだろうか。
あたしはただ、過去の俯瞰しているあたしの目線をぬぐいたいだけだ。ただ、あの放課後の図書館で話した竜也の純粋な表情や笑顔を、もう一度目の当たりにしたい。それで、その竜也を近くに感じたいだけなのに。