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 その夜には愛美からの電話はなかった。だから、日付をまたぐ前に就寝することができた。久々のことだった。まあ、愛美にも都合があるのだろうし、ひょっとしたら誠治とデートでもしているのかもしれない。愛美の笑顔を思い浮かべるとあたしまで嬉しくなった。


 ベッドに横になっていたら、あっという間に体調は良くなった。治癒能力に驚きだ。 


 時間は昼の一時で、たいそう眠ってしまっていたのかと軽い罪悪感があたしを襲ったけど、体調が悪かったから仕方ないのだと自分に言い聞かせつつ、リビングへ歩いてテーブルの上にあったクッキーをかじる。


「あら、遅かったわね」


 窓際に洗濯物を置いて、ベランダに干していた。化粧もせず、髪の毛もぼさぼさの母は百円均一ショップで購入したサンダルを履いて鼻歌を歌っていた。


「体調が悪かったから」

「そうなの。じゃあ寝なきゃ」

「だから寝てたんじゃない」

「へ? 寝起きなの?」


 こんな会話はいつものことなので気にしてはないが、実の母だから少しばかり不安にはなる。まだ母は四十代なのに。多分、人に興味がないだけなのだろうが。


 春が近いといえどまだフローリングは冷たく、裸足だと冷える。


「琴美ちゃんは将来どうするの」

「知らない。とりあえず奨学金を返さなくちゃ」


 うん、と母はうなずいた。母は奨学金を成績優秀者に無償でもらえるものだと勘違いをしているから、母に奨学金の話をすると強制終了したロボットみたいに固まってしまう。すぐに再起動して別の話題を振るけれど。


「でも、今は女性も正社員で働かなきゃ」


 ほらね。いつもこうだ。母は正社員で働いたことなんてないくせに。


 食べ終えたクッキーの袋をゴミ箱に捨ててから、あたしは冷蔵庫にあった牛乳パックをコップに注いで飲んだ。


「あたしの苦労なんてわかんないのに。よく言うわ」


 克也が暗記カードを作っていたことをふと思い出した。あれ、もしかして。


「母さんは正社員で働いたこともないのに。克也が大学に進学したいっていったらどうするの」

「奨学金を借りればいいじゃない。お母さんが今更、正社員になれるはずないじゃないの」


 したり顔で言った。


「奨学金は返さなくちゃいけないんだよ」

「お母さんは頭が悪いからわからないわ。克也の好きにすればいいのよ」


 お母さんは頭が悪いから、それが母の常套句だ。いつもその言葉であたしは戦意喪失してしまって、そうだね、くらいしか返せなくなってしまうのだ。牛乳を飲み干して、シンクに置いた。


「体調が悪いから、寝るわ」


 それから自室へ戻り、夕晩時まで横になってスマホを触っていた。ゲームやネットをしていたらあっという間に時間は過ぎてしまうのだ。 


 今日の晩ご飯はトンカツで、あたしは母の「今日はトンカツの気分だったの」にいらだちが止まらなかった。精神的なものと、胃腸のいらだちだった。



「俺と仲良くしませんか?」


 SNSのメッセージ欄にあったのはかにかまさんからの一言だった。あたしは何度も宛名を確認した。だって、あたしが認識されているだなんて思ってなかったんだもの。そう、深淵はあたしを覗いていたのだ。


「あたしはセックスする気はないので。出会う気もありません」


 そう送り返すと

「俺のことをなんだと思ってるんだ。ネットの噂話を当てにしないでくれよ。あんなのただの噂なんだからよ」


 そういったって、噂が一切の嘘だという根拠もないのに。だいたい、悪い噂を流されるほどの人間というのも珍しい気がするが。


「どこまでが本当なんですか」

「ひみつだよ。仲良くなったら教えてあげる」


 こんな人間を信用できるものか。


「どうしてわざわざあたしにメッセを送ったんですか」

「君のことが気になったからさ」


 そんな易々と甘い言葉をささやいてしまう者がまともであるはずがないのだ。


「知りません。かにかまさんが何者かも知らないのに、仲良くだなんてありえないわ」


 そう送ると、ぱたりと返事は途絶えた。と思ったのだが、一時間くらいしてから


「リアルの君を俺は知ってるんだよ。君だって俺が何者なのかくらいは知っているはずなんだ」


 と気味の悪いメッセージがあり、寒気がしたあたしはさっきまでのかにかまさんとのやりとりをすべて消去した。


 消去してからも、メッセの文字列が頭に張り付いてしまって、ウジ虫が体中を暴れ回っているかのようなむず痒さでいっぱいになった。


 だいたい、あたしがリアルで知っている人間なんて限られているのだ。竜也やジョン、あと誠治と父と克也と……。


 もしかしたら、男になりすましている女なのかもしれないが、かにかまさんとリアルで出会った人のつぶやきを見る限り女の可能性は限りなく低いだろう。


「さんざんだ」


 そうつぶやいた。つぶやいたからって何かが変わるわけではなかった。


 ベッドでふて寝していたら、克也があたしの部屋に入ってきた。その表情はいつもよりずっと暗くて、


「どうしたの、冴えない顔して」


 と聞いてみたところ。ベッドで寝ころんでいるあたしの横に腰掛けてから

「俺さ、大学行きたいんだよ」


 打ち明けられて、そうだろうなと思って頷いたのだけど、克也の表情は一向に変わらない。


「母さんにさっき聞かれたんだよ、大学行きたいのかって。うんっていったら、どうして工業科なのに大学行くのかってさ。俺が電気科なのは母さんも知ってるけど、まさか大学にまで行きたがると思ってなかったみたいで」


 克也の成績は高校の中でもトップクラスだ。しかし高校は頭の良くない工業高校だ。推薦がもらえるよ

うな学校は私学になってしまうし、国公立を目指すには能力不足だ。


「浪人は許さないって父さんに言われたし、俺どうしたらいいんだろ。私学に行くべきかな」


 あたしは体を起こして、克也の横顔をじっとみた。


「行きたいところへ行くのが一番だと思う。後悔するから」


 自信なさげに克也は目を伏せた。


「あんまり奨学金を借りたくないんだよ。最近は滞納に厳しいと聞くし。姉ちゃん大変そうじゃん」


 そうだね、とつぶやいた。確かにあたしは現在大変だし、後悔したこともあった。しかし、克也には好きな選択肢を選んで後悔してほしくはないのだ。就職さえ決まって仕事が続けば奨学金なんて返せるわけだし、電気科ならば社会学科よりかは就職しやすいだろう。


「高卒で就職するのも手だとは思うんだけど。やっぱり挑戦してみたいからさ」


 不安そうな目線の先には空虚があった。



 挑戦してみたい。その言葉を何度も復唱して、あたしにはなかったなあ。なんて考える。何かに挑戦したことが一度でもあっただろうか。いや、挑戦なんてしたことがなかった。


「あたしも、今から何かはじめたら変われるのかなあ」


 口に出したって変わることはできないことくらい分かっている。


 夜の二十三時、スマホがなる頃合いだ。丁度二十三時にあたしのスマホは震えだした。三回目のコール音でスマホの着信ボタンを押して、もしもし、と条件反射に言うと「もしもし」と柔らかいいつもの声は答えてくれた。


「どうしたの、いつもと違った重い声をしてるけど」


 そんな自覚はなくて「そうかな」とへらへら笑って見せた。


「さっき弟の進路について話していたんだ」

「高校生だったよね」

「うん。大学行きたいらしくてさ。でも奨学金を借りなきゃ厳しいから」


 愛美は黙り込んだ。


「別に大した話じゃないんだけど。後悔はしてほしくないの。好きな道を歩んでほしいし」

「わかるよ」


 冷え切った指先をグーパーして、白熱電球の光を見た。愛美の側は電波が悪いのかぶつぶつと途切れとぎれになることが多かった。


「きっと、大丈夫って信じるのが一番だよ」


 彼女のその言葉で、あたしは不思議なほど心が穏やかになった。うん、とあたしは答えた。答えてから彼女と付き合っていて良かったと心から思った。


 それから、愛美が寂しいということが少なくなった。どうしてなのか、あたしはよく知らない。誠治の話も前よりずっと少なくなって、彼女も就職しようかな、なんてぼやいたりした。

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