12
薄暗くて空気が乾いた図書館にいつもあたしは一人きりでいた。それは中二の五月までの話しで、それからは二人でいることが増えた。その人は中学三年生の男の子で、学校を頻繁にさぼる、いわゆる不良の男子だった。
でも、その先輩は誰もが知っていたし、女子生徒からは人気が高く、皆が一目置くような存在だった。
悪い噂ももちろんあった、今思えばばかばかしい噂ばかりだった。「あいつは両親がいないんだよ」とか「外で女に子をはらませたんだ」だとか。くだらないから、彼は一切耳を貸さなかったし、あたしはその姿勢に惹かれたのだ。
その子は金曜の夕方に図書室に訪れた。図書室の扉を開いて入ってくるとき、太陽の逆行で目をしばしばさせて苦しそうに顔を歪ませていて、ついあたしは吹き出してしまった。
ばかにして、というわけではなく、なんというか、意外だったのだ。子が泣いても笑わない、とか人を殺せそう、なんて言われていた先輩が、たかが太陽光線であんな眉をしかめるなんて、思ってもみなかった。
あと、放課後に図書室へ訪れる生徒が少なく、その日もぼうっとしたまま過ごせると油断していたのもあるだろう。まさか、学校中で評判の不良が図書室へ足を運ぶだなんて、考えもしなかった。
入り口のすぐ横にパイプ椅子に座っているあたしを見て、男は首を傾げた。
「どうしたんだ」
とっさに何を言えばいいのかわからず、言い訳を考えた。そりゃあもう、このときのあたしの脳内はひどいことになっていただろう。
「さっき窓の外で豚が空から降ってきていたんです」
いつだか読んだ絵本にあったイラストを思い浮かべながら、あたしは無我夢中で説明をした。詳細に、信じてもらえるように。
今思えばばかだったなと思う。だって空から豚が降ってくるなんて、現実にはそうそうあることじゃあない。ここが養豚場ならまだ可能性はあったかもしれないが、残念ながらここは中学校だ。
その男はけらけらと笑った。空気を入れすぎた風船がはじけたみたいに、腹を抱えて笑った。
彼の笑い顔を、はじめて目撃してしまって、どうにもこうにも冷静ではいられなかった。笑ったときは頬にえくぼができて、目をずっと細めて猫みたいな顔になってしまっていた。そんな彼の、様々な噂を知
っているからこそ、なおさらだった。
「お前は金曜日にいつもここにいるのか」
笑い終えたかと思うと、真っ赤になった顔をパイプ椅子に座っているあたしに近づけて聞いた。思わず顔を逸らしてしまった。机の上に置いてあるPCディスプレイとキーボードが目に入った。
「金曜日はあたしの担当なのでいつもいます」
「じゃあ、来週も来るから」
そう吐き捨てて、男は嵐のように去っていった。脱力した体をパイプ椅子の背もたれが受け止める。それから、肺にある酸素をすべて口から吐き出した。あの人、きれいな顔をしていたなあ。
次の週の金曜日にも、男は訪れた。そのときも、あたししか図書室には人がいなかった。しかも、宿題をしていた。パイプ椅子の横に学生鞄を置き、教科書とノートを出して数学の問題を解いていたら、男はやってきた。
扉を開け、問題を解いてるあたしの顔をのぞき込んでから
「ひさしぶり」
爽やかな笑顔で言った。白い歯をにっと見せつけ、彼はあたしがノートを置いている机の上に肘をつき、ノートをじろじろと見た。
「字がきれいだな」
さらりと言った言葉は、ぬめりとあたしの手にひっついた。
「あたし、字がきれいだなんて一度も言われたことがないです」
「それでもきれいだぜ。整っててバランスもとれているし、何より読みやすい。俺が好きな字だ。誇りを持てよ」
こんなこと、彼が言わなければあたしだって、彼の記憶や彼にとらわれずにすんだのに。今だってあのぬめりが手にこびりついて取れないんだ。洗っても洗っても、手がぬめってしまってどうしようもない。
「竜也先輩は誰にだってそう言ってるんでしょう」
そう吐いて、平常心を保つしかなかった。嫌みのない笑顔の彼は嫌みなく
「どうだろうな」
そうつぶやいた。
けれど、あの頃の竜也はいなくなってしまった。今は飲んだくれのフリーターで、前ほど女の子にもてないし、嫌みだし、だめな大人で、だめな男だ。もう彼は戻ってこない。
帰宅してからベッドに横になり、何もやる気のしないあたしはスマホをぼうっと見ていた。タイムラインには不必要な情報が並んでいて、あたしはいくらでも取捨選択ができた。
珍しくヒースさんは取引のつぶやきをしていなかった。
「女性はどうして、ああも自分勝手なのだろうか。俺の周りの女性が悪いのだろうか」
なんてつぶやいていた。ヒースさんの周りの女性関係を存じないが、そんなにややこしいのか、と同情しちゃう。
「俺は女性が好きだから、できるだけ女性に優しくするように努めているけど、彼女にその気持ちが伝わっているかがわからない。どうにも彼女は俺のことを身勝手で自分勝手な人と認識しているようだし、本当にそうだとしたら俺は悲しい」
ヒースさんのような優しげで稼ぎのある男性でも身勝手で自分勝手だと思われるのか。
だいたい、どうしてヒースさんのような人が、そんな面倒な女と付き合い続けているのか、疑問でならない。正直、あたしが男ならそんな女なんて諦めちゃうし、もっと都合の良い可愛らしい女を探すだろう。
「ヒースさんも苦労してるんですね。もっといい女性がいますって」
そうつぶやいたらすぐに
「恋愛ってそんな単純なものではないんだよ」おそらくあたしに向けられたつぶやきだろう。泣き顔の顔文字を語尾につけていた。
「彼氏なんていたことありませんからね……」
「まだ若いから、高望みさえしなければすぐにできるよ」
本当なのだろうか。このような言葉を見かけるたびにあたしは言葉を疑ってしまう。その言葉の通りなら彼氏の一人くらいできたっていいはずなのに。一度もできそうな気配がない。それとも(一般的かそれ以上の容姿の女性に限る)が「高望みさえしなければ」の前にくっついてるのだろうか。
「心に触れられた経験も、愛をもらった経験も一切ない。こんな人生はいつまで続くのでしょうね」
つぶやいた気持ちは誰にも拾われずに、誰にも見られずに、ネットの炎上騒ぎや政治経済ニュースに消されていってしまう。だからこそ、本音や弱音を吐きだすことができるのかもしれない。
「@かにかま 誰だよ俺の嘘情報を流してる奴は。俺は女を殴ったり首絞めたことなんてないぜ。でたらめを言うのはいったい誰だよ」
「本人降臨キター!」
「俺だけど。嘘じゃないだろ、オフした女に聞いたんだけどさ。どっちが嘘を言ってるんだろうな?」
「@かにかま どっちが笑 成りすましか何か知らねえが迷惑なんだよ。メッセージで語ろうぜ。リアルでの知り合いだろ、お前」
「お断りだ。俺にも俺の事情っつーもんがあるんだから」
「@かにかま 何言ってるんだ。お前、日中もずっと掲示板にいるだろ。Id を検索したらすぐにわかるんだぜ。まあ、こんなネットの片隅にある匿名掲示板の情報を信じてる奴なんてろくでもない奴しかいないし、俺は別にどうだっていいんだけどよ」