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今更何をやっても無駄だろう、そんな気持ちがあたしを支配し続けている。それは大学合格したときからのことだ。
あたしの数少ない友人が首都圏にある私立大学に合格したと報告したとき、どんな顔をすれば良いのかわからなかった。地元の国立も一応は受験しようと試みたものの、E判定で諦めざるを得なかったし、そういうものだろうと自己暗示をかけていた。県外の私大で魅力的な大学もあったけれど、資金がなかったため諦めた。
彼女はあたしよりずっと頭が悪かった。
高校受験時には公立高校に落ちて、滑り止めの私立高校に入学したような子だ。「琴美ちゃんは頭がいいよね」と彼女からは耳にたこができるほど言われていたのに。
家庭教師に教わったらみるみる成績が伸びたの、と電話口で言われて、直接じゃなくて良かった。とほっとしたあたしの気持ちを、誰も知らないだろう。
「琴美ちゃんも家庭教師つければいいのに。もったいないよ。だって頭いいじゃん。一浪すればいいのに」
反論なんてできるはずがなかった。
「そうだね、でも合格しちゃったからさ」
自己責任だ、と言い聞かせた。この言葉を発してしまった時点で、誰のせいにもできない。この選択はあたしが決めたことなんだ。
「いつか、また遊びたいね」
そうだね、と口にするあたしはまるであたしじゃないようだった。身体から乖離していく感覚、考えなくてもしゃべることなんてできるんだな、ともう一人のあたしが思っていた。
この日から、自分に期待しないようになったし、「そういうものなんだ」と言い聞かせるようになった。単純に、物事を諦めるようになったのだろう。
社会学部だと、このような格差がありありと可視化される。客観的に明白なデータを見ると安心できた。データを収集するときは平穏を保てたし、自分に対する言い訳ができた。「社会問題」という体で語ることもできる。
就活で内定がとれなかったことにも驚かなかった。むしろ内定がないことより、人事の口頭での厳しい質問や恋人の有無、それから家族のことなどを質問されることが悩みの種だった。
過去のあたしはこんな苦悩を知る由もない。ただのうのうと学校生活を送っているだけだ。与えられた勉強をこなし、与えられた優しい試練を乗り越えるだけで生きていくことができて承認も得られる。
布団の中にいるあたしを、一歩下がったところでじっと見下ろしてるだけのあなたは一体何をしたというのか。あんたと代わってやりたいよ。無責任に未来を恨むだけの子供に戻れるものなら戻りたい。
愛美から着信がきたのは夜の十一時半のことで、ちょうどリビングでバラエティ番組を眺めていたところだった。ポテチを口に頬張りながら、ソファに寝転がっていた。
スマホが震えだして、画面を確認すると『愛美』とあった。あたしは自室へ戻って、電話に出る。
「どうしたの?」
「寂しかったの。誰かの声が聞きたくて」
声はいつもよりずっと低かった。
「あたしもちょうど暇していたんだ。あと一時間もはなせないけど」
「十分だよ」
ふふっと笑う柔らかい声だった。あたしは自室のかつて使用していた勉強机に腰掛けて、くるくる回った。
愛美のほうは外にいるのか、ごうごうと風の音がかすかに聞こえて、ときどき車のクラクションやバイクの走る音が聞こえた。
「やっぱり、一人暮らしは寂しいね。口うるさくても家族がいると安心するもん」
「そうなんだ。あたしは実家を出たことがないからわからないや」
「こんな寂しさは経験しないほうがいいよ。私は特に寂しがり屋なのかもしれないけど」
「今どこにいるの」
「アパートのベランダにいるの」
乾いた声でつぶやいた。そっか、と返す。
「私ね、どこにいても寂しさを感じてしまうの。自分でもどうしてなのかわからないけど。でも人といるときのほうがずっとましなんだ」
彼女のろれつが回っていないことに気がついた。お酒でも飲んでいたのだろうか。
「だれといたって、愛美はひとりぼっちなんだ」
「あたしがいても」
「そう。愛美は世界の中で孤立してるの。唯一、あたしをこの世界で認めてくれる存在は、誠治だけだよ。みんな、みーんな愛美とは別の遠い世界の住人なの」
だから、誠治は愛美の王子様なの、と彼女はぽつりと言った。
その言葉に喉と胸の奥がぎゅうっと締まった。あたしは愛美の友達になっても彼女の救世主にはなれないのだと、ひしひしと思い知ってしまったからだ。あたしに求められているのはそんな役割じゃないことも。それでいて、おそらく彼女の孤独というものは誠治の手によっても解決されるはずはないのも、わかってしまった。
だからあたしは悲しい。可哀想に思う。可哀想で小さくて弱い愛美を抱きしめてあげたいと、少しの彼女の孤独やつらい気持ちを和らげてあげたいと、思って、苦しくなる。
「つらくなったら、あたしに電話をかけていいよ。寂しさは紛らわせないかもしれないけど、少しは楽になるかもしれないから」
ありがとう、と愛美は控えめに言って、彼女はすぐに着信を切った。
「ストーカーじゃん」弟の言葉を薄ぼんやりと頭に浮かべながら、ストーカーよりひどいかもしれないな、なんて笑った。
それから、毎日のように夜中は電話がかかってくるようになった。常に彼女はひとりぼっちで寂しいのだと、泣きそうな声やろれつが回らない声で訴えかけた。
ループする話を一生懸命聞いて、どうにかなるよ、なんて励ましていたら彼女はにっこりと笑ってありがとう、とお礼を言ってくれた。その言葉に励まされていたのかもしれない。
しかし、問題が起こってしまった。ジョンの就活がはじまってしまい、月曜日の朝から昼のシフトが一人だけ足りなくなってしまったのだ。
「お前、暇だろ?」なんて竜也にガンつけられてしまったら、ノーなんて言えるはずもなく、あたしは引き受けてしまった。
梅が咲く季節になるとあたしは花粉症の症状が悪化するし、特に低血圧で朝に弱いのに。うしてガンつけられたくらいで引き受けてしまったのだろう、と後悔しても後の祭りだ。
それからというもの、遅刻が激増してしまった。月曜朝のシフトは竜也だったので、謝れば店長に黙ってくれてはいたものの、さすがに毎週のように遅刻となると竜也もあきれてしまったようで
「来週も遅刻だったら店長に全部バラすぞ」
そう脅しをかけられた。
その後に
「何か理由があるのか?」とも聞かれたけれど、友人が毎晩電話をかけてくる、なんて口が裂けても言えなかった。竜也の性質上、どんな回答が帰ってくるかは火を見るより明らかだったから。
「近所の野良猫がうるさくて眠れないんですよ」
なんて冗談を言ってみるものの、
「俺がその野良猫を保健所に連れて行ってやろうか」
なんて言われてしまう。しかし、架空の野良猫を保健所に連れて行くことは不可能なので、
「いや、大丈夫です」と断っておいた。
とにかく、来週も遅刻だったらバラされてしまうようだ。最悪、首になるかもしれないと竜也はからかった。あたしはろくに仕事もできないし、笑い話じゃない。
日曜の晩にいつものように着信があった。時間は二十三時半だ。明日のシフトは八時からなので、もう寝なくてはいけない。寝なくては明日のバイトに遅刻してしまう。
一度目の着信を無視して、スマホを自室に置いたまま歯磨きをしにいき、それから自室へ戻りスマホを確認した。二度の着信履歴があっただけだった。スマホを確認していたら三度目の着信があり、つい通話に応答してしまった。
「やっと繋がった」
電話の向こうにいる笑顔の愛美の表情がありありと伝わってきた。妙な罪悪感から目をそらし
「ごめんね。今日は話せないの。明日用事があって」
「私のこと、嫌いになった?」
「違うよ。明日は本当に用事があるの。朝からバイトがあるから」
「まだ二十三時四十分だよ? まだ起きていられるでしょ」
黙るしかなかった。あたしの低血圧や花粉症のことを話してもきっと彼女はなんだかんだ言って話せるはずだと、たしなめるだろうと感づいたからだ。話せない理由を並べている時間がもったいないとも思った。
「じゃあ、少しだけならいいよ」
それからあたしと愛美は夜の一時まで話した。話したといったら語弊があるかもしれない、話をずっと聞いていた。
誠治の話や親の話、それから自分が孤独だと思う理由やいじめられてきた過去のこと。もう何度同じ話を聞いただろうか。
彼女の心の奥深くにある闇を取り除いてあげられたらいいなと、あたしは思う。だからこうやって彼女の言葉をうなずきながら聞いてあげるのだ。そうすると、彼女は明日も元気でいられるらしいから。
翌日、空は重たく灰色の雲で覆われていた。重たい頭を持ち上げて、朦朧とした頭で顔を洗い、歯を磨いていた。
「あら、琴美ちゃんはまだバイトに行かないの?」
洗濯物をしていた母が私に聞いた。弟はいつも七時十五分には家を出ている。もうすでに父も弟もいないことに気がついたとき、頭が真っ白になった。
「今? 八時半よ」
母の言葉に愕然として、さらに痛む頭を抑えながら、適当な服に着替えて自宅を飛び出した。
自転車に乗り込み、猛スピードで道路を走り抜いていく。もちろん立ち漕ぎだ。
いつもより頭痛と鼻水が止まらない。しかも喉まで痛い。そういえば今週は花粉が多いとニュースアナウンサーが言っていたような気がする。竜也になんて言われるだろうか。店長に報告されてしまうだろうか。むしろこれまでお咎めなしだったことが不思議なくらいだ。今のバイト先を首になってしまったら、奨学金の返済をどうすればいいんだろう、今日首になってしまったら返済どころじゃない。家に支払っている食費や年金も払えなくなってしまう。
どうしよう! 竜也に身体を捧げればどうにかしてくれるだろうか。そんな単純じゃないだろうか。
泣きそうになっていた。この涙の理由は悲しいからなのか、花粉症なのかがわからない。信号機にひっかかるたびに、この世の終わりみたいな気分になるし、いつもより赤信号にひっかかるから十二分もかかってしまった。
店にはいると、お客さんは平日の平均よりずっと少なくて安堵した。第一、多い日でも竜也がいればあたしなんて、いなくてもどうにでもなるのだろうけど。
着替えて調理室に入ったのは八時五十分のことで、九時にはならなくてよかったと心底思った。
竜也は調理もせずにしゃがんで発注をしていた。あたしが「おはようございます」と声をかけたら発注をやめて立ち上がって、顔を近づけた。鬼の形相だった。
「朝シフトの中で一番遅かったぞ。お前は何やってんだ。俺が休みだったらどうしていたんだ」
怒鳴ることもなく、怒ることもなく、低い声で言い聞かせた。心臓を掴まれた気分になって、しかも竜也の声が頭に入ってこない。鼻が詰まっているからなのだろうか。
「だいたい、昼のときは一切遅刻しないのに、どうして朝だとこうも遅刻が増えるんだ? 夜の仕事でもしてるのか」
「すみません」
「すみません、じゃないだろ」
竜也はあたしの目をじっとみた。その目は潤んでいるような気がした。そもそも視界がぼんやりと歪んでいた。視力でも下がったのだろうか、いや、あたしは元々裸眼で視力も良い方なのに。ひょっとして、一晩で落ちたのだろうか、まさか。
「どうしたんだ?」
竜也があたしの身体を揺するけど、自分の身体なのに、まるで他人のもののように思えた。
「花粉症で、頭が痛くて鼻が詰まっていて、喉も痛くて、おまけに低血圧で朝に弱いんです。今日は特に頭がぼーっとして」
「それ、熱があるんじゃないのか」
「まさか。ばかは風邪をひかないんですよ」
いつもタメ口で話しているのに、どうしてか敬語になってしまう。竜也は調理室を離れた、あたしは喉を潤すために水を一杯飲んだ。すぐに竜也は体温計を持ってきてくれて、あたしに渡す。
「測ってから、熱があるようならさっさと家へ帰れ。店長には言っておくから」
結局熱はなく、三十六度九分だった。微熱の範囲内なのかもしれないが、あたしは熱はないと言い張った。
「じゃあ、簡単な作業だけしてもらうから。仕事ないときは座っておけ」
パイプ椅子をわざわざ用意してくれて、あたしはその上に座ってやっぱりぼーっとしていた。幸い、平日の朝ということもあり客足は少なかった。竜也も暇そうにしていて、自前の酒で梅酒のソーダ割りを作って飲んでいた。
暇なときはこうやって酒を飲みながら仕事をするけど、竜也は人一倍仕事ができるから誰にも叱られることはない。
退屈そうにしている竜也に聞いてみた。それは愛美のこと。
「深夜に毎晩電話をかけてくる女の子ってどう思いますか」
「彼女なら許す」
即答だった。
「彼女じゃなくて友達なら」
「あり得ないな。迷惑も甚だしい」
ふうん、とつぶやいて、シンクに置いていた水を一口飲む。
「もしかして、そんな友達がいるから朝起きられないんじゃないよな」
組んだ腕を解いて、竜也は酒の入ったグラスを持ったまま、あたしが座っている隣に立った。
「それは本当に友達なのか」
「友達だと彼女が言ってくれたんだから、友達です」
「友達なら友達が困っているのに電話をかけるか?」
「あたしがいなきゃ……愛美は、寂しがり屋だから、仕方ないんです」
口ごもった。竜也はいないと? と繰り返す。
「孤独になっちゃう。可哀想だ」
ぽろぽろと涙が出て止まらなかった。それを見下ろす形で竜也はあたしのそばにいて、何も言わなかっ
た。言えなかったのかもしれない。
一分くらいたってから、竜也がポケットティッシュを渡してくれた。それから口を開いた。
「お前はお前の心配をしろよ。人を可哀想だなんて言えるような身分じゃないだろ。自分のことで精一杯なくせに」
「あたしより、あの子のほうがしんどそうだよ」
「その女に俺から話してやろうか」
「だめだよ。あたしの問題だから」
首を振ったら、竜也は目を伏せてそうか、とつぶやいて背を向けて、また酒を飲んだ。
「いつか身を滅ぼすぞ」
真剣な竜也の言葉に思わず笑った。
「もう滅んでるから平気」
それからずっと会話の一つもなかった。バイトが終わるまでひたすら居心地の悪い沈黙の中を漂っていて、竜也の居心地の悪さまで伝わってきた。この居心地の悪さは嫌だったけど抜け出したいほどではなかった。
言葉が喉の手前に迫っているにも関わらず、誰かの保身のために沈黙を保っている。奴のしゃべらない優しさ、が好きだった。今の奴は嫌いだ。
かつての竜也、なんてもう死んでしまったも同然だろう。容貌は変わっていないから余計にむかむかしてしまい、むかつく自分に嫌悪する。
かつての竜也と重ねて、無駄な期待をしてしまって、無駄に絶望する。もう、諦めてしまえばいいのに。