10
午後七時、あたしと愛美さんは竜也の家を出て二人で歩いていた。愛美さんが話したいことがある、と深刻な顔をして言った。
暗くなってしまった道路端を、ふらつきながら歩く愛美さんの横顔は、陶器のようだと思った。目は瞬きをするたびに、輝きがましていく宝石のようだ。そんな宝石を持っていることが心底羨ましい。
歩道の向こうの道路では車が行列を作って、オレンジや赤の明かりをちかちかと点滅させていて、時々横を走り抜けていく自転車にもライトが灯っている。緩やかな下り坂だから、みんな髪の毛をなびかせていた。その姿はとても自由に思えた。
「私ね、誠治のことが好きなんだ」
「うん、知ってるよ」
すると、え? とあたかも驚いたかのような顔をした。まさかあれだけアプローチしているのに気がついてないと思っていたのか、いやこれはギャグだよな。と思考し
「冗談だよね。愛美さんわかりやすいもん」
と答えたら愛美さんは両手で顔を覆った。恥ずかしい、と。
「じゃあ、誠治にもばれてるのかな」
そりゃあそうでしょう、と答えようとしたが、待てよここでそんな事実を言ってしまったら、愛美さんはどんな反応をするだろうか。と頭の中でシュミレーションしてから
「どうだろうね」
曖昧に返事をした。愛美さんは人差し指を噛みながら俯いていて、その憂いに満ちた表情がますます愛美さんの美しさを増していた。悔しいけれど、思わずうっとりとしてしまった。
「私、誠治に告白したことが十回あるの。だけど、全部無視されてね、お前なんて眼中にないって、直接言われてはないけど、遠回しに言われたの」
こう聞くと誠治が意地悪で嫌な男に聞こえる。だいぶ愛美さんの補正がかかっているはずだ。
「知ってる? 誠治が前は神戸にいたこと。神戸にいたときから私はずっと一緒にいたんだよ」
「追いかけたんだ」
「そうよ。誠治は私にとっての王子様だから」
勝てない、と思った。あたしはこの人に勝つことは一生できないのだ、と。それは誠治のことではない。女として、人として、精神的な勇ましさのことで、愛美さんはあたしの持っていない様々なものや欠けているものを持ち合わせている。
けれど、嫉妬の感情は一切なかった。嫉妬するのがおこがましい、というべきか、それとも、あたしが彼女を敵に回したくないのか、わからない。
「愛美さん、すてき」
さらっとあたしの口からすてきなんて言葉が発せられるほどに、あっ関されていた。
愛美さんは自覚などないのか、ぎょっとした顔であたしを見て、それからくすくす笑った。
「すてきかなあ、ありがとう」
大きな目を細めて口角をあげる彼女の柔らかな表情は、この世のものではないかのようで、この世の物じゃないから彼女はあたしのような俗物には一生考えられないような執着心や心意気を持っているのかもしれない。
「だって、そんな風に一人の人を思っていられるなんて、あたしには考えられないもん。王子様、なんてあたしにはいないから」
「女の子はみんなお姫様なんだから、こっこちゃんにもすてきな王子様が現れるよ」
ふんわりと白い笑みにバイクの光が遮って、大音量で音楽を鳴り響かせているバイクがその後を続いて、音は徐々に遠くなっていった。
「私のこと、愛美って呼んでよ」
ね? と上目遣いの彼女は人なつっこい顔をしていて、昔の友人が飼っていた猫に似ていたような気がした。
「うん。わかった」
思わずその目線を無視してしまったからか、彼女は黙りこくってしまった。
それから、あたしと愛美さんは歩いた。彼女は異国の地から来た異邦人のようなオーバーリアクションで、すごいだの、田舎だのと感嘆の声を上げながら言った。あたしにとって、この街は四世紀半近く過ごしてきた場所だから、彼女の驚きように違和感を覚えた。
いちいち説明すると、彼女はうんうんと熱心に話を聞いてくれた。寂れた看板の古本屋がいつ頃まで営業していたか、とか薬局の店主のおばさんについてとか、あとはこの地の電車の説明だとか、路面電車の歴史について。
彼女は一瞬たりとも退屈そうな表情を見せず、楽しげに聞いてくれた。あたしにとってそんな同性ははじめてだったから新鮮だったし、何より話し甲斐がある。
「私ね、追いかけてきたっていってもこっちに引っ越してきたのは最近なんだ。大学は私大だから実家からじゃないと厳しいっていわれたから」
「じゃあ、ここ一年ほどなの」
「そう。就職も諦めてママから貰った就活費も全部引っ越し代にしちゃった。ママに怒られたけど、私にとって就活なんかより誠治のことが大事だったから」
伏し目がちに話す彼女の味方になりたいと思った。
「その女怪しいって。関わらないほうがいいよ、お姉ちゃん」
勉強机で暗記カードを作っている克也に愛美のことを話したら、きっぱりと否定された。昔克也にあげた熊のぬいぐるみを抱いて、ベッドに寝転がっている。
「けなげで可愛らしいじゃん。どこが怪しいのよ」
「姉ちゃん……その人ただのストーカーじゃん。ちょっとおかしいよ。普通は神戸から追いかけたりなんかしないって。姉ちゃんは騙されてるんだよ」
克也の部屋にはいたるところに野球選手のポスターが貼られていて、勉強机の横にある腰くらいの高さの本棚の上には野球帽が置いてあった。本棚には少年誌連載の漫画が並べてある。
「だいたい、その愛美って人と姉ちゃんとはタイプが違いすぎるよ。姉ちゃんはそうやって自分と重ねてるけど、同性の友達が少ない原因は全く違うでしょ。姉ちゃんは少ない友達が上京しちゃったからぼっちだけど、その人は元から女の子に嫌われてそうじゃん」
「あたしだって、元から友達少ないじゃない。克也はお姉ちゃん子だから擁護するだけでしょう」
あからさまなため息をついた後、
「俺の意見を聞く気がないならはじめから相談するなよ」 貧乏揺すりをしながら言った。
克也に彼女の苦労の何がわかるというのだろうか。相手のことを好きになったことなんてろくにないから、そんな軽々しく「ストーカーじゃん」なんて言い捨てることができるのだろう。
身を焦がすほどの恋愛を経験したことがないから、言えるのだ。
翌日は昼からのシフトで、久々にジョンと同じシフトだった。竜也は昨日で六連勤だったようで、今日明日は休みらしい。
平日水曜日の昼間は女性客で賑わっていた。もちろん調理もてんてこ舞いだ。あたしとジョンは黙々と注文をこなし、昼のピークまで私語は一言もなかった。いつもは口数の多いジョンも忙しい時は無口になる。
デザートのチーズケーキをホールに渡した後、あたしは肩の力を抜いて、しゃがみ込んだ。昼のピークが過ぎたのだ。これからは注文が少なくなり、退屈になる。
ジョンは水道水を飲みながら、キッチンの端でしゃがんでいるあたしに駆け寄って、俯瞰した。
「俺、就活しようと思うんです」
はあ、と相槌を打つと
「こっこちゃんも一緒に就活はじめましょうよ」
嬉々とした表情で誘われて、頭の中はハテナマークで一杯になった。就活って独りでするものじゃなかったっけ。あたしは就活の苦々しい記憶が蘇り、就活時にトリップしたかのような気分になっていて、胃がもたれてしまう。
「あたしは就活しなくていいわ。一人ですればいいじゃん」
「大勢のほうが効率いいじゃないですか。情報交換も可能だし。誠治も一緒に就活するんですよ。彼もフリーターだから危機感あるみたいで」
ジョンは就活経験がないからか、的外れなことを喋っているような気がする。新卒時の就活ならともかく、既卒となると集団だろうが個人だろうが厳しいことには変わりはない。アルバイトを探すんじゃあるまいし。
誠治ならすぐにでも正社員になれるのではないかと思った。人柄もいいし、心理学部といえど、国立大卒だ。雇ってくれる会社なんていくらでもあるだろう。ジョンもそうだ。しかし、ジョンが正社員になってしまった未来なんて悪夢だ。一生アルバイターでいてくれ。
「二人で仲良くすればいいじゃん。愛美でも誘えば?」
「愛美って誰ですか」
「知らないの? 誠治にくっついてる女の子、あたしも最近仲良くなったんだけど」
ジョンは一切わからないようで、首を傾げていた。あたしは立ち上がって、飲みかけの水道水が入ったグラスに水を足して飲んだ。
すぐにフライドポテトとデザートの注文が入り、あたしとジョンは別々の作業を行って、あたしはフライドポテトをフライヤーで揚げていた。それから話すことはあまりなく、あたしはぼんやりとした頭で愛美のことを考えた。やはりあの子に関わっちゃいけないのだろうか、とかあの子は何者なんだろうか、なんてことをひたすら考えた。
結論はもちろん出なかったし、正直なところどうでもよいのかもしれなかった。
愛美のことに興味はあるが、それは友人としてというより好奇心の興味であって、犯罪者がどうして人を殺したのか、その理由と経緯を知りたがる大衆のそれと同じものに思えた。
もしも、愛美がそれを知ったときにどんな顔をするのだろうか。彼女なら笑ってすますのかもしれないし、私がどうして好奇心を抱いたのか興味を持つのかもしれない。いずれにせよ、彼女があたしの感情を知る必要は皆無だろう。
「もしもさ、あたしがジョンのストーカーになったらどうする」
ソーセージを焼いてる最中のジョンは、目を見開いて一瞬停止し
「ちょっと想像できませんね」
困ったような顔でほほえんで、
「どうしてです?」
と聞いた。
「深い意味はないから忘れて」
それからまた少しの沈黙の後にジョンがぽつりと「でも情熱的に愛されてはみたいです」つぶやいた。愛美がジョンのことを愛していたなら、彼女は報われていたのだろうか。そんな疑問が浮上したけど、おそらくジョンも実際に追いかけられたら逃げるのだろうし、彼女の感情を拒否するに違いない。結局は他人事だから言える言葉なのだろう。
あたしが考えてることは誰にも知られることはないのだろう、そう考えると誰かに感情を伝える行為は合理的だ。むしろ、感情を隠すなんておかしなことに思える。恋愛の感情なんて遠くの彼方に消えてしまった。だからあたしは愛美がうらやましくてしかたないのだろう。
いつだかの記憶をたどっていた。
放課後の図書館にいるあたしは、一人で運動部が走り込みをしている様子を見下ろしていた。窓際の蛍光灯は時折点滅していて、その薄暗いセピア色の空間に閉じこめられているような気さえした。けれど、居心地は良かった。誰かの悪口にさらされることはなかったし、誰かに笑われることもない。いつまでもここにいられたらいいのにとすら思った。
しかし、ここにいる理由はただ、図書委員の業務を押しつけられたからというだけだ。それさえ済めば図書室にはいられないのだ。毎週金曜日の特別な時間は、あたしだけの秘密だった。
あのころは今よりうんと自由だった。
学校という空間が苦手だったにも関わらず、あたしは将来に希望を抱けていたし、あたしの母や周囲の大人たちのような、普遍的な将来が約束されていると信じ込んでいた。
もちろん、そんなことはない。社会情勢は変化していく、景気によってあたしたちの生活は左右されるし、もちろんライフスタイルにも影響を及ぼす。それが悪いとは言い切れないけど、けして良いとも言い切れないだろう。
そんなことを中学生のあたしが知っているはずはなく、ただの夢見る少女でいた。その夢見る少女は今なにをしているのだろうか、彼女はどんな目であたしを見つめているのだろうか。憤りに満ちた目で、あたしをじっと見下ろしているに違いない。
一体何をしているのだろうか、あたしは。