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深夜の二時がすぎた頃、黒く汚れて表面が汚れたぱちもんクロックスで、一生懸命サドルを踏んでいた。
地方都市のありふれたベッドタウンに明かりが灯っているのは、コンビニとファミレスくらい。誰もいない店内を流し見して無性に心がささくれたった。
それはさっきまでの出来事を思い出してしまったからだ。
誰一人いない広々とした道路の左端を、颯爽と駆け抜けるあたしを見る人は誰もいない。
それは、十分に悲劇だ。そんな悲劇をこれからあたしはずうっと抱えて生きていかなければならないのかもしれない、と考えただけで心が押し潰れてしまいそうだ。
だから、あたしの頭上の上の雲の上のもっと上の天空にいるかもしれない神様とかいう偉そうな奴にだけでも聞こえるように、喉仏を押し上げて、のどの奥をいつもの倍くらい広げてから、こう叫んだ。
「誰か、私の心に触れてくれ」
それはむなしく誰もいない街に響いた。無人の道路の信号機は無意味に赤に変わり、あたしはブレーキをかけた。
いや、もしかしたらコンビニ店員にくらいは聞こえていたのかもしれない。ただ、あそこの店員は五十過ぎのおっさんだったはず。
しかも前髪が後退して腹が出ていた。イケメンならありかもしれないが、残念ながらあのおっさんはなしだ。
心に触れる、それは非常に抽象的ではないのか。とあたしは自分の言葉を復唱して考える。
だってほら、この手ならまだしもさ、心なんて存在するかどうかもあやふやな部位に触れるだなんて。いや、こんなことをぐだぐだと考えているから、あたしはこうして触れられないままに二十数年の歳をすぎてしまったのではないか。
とにかく、あたしは誰かに触れられたいのだ。厳密には人を選ぶが。あたしだってぼさぼさセミロングヘアのノーメイク女だから、少しくらいは妥協してやる。
信号は青に変わったので、あたしはサドルをぐいっと押しやった。あと十分も走れば自宅に戻ることができる。
さて。どうして、あたしがこんなことを深夜二時に叫ぶ羽目になったのか。それは夜の九時にまでさかのぼる。
あたしはファミレスで調理のアルバイトをしているフリーターだ。
今日、同じシフトになったのは、私と同じようにアルバイトをしている男で、名前は確かジョンという奴だ。ジョンという名前なのだからハーフだと会う前は予想していたが、そいつの顔を何度見ても明らかな日本人顔だ。一重で彫りの浅い顔をしている。色白ではあるが白人のそれとは違う、テレビで出てくるひきこもりのそれに酷似していた。
ジョンの容姿のことは置いておくとしよう。ジョンはとても意識の高い男なのだ。シフトが同じときは、ぺらぺらと偉そうに「若者はボランティアをしないからいけない」とか「地域にコミットしなければいけない」なんて聞かない横文字を使ったり、挙げ句の果てには「最近の若者は努力して成り上がろうという気持ちがないのがいけません。そうやってチャンスを逃す弱気な若者ばかりだから景気が悪化したんです」なんて根拠もなさそうな言葉を並べ立てる。
そりゃあ、ジョンがどっかの企業の社長なら説得力があるけれど、ジョンはそうじゃない、しかもただのフリーターだ。いや、あなたもチャンスを逃した若者でしょ? と突っ込んでしまいたくなる。
それに、あたしは知ってるんだ、彼の読んでいた自己啓発本を。それを本屋でぺらぺらと立ち読みしたら、ジョンがいつも語るようなことと同じことが書いてあるの。思わず吹き出しちゃった。
そんなジョンが私にこんなことを聞いてきたのだ。
「相川さんって彼氏いるんですか」
驚いた。凍ったチャーハンをレンジで温めようとしている手が緩んで、危うくチャーハンを落としてしまうところだった。
「どうしてそんなことを聞くの」
「僕、彼女ができたんです」
驚愕した。驚愕してチャーハンを1500wで二時間も温めてしまうところだった。そんなことをしたら客に出せなくなってしまう。危ない危ない。
「おめでとう」
改めてチャーハンを1500wで二十秒温めて、私は俯きがちになる。ジョンが冗談で言っているのか本気なのかわからないし、どちらにせよ私には関係のないことだ。
あと、ジョンの「もっと反応がほしい」オーラに耐えきれなかった。
「前先輩に聞いたんですけど、相川さんって彼氏いない歴イコール年齢なんですよね。寂しくないですか? いいですよ、恋人って。愛に飢えてません? よかったら合コンしましょうよ」
ジョンに見下されていることがわかった。
ただ、このときに何も言い返せなかったのだ。だってこの時点で八時間労働だったもの。
さっきからおなかはぐうぐう鳴っているし、最低限の仕事をするだけで精一杯だった。ジョンに「話してないで仕事をしろ」と説教する元気すら残っていない。
ジョンは客がいないからって、仕事をあたしにすべて押しつけて、キッチンテーブルにもたれ掛かっていた。
ただ、そんな忌まわしいジョンの紹介でも、合コンのことは気になった。こんなでも案外イケメンや金持ちがいるのかもしれない。
「僕の大学時代の友達で彼女をほしがってる奴がいるんです」
ほうほう。
「ただ、オタクな仲間が多いですよ。僕も第二の彼女がいるクチなので」
鼻息を荒げながらしゅーしゅー笑うジョンのどこに惚れたのだろう、あたしならこの笑い顔をみた時点で恋が醒めてしまうわ。
「お前ら何話してんだ」
茶髪の髪を後ろに結んでいる男が休憩室から調理室に入ってきて、げっ、と心の中で眉をひそめた。ふんわりと日本酒の臭いを漂わせるそいつは、私と一度だけキスをしたことがある男だ。名前すら思い出したくない。
「竜也さんも愛がほしくないですか」
何を聞いてるんだ。と怒鳴りたくなった。
「俺はたくさん愛を持ってるよ」
「どうせセックスのことでしょ」
それが愛じゃねえのか、と男はジョンに聞いた。もうこの空間にいたくない、寒気がするわ。風邪だってうそをついてで早退してしまいたい。
「セックスは愛じゃないですよ。愛ってもっとプラトニックなものですよ。心が大事なんです心」
「相川は愛を持ってるか?」
どうして私に振るのだ。
「持っていませんよ。そんなのどーでもいいです。愛より金がほしいです金」
「相川は愛されたことも愛したこともないもんな」
そいつはにやにやと気味の悪い笑みを浮かべていた。あたしの胃はぐるぐると逆流しようとしてきていたし、頭の血も逆流して血管が破裂してしまいそうだった。どうしてなのだろうか、こいつにだけは言われたくなかったのだ。
「さっさと仕事に戻ってください」
二人は聞こえないふりをしている。あたしは繰り返した。
「さっさと仕事しろよ」
少し力強く言ったつもりが怒鳴り声になっていたのに気がついたのは、言葉を発した十秒後くらいだった。
しん、と調理室は静まりかえっていた。
これまであたしの心は誰にも触れられなかったし、誰かの心にも触れたことがない。
それが何だというのだ。だから人としておかしいのだろうか、だから精神がいかれているのだろうか、魅力がないのだろうか。その理屈のほうがおかしいじゃないか。
ホールの高校バイトが調理室をのぞき込んでこそこそ噂話をしている。やっちまった、と思った。失態を晒してしまった。
「明日、予定ありますか」
それでもジョンは私に同情しているような顔をして聞いてきた。ばかばかしい、合コンなんてあたしが行ったって何も変わらない。笑われるだけだ。
「ないよ」
なのに、予定はないなんて言ってしまった。期待してるのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。あたしは、もうあたしに期待をしないと固く誓ったはずなのだから。
できあがったチャーハン二つをホールの子に渡して、生ぬるい水道水を一杯だけ飲んだ。
心に触れられたい理由なんて「愛に触れたことのある事実」が欲しいだけだ。そもそも私は愛なんてものを信じていない。どーでもいいのだ。あんなの宗教と同じだ。人生は愛で支配されていると信じてる者はばかだ。それでも、幸福になれるのだから、愛を持っている上澄み二割くらいの人格エリート共は金がなくても幸福になることができるし、下位二割くらいのあたしたちはいつまでたっても幸福になんかなれない。
なんてあるわけないよ。愛だけが幸福に結びつくわけないし、そんな世界なら二割の人間は悲観して首吊って死んでいるわ。
「愛があれば平和になる」
なんてほざいてる奴は、あたしらを不幸に追いつめていると自覚していないのだろう。
逆に言えば「愛がなければ平和にはならない」のだから、自称平和主義者にとってあたしのような愛を受け取れない人間は排除したい対象なのだろう。それのどこが、平和的なのだろうか。わけがわからない。
深夜の三時に発泡酒を飲んで酔っているから、こんなことばかり考えるのだろう。
愛を信じてないなんて嘘だ。だってあたしは愛がほしいからだ。心に触れられたい。
竜也みたいな男には触れられたくないけど、まだ見ぬ私の運命の王子様なら、私を優しく扱ってくれるに違いないわ。汚い言葉を使わないし、無理やりキスだってしない。エスコートして優しくキスをしてくれるのだわ。頭を撫でて「可愛いね」と微笑んでくれるの。
ベッドに寝ころんでブログを読みながら、あたしは妄想している。妄想の時間は一番好きだ。自由で、誰にも邪魔されないから。妄想の中ならあたしも美少女だ。前髪が後退した中年男性やヤリチンのヤンキー男、あとキモオタも存在しない。
ブログで少年犯罪の記事を見ていたら、早朝の五時になっていた。酔いは覚めて、不思議と眠気も覚めていた。
ああ、またやってしまった、と思った。堕落した生活はいつまでも続けられないのだ。
いや続けてはならないのだ。こんなんだから生理も止まってしまうのだろうし、濃い髭も生えてしまう。女失格である。
彼氏いない歴イコール年齢の二十代女なんて、誰がどうみたって非モテなのに、キスをしたことがあるという事実がささやかな自信を与えてる。人からは「相川さんってホントはモテるんじゃない?」なんて言われてしまうことだろう(実際には言われた経験はない)。
しかし、あんなの間違いでしかない。あんなのがあたしたち非モテが喉から手がでるほど欲しくてたまらない、ファーストキスなんかじゃない。
もう一度繰り返す、あれは間違いだったのだ。
あんな体験はもうこりごりだ。何しろあの竜也である。もうあいつの顔すら見たくないのだ。だってあいつは……。
そう考えているうちにあたしは、があがあと眠ってしまっていたらしい。今日はいつもより酷いいびきだったと言いながら、弟は舌打ちを二度も打った。