プロローグ
天然芝の上を滑るようにボールは過ぎていった。ボールの勢いをワンタッチで吸収し、赤いヘッドバンドを着けた選手のもとへと素早く、完璧なパスを出した。相手ディフェンスはこれ以上前には行かせないと、詰めよってきたが、これをお手本通りの右抜きでかわし、弾丸のようなボールを前へ放った。敵の整えられたディフェンスラインの唯一の小さな隙を見事についたすばらしいものだったが、敵も必死に食らいつく。弾かれたボールは敵陣中央のスペースに転がり、そこに敵味方関係なく殺到する。先にボールに触れた選手が相手のおざなりになった足下に軽くボールを当てて反則をとると、すぐに赤いヘッドバンドを着けた選手に戻し攻撃を再開する。このとき、敵のディフェンスラインは素早いリスタートに綻びが生じている。ここがチャンスとばかりに、スペースに思い切りボールを放る。しかし、あまりにもパスが強すぎたため、誰もがゴールラインを割ることを確信した。ただ、彗星の如く現れたフォワードはボールに少し触れただけでゴールからゴンッと鈍い音を響かせた。敵キーパーはまったく反応できぬまま、ゴールが決まった今も唖然として突っ立っている。素人が見ても、実に鮮やかなゴールであった。
がらんとしたスタンドに母の隣で座っていた少年は思う。
「僕も、あんなプレーがしたい……」
「いいわよ」
「えっ?」
彼は驚いた。心の声が漏れていたことに対してもそうだが、それよりもそんなことあるはずがないからだ。今までは彼がサッカーをやりたくても、大人になってから役に立たないから、とやらせてはくれなかった。何度頼んでも駄目だった。その代わりに、やりたくもない英語やピアノやそろばんをやらされた。だから、母が認めてくれるなんて到底信じられなかった。
「ほんとに?ほんとにいいの?」
「いいわよ。でも、中途半端にしちゃダメだからね。やるんだったら、1番をとらなきゃダメよ。いい、わかった?」
「もちろんだよ!お母さんありがとう!」
そうして、彼は足を踏み入れた。杖球――ホッケーの世界へと。
5年後――。
目の前にいる敵を止められるのは、自分しかいなかった。みんなが祈りを込めて、自分を見ている。
「頼む、止めてくれ……」
止めなければいけない。俺が止めなきゃ、チームは負ける。びびるな。大丈夫だ。止めるんだ。止めるんだ。止めるんだ。
足が、動かない。
敵のエースは怪訝そうな顔をした。ドリブルを得意としているらしいが、今日は俺とのマッチアップに完敗していた。不安なのはこいつの方だろう。決めたら勝ちが決まるシーンで、目の前には今日1度も抜いていない相手。でも、俺にはわかっていた。こいつがもうドリブルしてこないことは。予想通り、相手はヒットモーションに入っていた。
今なら、まだ間に合う。だから、頼む、俺の足、頼むから、動いてくれ……
原因はわかっている。メンタルの弱さは今に始まったことじゃない。怖いのだ。傷つくのが。精神も肉体も。1度壊れたものがまた壊れてしまうと思うと、全身が粟立って硬直してしまう。とっくに立ち直れていると思っていた。違う。逃げているだけだったんだ。逃げた結果、チームは負けようとしている。また、俺のせいで――。
ボールは、ゴールの中にある。俺は、ただ、ただ突っ立っている。
すぐにリスタートしようとフォワードにボールが送られる。敵はベンチの前で全員が抱き合っている。そして、汚いブザー音が短く響く。
膝から崩れ落ちる少年たちと、天に拳を突き上げる少年たち。対称的な情景が、目に焼き付いて、離れることはなかった。悔しいし、悲しいのに、涙は出なかった。それ以上に惨めで、情けなかった。
試合は負けた。誰も俺を責めなかった。でも、俺はもうスティックを握ることができなかった。