第十九愛
一週間後の朝、パパはわたしに現金で八万円を手渡した。
「今日、中絶手術するんだよな」
「うん。パパ、ごめんなさい」
わたしは俯きながらパパに謝った。落ち込んでいるわたしを勇気づける為なのか、パパは笑顔でわたしに話し出す。
「いやあ、しかしこの前まで子供だったお前のお腹の中に赤ちゃんがいるとはな。人生不思議なもんだな」
そう、わたしの中に命が宿っている。産んであげる事のできない命。男の子なのか女の子なのかさえ分からないまま数時間後には無くなってしまう命。
「そうだね。おじいちゃんになり損ねたね」
わたしは意地悪そうにそう答えた。
「おじいちゃんか。こんなイケメンパパにおじいちゃんはまだ早いだろ」
「あっ、自分で言っちゃった?」
わたしはパパと目を合わせて笑った。確かにおじいちゃんと呼ばれるにはまだ若い。
「じゃあ、仕事行ってくる。鳥越さんに会ったら宜しく言っといて」
パパはわたしに背を向け玄関へ向かっていった。
「行ってらっしゃい」
午前十一時、わたしは婦人科の診察室に入った。看護師さんに促され、診察台に横たわった。大きく足を広げ、あられもない姿をしている。
わたしはお腹に手をあてがい最後の謝罪をした。
『ほんとにごめんなさい。将来、またわたしのお腹に宿って下さい。ママの事、許してね』
「先生、準備できました」
看護師さんの冷たく機械的な声が鼓膜を振動させた。
「じゃあ、始めますよ。身体の力抜いて下さいね」
先生の言葉に続き、冷たい器具がわたしの中に入ってきた。
「…………」
わたしは言葉に出す事ができなかった。わたしの中で動いている心臓がもうすぐ止まる。そう思うと居ても立ってもいられなくなった。
「あの……先生……」
「どうしましたか?」
「わたし……やっぱり……産みたいです。この命、産みたいんです。産んでこの手で抱き締めてあげたいんです」
白髪頭の先生は顔中の皺を曲げ、医療用の手袋を外しながら笑顔でうんうんと何度も頷いた。
「あなたが宿した命です。あなたの意思にお任せしますよ。きっと可愛いでしょうね。産むと決めたのならいっぱい愛してあげて下さいね」
わたしは涙を流しながら診察台から足を降ろした。
「はい。いっぱい、いっぱい、抱き締めてあげます」
◇
わたしはお腹の赤ちゃんと共に高校に通った。十月、臨月に入った為、学校を休み出産に備えたのだ。パパは一切の残業を断り夜の七時には家に帰ってきてくれた。
そして十月十六日未明、わたしは一つの命をこの世に誕生させた。
その日の夕方、大学生になった愛も、八月のインターハイで金メダルを獲得した麗奈も病院に駆け付けてくれた。
「可愛いー! 凛、赤ちゃんだっこしていい?」
愛はわたしの返事を待つ事なく裕斗をベビーベッドから持ち上げた。
「うん。だっこしてあげて」
「凛、よく頑張ったね。わたし凛の事……。あー! 赤ちゃん笑ったー! もう可愛い過ぎるんですけどお。あ、ごめんね。凛の事、尊敬する。凛は凄いよ。裕斗君、おばちゃんとチューしよう」
愛は甥っ子にでも接しているかのようにわたしの赤ちゃんにキスをした。
「愛先輩、ずるい。わたしにもだっこさせて下さいよお」
その時突然、わたしは意識が遠のいた。
「ねえ、凛。裕斗君のパパにも似てる? どっち似だと思う?」
「…………」
愛の声は聞こえているけれど、苦しくて返事をする事ができなかった。
「凛? 凛!」
「凛先輩!」
愛が慌ててナースコールのボタンを押したようだ。
気を失ってからどれくらいの時間が経ったのだろう。意識が戻った時には三人がわたしの顔を上から覗き込んでいた。愛、麗奈、そして無精髭をはやしたパパ。窓の外は闇に包まれていた。
「凛! 気がついたのか!」
「凛! 良かった!」
「凛先輩! もうびっくりしたじゃないですかあ!」
三人の安堵した笑顔がわたしを見つめている。しかし、わたしの身体はわたしが一番よく分かっている。身体の異常にわたしは身震いがした。




