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第十七愛

 地下の冷たい空気の中、わたしは静かに横たわる彼の元へゆっくりと歩きだした。もちろん自分の力だけで歩ける訳もない。脇で鳥越さんがしっかりとわたしを支えてくれている。


 弱々しい足取りでベッドのそばまで来たわたしは鳥越さんと目を合わせた。すると鳥越さんは目に光る物を溜めながら「うん」と声にならない声を発しながら力強く頷いた。


 わたしは彼の顔に被せられた白い布に手をかける。震える手でゆっくりと布を外すと、悔いのない人生を送ったかのような安らかな表情をしている彼がいた。


 その反面、「おはよう」そう言いながらすぐにでも起きてきそうな表情にも見えた。


 わたしは胸の上で組まれた彼の手を握りしめた。人とは思えないほど冷たくなった彼の手は死を実感させるには充分だった。


「なんで……」


 そう呟いた後、わたしは(せき)を切ったように大声で泣き続けた。そんなわたしを鳥越さんは幼子をあやすように抱き締めた。


 次から次へと溢れ出る涙。(こら)えようと思えば思う程溢れてくる。


 わたしは彼の冷たい唇に最後のキスをした。


 霊安室を出ても尚、身体に力の入らないわたしは支えられながら彼のいた病室へ戻っていった。


 持ち主を失った荷物を整理し、鳥越さんへ預けた。調度その時入院患者の昼食の片付けが行われていた。


 わたしはお味噌汁の匂いになぜか不快を感じた。吐き気を覚えたわたしは咄嗟にトイレへ駆け込んだのだ。


 慌ててわたしを追い掛けてきた鳥越さんはわたしの背中を何度もさすってくれた。


「あなた、まさか……」


 洗面所の鏡越しに鳥越さんがわたしに問いかけた。


 吐き気を覚えても尚、鈍感なわたしは体調の悪さに加え病み上がりがその原因だと思っていた。


「まさかって?」


「赤ちゃんよ。心当たりはないの?」

 

 それは全く頭の中にはなかった言葉であった。確かに最後の生理から一ヶ月半ほど経過していたけれど、入院中も二ヶ月遅れるなんて事はよくあったのだ。


 彼と一度だけ身体を交えたのも確かである。


 彼を失った悲しみと妊娠に対する不安が入り交じる。そんなどうしようもない状況の中、わたしは鏡の向こうにいる鳥越さんへ向かい言葉を絞り出した。


「一度だけ……翔君と……」


 鳥越さんは目を真ん丸にした。


「わたしが付いていってあげるから、今から婦人科に行って調べてもらいましょう。いいわね?」


 わたしは力なく頷いた。


 わたしは鳥越さんに連れられ婦人科へ行った。検索結果を待つ間、待合室の長椅子に座りながら目を閉じていた。


 わたしの背中を温かい手が上下する中、彼との出合い、彼の笑顔、そして彼の温もりを思い返していた。


 もしも妊娠していたとしても、彼がそばにいてくれるのなら産んでいたかも知れない。しかしその彼はもういない。十九歳になるとは言えまだ高校生である。産むという選択肢は存在しないのだ。


 どれくらいの時間が過ぎただろう。診察室の扉が開き若い看護師さんがわたしたちの方へ歩いてきた。


「鳥越師長、これ……」


 そう言って鳥越さんに一枚の紙を手渡した。そして老眼鏡を白衣のポケットから取りだし、レンズ越しにその紙を見る。


「白石さん、ありがとう。戻っていいわよ」


「はい。失礼します」


 若い看護師さんが診察室の方へ戻ると老眼鏡を外しながらわたしの瞳を刺すように見た鳥越さんは、


「赤ちゃん……いるわね」


 そう呟いて俯いた。


 覚悟はしていたけれど、思った以上にショックは大きかった。


 わたしのお腹の中に一つの命があるのだ。


「そう……ですか……」


「どうするの? わたしは中絶に対しては反対意見を持っている口の人間だけど、あなたはまだ高校生でしかも白血病が治ったばかりだから反対はしないわ。でもね、お父さんにちゃんと話すのよ。お父さんに内緒で中絶する事だけは許さないからね。さっ、行きましょ」


「はい。今日の夜、ちゃんとパパに話します」


 鳥越さんに頭を下げた後、わたしは家路に着いた。再びお散歩バスに乗り込みスマホを取り出した。


 ――今から行くね。


 わたしが朝送ったLINEは既読になっていない。一生読まれる事のない文字を眺めていると再び涙が溢れてきた。


 降りる為のボタンを押した人はいないけれど、バスは次のバス停で停車した。乗り込んできたのは首も座らないほど小さな子供を抱えた母親であった。


 畳まれたベビーカーを片手で持ちながら母親はわたしの左隣に座った。わたしは赤ん坊を見る事ができず、少し横を向いた。


 すると何かがわたしの左腕に触れる感覚がした。見ると赤ん坊が小さな手を伸ばしわたしの腕を触っていたのだ。


「あー」


 何かをわたしに伝えようとしているのだろうか。言葉にならない声を発し、わたしに向かい笑顔を投げ掛けた。


「あっ、すみません」


 隣の母親が頭を下げる。


「あっ、いいえ」


 わたしもすかさず頭を下げた。


 一年も経てばわたしの赤ちゃんもこんなに可愛くなるのだろうか。『産んであげられなくてごめんなさい』わたしはお腹に両手をあてがい小さな命に謝った。

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