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第十六愛

 パパを見送ったわたしは病院へ向かう為、最寄りのバス停へ来た。お散歩バスと呼ばれる地域のコミュニティバスである。中学校のグランドに隣接したバス停に着くと、野球部が金属音を響かせていた。


 彼の待つ順彩堂大学浦安病院まではバスで十分ほどである。お弁当を二つ入れたトートバッグをかかえながら、小さなバスに揺られ病院の前で降りた。


 勝手の知った大きな建物の中。右へ左へ小走りしながらエレベーターホールへと辿り着く。わたしは三角のボタンを連打した。何度押してもエレベーターの到着時間など変わる訳もないけれど、心の高揚がわたしをそうさせていた。


 エレベーターを降りると彼の部屋へ真っ直ぐ進む。


「あっ、凛ちゃん! ちょっと待っ……」


 鳥越さんに声を掛けられるが、


「こんにちは!」


 それだけ言って再び先を急いだ。


 途中廊下の角を曲がる時、患者を運ぶストレッチャーと出会い頭(であいがしら)にぶつかってしまった。


「あっ! すみません」


 わたしは頭を下げ、再び先を急いだ。


 彼の部屋の前に着くと、ドアの脇のネームプレートは外されていた。退院する為、外されるのは当然である。


 高鳴る鼓動を押さえるようにわたしは大きく冷たい空気を吸った。この扉の向こうので彼が待っているのだ。


 わたしは左手首にはめた腕時計に目をやった。約束の十一時きっかりである。


 鼓動の速さは秒針の速さを追い抜いていた。


 ――コンコン。


 わたしは彼の返事を待つ事なくドアをスライドさせた。


 しかし、わたしの視界に彼の姿はなかった。


 ベッドの上の布団は綺麗にたたまれ、ストライプ模様のマットレスがむき出しになっている。


「あれ? 時間間違っちゃったかな。もう退院して……」


 既に退院したのかと思った瞬間、テレビ台の上に置いてある彼のスマホに気づいた。


「良かった。まだいるんだ」


 すると鳥越さんが慌てて病室へ入って来た。


「あっ、鳥越さん。さっきはすみませんでした。ちょっと急いでたもので。ところで翔君、どこにいるんですか?」


 鳥越さんは(うつむ)いたまま、何度も首を横に振った。そして子供を亡くした母親のように大粒の涙を床に落とした。


「鳥越さん……嘘……でしょ……。だって、二週間前お見舞に来た時はピンピンしてたじゃないですか。昨日だってラインきてたし……」


「…………」


 何度も何度も「今わの際」に立ち会ってきたベテラン看護師でさえ、声を出す事すらできない。そんな光景にわたしは()(すべ)もなく、トートバッグを抱えたまま床に崩れ落ちていった。


「なんで……なんで……。今日退院するって……今日退院するって言ってたのに……」


「凛ちゃん、聞いて」


 鳥越さんは溢れる涙を拭き、崩れ落ちたわたしと視線を同じ高さにした。そして凛とした表情で語りかけた。


「彼はね、退院が決まった後の検査で膵臓(すいぞう)癌が見つかったの。膵臓癌は早期発見の難しい癌で、見つかった時には既に遅かったの。白血病で身体が弱っていた事に加え、膵臓に癌まで……。余命を宣告する前についさっき……」


 まさか……さっきぶつかったストレッチャー……。


「鳥越さん、彼は今どこに」


「ついさっき霊安室に運んで……」


 鳥越さんが話し終わるのを待たず、わたしは駆け出した。


「そんなはず……そんなはずないじゃない! だって、昨日連絡がきたのよ! そんな人が今日死んでしまうなんて。何かの間違いに決まってる!」


「凛ちゃん! 待って! 彼から預かってる物があるの」


 そう言ってポケットから取り出したのは一枚の手紙であった。わたしはその手紙を開いた。


    ▽


 愛する凛へ


 ごめんね。嘘ついて。退院なんてできないんだよね。

 去年の年末はほんとに退院できると思ったんだけどね。


 たぶん俺、長くないんだと思うんだ。まあ、これを凛が読んでるって事は俺はもうこの世にいないって事なんだよね。


 俺、初めて凛に会った時、実は一目惚れしてました。なんて透き通った目をしてるんだろう。こんなに可愛い女性が彼女ならどんなに幸せだろう。そう思いました。


 だからあの時頑張って声をかけました。超緊張してたんだからな(笑)


 短い間だったけど、凛の愛を貰えて俺は幸せでした。ありがとう。


 凛の人生はまだ始まったばかりだそ。テニスも頑張って。そしていっぱい恋もして下さい。


 あっ、鳥越のおばちゃんが検温にきたからこの辺で(^^)v


 ほんとにありがとう。愛してます。  翔


    △


 手紙を読みながら涙を流し続けるわたしを鳥越さんは抱き締めた。


 わたしの声なき号泣が場の悲しみを一層深い物へと変えていく。


 わたしは鳥越さんに手を引かれ、弱々しい足取りで霊安室に向かった。


 勝手の知った建物ではあるけれど、地下に来た事はない。涙の止まらないわたしの肩を強く抱き締めながら鳥越さんは力強くわたしに話しかけた。


「いい? 扉を開けるわよ。気をしっかり持ってね」


 徐々に扉が開いていく。わたしは恐怖の余り震えた右手を左手で押さえた。しかしその左手さえも震えていた。


 白い布で覆われた彼の横顔がわたしの瞳に写し出された。


 刹那、わたしの全身から全ての力が抜け落ちた。


 

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