第十五愛
わたしが退院してから一ヶ月が経過した。寒さのピークを越えたとは言え、やはり朝夕はかなり冷え込む毎日が続いている。わたしはパジャマの上に厚手のカーディガンを羽織り灯油のストーブを点けた。
コーヒーメーカーに豆を入れスイッチを押す。そしてリビングのカーテンを開け空を見上げた。いつもの朝が始まったのだ。
今日もわたしは生きている。そんな当たり前な事に感謝しながらキッチンに戻っていった。わたしは鼻唄を歌いながら玉子焼き、タコさんウインナーなど、お弁当のおかずを作り始めた。
お弁当を作り終えたわたしは淹れたてのコーヒーに温めた牛乳を入れ、カフェオレを啜りながら洗い物を始めた。
「凛、おはよう。今日は日曜だぞ。もう起きてたのか。ん? なんか嬉しそうだな」
今日ようやく翔君も退院の日を迎えたのた。どうやら心の高揚が顔に出ていたようだ。
二階の寝室から降りてきたパパは食パンの袋を開けながら、カウンターキッチンの中にいたわたしの顔を覗き込んだ。
「パパ、おはよう。えへっ。分かる? わたしにとっては毎日が日曜みたいなもんだけどね。あっ、パン貸して。パパの大好きなフレンチトースト作ってあげる。お弁当テーブルに置いてあるからね。確か今日は浦安市に依頼されたテニス教室よね?」
「お、おう。なんだか気持ち悪いな。熱でもあるのか?」
パパは真剣な顔をしてキッチンの中に入ってきた。
「もう、邪魔邪魔。コーヒーでも飲みながら新聞読んでて」
「あ……はい」
パパはマグカップにコーヒーを注ぎ首を傾げながらソファに座った。
「なあ、凛。なんでお弁当三つもあるんだ?」
わたしはカウンターキッチンの窓からパパを覗き込み、笑顔で話し出す。
「今日ね、翔君が退院するの」
「おお、そうか。良かったじゃないか。お付き合いするのはいいけどお前はまだ高校生なんだ。健全なお付き合いをするんだぞ」
パパはそう言うと新聞に目を戻した。どうやらお弁当が三つある訳を質問した事など忘れているらしい。
「はいはい。彼も片親でお母さんしかいないって前に話したでしょ? お母さん今日どうしても仕事抜けられなくて来れないんだって。だからわたしが行って荷物を家まで持ってあげようと思って。それで一緒にお弁当食べるんだ」
「そうか。翔君も病み上がりだけどお前もまだまだ病み上がりなんだから無理はするんじゃないぞ……。え? 翔君のお家に行くのか?」
パパの心配そうな顔は「荷物を持つ事」に対してではなく、「彼の家で二人きりになる事」に対してである事は明らかであった。
わたしはそんなパパの事を可愛いとも思い、いとおしいとも思った。
出来上がったフレンチトーストをお皿に盛りテーブルへ運ぶ。
「そうだよ。心配?」
わたしはいたずらっ子のような表情でパパの顔を覗き込む。
「心配っていうか……あれだ。さっきも言ったけどお前はまだ高校生なんだ。けんぜ……」
「健全なお付き合いをしなさい。でしょ? そう言えばパパがママと付き合い始めたのって高校一年の時だって言ってたわよねー」
「え、あ、それはだなあ。あれだ」
「あれって何よ」
パパが可愛そうになり、それ以上いじめるのはやめる事にした。
「ほら、パパ。パン冷めちゃうよ。食べよ」
「お、おう。凛。その……あの……彼のお家はどこなんだ?」
パパはフォークでトーストを刺し口元へと運んだ。
「門前仲町だよ。とうして?」
「その……あれだ。テニス教室二時半に終わるから迎えに行ってやろうか? 門前仲町なら近いし。浦安からなら三十分もかからんだろう」
どうしてもわたしと彼の事が心配らしい。わたしは可笑しくなり、再びいたずらっ子に戻った。
「わあ、嬉しい。じゃあ三時まで彼と一緒にいられるのね。お昼にお弁当食べたらすぐ帰ろうと思ってたんだよね」
パパは口に運びかけたマグカップを止めた。
「え? そうだったのか? あれ? そう言えばテニス教室、二時半じゃなくて、四時半までだったかな。ごめんな、凛。やっぱり電車で帰って来てくれるか」
パパはたいそうご機嫌になった。そしてわたしが作ったフレンチトーストをあっという間にぺろりと平らげた。
「おー、旨かった。あっ、もうこんな時間か。じゃあ、パパ行ってくるから。彼に宜しくな」
ジャージに着替えパパは家を出ていった。
「あっ! もう、パパったら」
わたしは走ってパパを追いかけた。
「パパー! お弁当忘れてるよ」
既にパパの自転車は家を出て角を曲がりかけていた。わたしの声に気づいたパパは苦笑いしながらユーターンした。
「ごめん、ごめん。じゃあ行ってくる」
じゃあ行ってくる。そう言ったパパにわたしは何か物足りなさを感じた。
「あれ? パパ、ラケットは?」
「わっ! 忘れてた」
「もう! 何しに行くのよ」
パパをいじめ過ぎたせいなんだろう。わたしは少し反省をした。




