5話
黒猫は呆然と、王と話している主人を見ておりました。王は親しげに主人に声をかけ、そうしていつか必ず城に来るようにと言い残して馬車に乗り込みます。ハツカネズミのままのオーク伯爵はきちんと用意されていた小動物用の檻に入れられ、姫君に抱えられておりました。
その場に残ったのは黒猫と主人、そうしてチェリーブロンドの髪のちいさな女の子と赤い髪に褐色の肌の大男でした。
「リンデークと一緒に行かないのかい? おまえはあのたぬき王にずいぶん気にいられていたというのに」
女の子の言葉に、オレンジ色の髪の主人はへらへらと笑います。
「まあ落ち着いたら会いに行くよ。それよりミランダちゃんもありがとうなー、おかげで助かったよ」
「ミ、ミランダちゃんだと?」
ぎょっとしたように瞳を見開く赤毛の大男とはうらはらに、ミランダと呼ばれた女の子はぼんやりとした顔で立っております。黒猫はその背の低い女の子をまじまじとみつめました。ミランダ。それは西の魔女の名前だったのではないのでしょうか。
「ぼっちゃま、いったい……」
呆然としながらもようやく声を出すと、褐色の肌の大男がふんと鼻を鳴らしました。
「おまえの単純な計画はリンデーク王にばればれだったってことだ。しかも利用されたんだ、おまえも、おまえの主人も」
「利用?」
「いくら問題があるからと言って伯爵の身を王自らがどうにかするのは角が立つ。だから単なる旅人にすぎないお前らが利用されたんだよ」
黒猫の頭にもようやくそのことが染み入ってきました。そんな黒猫の姿を見て、女の子がゆっくりと口を開きます。
「リンデークはたいした子だが、なかなかにたぬきだからね。自分の国を守るためならどんな手でも使うよ。たとえ、あんたの手が血に汚れることになったって、それならそれでよかったのだろうよ。だけれど」
女の子はちらとオレンジ色の髪の少年に目をうつしました。
「おまえの主人はそれをよしとしなかった」
「まあいいじゃん、終わったことは」
黒猫の主人は慌てたようにそういって、隣に立っていた黒猫の背を押しました。
「じゃあ俺たちはこれで行くな。リンデークの港から黒猫を船に載せなきゃならねえんだ。明日の船に間にあわねえと、次の出航は七日後だ」
「お待ちください、ぼっちゃま」
黒猫はあわてて先を進もうとする主人の手を掴みました。
混乱していた頭がようやく落ち着いてきたのです。そうしてその頭に冷たく流れ込んできたのがひとつのことでした。
浅はかな思惑の末に黒猫はオーク伯爵を殺そうとしておりました。しかしそれを許さなかったのが黒猫の主人でした。オーク伯爵の変化をとめておくために使用したのが銀色に輝くわっかだと魔女の鴉はいいました。おそらくは魔法の道具なのでしょう。では、その魔法具を主人はどうやって手に入れたのでしょうか。
あのとき、オーク伯爵にわっかをはめこんだときの鴉の言葉が脳裏によみがえります。
――もうこいつは魔法は使えねえよ。そいつが西の魔女と契約をして手に入れた魔封具をはめたからな。とはいえそいつの力じゃあせいぜいひと月程度だろうが。
「ぼっちゃま、西の魔女の契約とはなんなんですか。なにかを引き替えにしたというのではないですか。なにか、なにか大切なものを失ったのでは」
「べつにお前が気にすることじゃねえよ」
見上げる黒猫から主人が唇をとがらせて顔をそらします。黒猫は知っていました。これは、主人が嘘をつくときの癖でした。
「ぼっちゃま、こちらを向いてください」
黒猫は主人の顔を両手で挟み込むとその姿を至近距離でみつめました。五体が欠けたようにはみえません。きれいな太陽なような髪もそのままです。目に見えるところは変わったようにはみえませんでした。
しかし、黒猫は気づいてしまいました。
いつもいつも、それこそ毎日この少年を見みつめていたのだからそれは当然のことであったのかもしれません。黒猫の生きる支えとなっていた少年の緑色の瞳、その片方がガラス玉のように生きている気配がしませんでした。
ざあっと黒猫の血の気がひきます。
「ぼっちゃま、まさか、左目がみえていないのでは……」
その言葉に黒猫の主人はびっくりしたようでした。まさかこんなに早く見破られるとは思っていなかったのでしょう。
「そうだよ」
主人が口を開く前に答えたのは西の魔女でした。チェリーブロンドのような髪を風にゆらせながら、魔女は淡々と続けました。
「わたしは西の魔女ミランダ。契約の魔女だ。何かをひきかえにして何かを成す契約の魔女さ。そこの子は左目の機能と交換にあの魔封具を手に入れたんだ」
「そんな、どうして」
「そりゃあ、お前に誰かを殺させたくなかったからだろうよ」
魔女の側に腕を組んでいた赤毛の大男がふんと鼻を鳴らして言いました。
「ずいぶん甘い」
黒猫は本当だと思いました。このオレンジ色の髪の少年はずいぶんと甘い人間なのでした。だれにでも公平でやさしい、甘い甘い人間なのでした。家畜同然であった奴隷である黒猫にすら、情けをかけるほどの。
「左目くらい安いもんだろう。お前が気にすることじゃないぞ」
甘い主人はあたりまえのようにそう言いました。黒猫は喉に何かが詰まったかのようになにも言えませんでした。
安いわけがありません。狩りをする黒猫にはよくわかります。片目を失うと生活も、歩くことさえも、両目があるときよりもうんと不便になるのです。
黒猫は主人の顔から手を離します。そうして西の魔女の前に駆けよると、その前に膝をつきました。
「西の魔女、お願いです。どうか私の命を引き替えに、ぼっちゃまの左目を治してください」
「黒猫」
驚いたような声をあげる主人のことばを、黒猫は聞きませんでした。お願いします、と頭を下げ続けます。
すると西の魔女がぼそりと唇を開きました。
「お前の命ではそんなことはできないよ。それに、お前の中で一番価値があるものはそれじゃあない」
「いえ、私は何も持っていないのです。自分の命以外、何も。ですから……」
「いまのお前の中で一番強いもの、魔法の契約の材料となりえるものはただひとつ。お前の主人への強い強い恋慕だけだ」
「……!」
淡々と、あまりに淡々と告げられた言葉に黒猫は頭を下げたまま息を飲んで固まってしまいました。
「恋慕?」
ぽかんとしたふうの声がその場に響きます。黒猫の主人が頭を下げたままの黒猫の側に歩いてくるのが視界の端に見えました。
「黒猫、本当か?」
古びたブーツを履いた主人の足が視界に入ってきます。黒猫にわけてくれた、ブーツのかたわれ。
握りしめた手がぶるぶると震えました。ほんとうは、とうの昔に自分の気持ちには気が付いておりました。けれども必死に気付かないふりをしていたのです。なぜならそれは、奴隷である自分が主人に対して抱くには分不相応なものだったからでした。優しくしてくれた少年に対する、不義であるとも感じておりました。
「黒猫」
「申し訳ありません、ぼっちゃま……」
黒猫は震える声で謝罪し、さらにふかく頭を下げました。それが魔女との交渉の材料になるのなら、今更嘘はつけません。けれども主人の困惑した、あるいは嫌悪に満ちたであろう表情を見るのは耐えられませんでした。
「西の魔女ミランダ、その感情が取引の材料になるならばそれでお願いいたします。どうか、これでぼっちゃまの左目を……」
「黒猫はばかだなあ」
西の魔女に懇願を続ける黒猫の声を遮ったのはやたら明るい声でした。そうしてぐいと顔を挟み込まれて上を向かされます。
「それならなんも問題ないじゃん」
次いで視界に入ってきたのは明るい主人の笑顔でした。太陽を背に、嬉しそうに黒猫をみつめております。
「じゃあ一緒にいればいいじゃん。俺だっておまえと離れるのは寂しかったんだから。でもお前が家に帰りたいってずっと言ってたから、我慢していただけなんだぞ」
黒猫は呆然と明るい主人の顔をみつめ返します。
「ぼ、ぼっちゃま、そこは問題ではありません。私は、私のせいで失った左目を……」
「おまえは本当に面倒くさいなあ。じゃあこれからずっと、おれの左目の手伝いをしてくれればいいじゃん。そうすればミランダちゃんの手を借りなくてもいいだろ」
「……」
なんだよもう、早く言えよなー。
にこにこと嬉しそうに言う主人の顔を見ていると、黒猫の視界がぼやけてにじんで、ついでぽろぽろと何かが零れてきました。それは頬を挟み込んだ主人の手をも濡らします。
主人は一瞬だけ驚いたように黒猫の顔を覗きましたが、すぐに染み入るような笑顔をみせ、柔らかくこうつぶやきました。
「……ああ、黒猫がようやく笑った」