3話
若い主人は綺麗な服を着せるとなかなか見栄えが良くなりました。
濡れたばかりのオレンジ色の硬い髪は太陽を反射してとても明るく輝いておりましたし、やや白めの多い新緑色の瞳は持ち主の性格を反映してまっすぐでよどみのない色をしておりました。もともとこの主人は太陽の下が一番よく似合うのです。黒猫は満足して主人の背を押すと、リンデーク国王と姫にカラバ伯爵だと紹介しました。
リンデーク国王と姫はよろこんでカラバ伯爵を迎えました。とくに姫君は若くて明るい笑顔の主人を気に入ったようでしたので、黒猫はほっとして馬車から離れました。なぜだかほんのすこしばかり切ない心持ちになりましたが、それは今は関係のないことでした。
まず黒猫は若い主人の着ていたものと荷物をすべて木の洞に隠しました。しかしほんの少しだけ考えた後、若い主人がいつも巻いているお気に入りのストールを手に取るとこっそりと自分の腰に巻きつけました。
そうしてリンデーク国王の従者にカラバ伯爵の領地に案内すると告げました。東の道をまっすぐに進んでください。道が悪いのでできるだけゆっくりと。そう言うと従者はこころよく応じてくれました。
黒猫は弓を持つと森の中を走り始めました。そうしてしばらく行くと、豊かな畑の中でひとりの農夫が仕事をしておりました。黒猫は農夫に話しかけました。
「ここは誰の領地ですか」
農夫は答えました。
「へえ、魔法使いオーク様の土地でございます」
黒猫は心の中で頷きました。そうしてつとめて冷静な表情をつくってこう言いました。
「違います。さきほどお触れが出て、オーク様はこの土地はカラバ伯爵に譲るとお決めになったのですよ」
「へ、へえ、そうなのですか」
「これからここはカラバ伯爵の土地であると名乗りなさい。でないとひどい罰を受けることになるでしょう。よいですね」
農夫は一瞬だけぽかんとしたようですが、黒猫が着ている立派な服と堂々とした態度にすぐに納得したように頷きました。
さて、わけもわからず王様と姫君と馬車に乗っていた少年でしたが、もともと楽観的な性質の持ち主でしたので、それはそれは実に楽しく過ごしておりました。お姫様はとても可憐で可愛らしかったし、王様はほがらかで気持ちの良い人物だったのです。二人の話によると、どうやら黒猫が「カラバ伯爵」からと称してふたりに珍しい贈り物をしていたとのことでした。
「カラバ伯爵のお噂は従者のかたにうかがっておりました。雲みたいにかろやかな方とのことでしたが、本当ですのね」
「いやいやそんな。姫様の晴れ渡った空のような愛らしさに俺のほうが浮かれちゃってますって。王様もきさくでいいっすね。俺、王様みたいな人がまとめてる国に生まれればよかったって心底思うっすよ」
「まあ、なんて嬉しいこと」
お姫様も王様も少年の話をにこにこと聞いてくれました。
リンデークという国は少年の生まれた国とは違うところがありました。海に面した商業国でありながら、あつかうものは「物」のみ。奴隷制度を廃止したこの国は弱小でありながらも他国と一線を期して存在しておりました。弱小でありながら平和な国で、なんでも魔女のなかで最も高名な西の魔女の護りを受けているとの噂もありました。少年が家を出て、まずこの国に向かったのはそういう理由だったのです。
そのうちにふいに王様がひろい畑のわきに馬車を停めました。そうして畑で働いていた農夫に問いかけました。
「なんと立派な畑だろう。ここは誰の領地なのだ?」
農夫は答えました。
「へえ。ええと、カラバ伯爵の土地でごぜえます」
「……ほう。それはすばらしい」
王様とお姫様はにこにこと少年をほめたたえました。
少年は、ははあ黒猫の仕業だなと思いました。そうしてさらに思いました。いったい黒猫は、何をしたいのだろう、と。
黒猫はよく仕事をしているようでした。なぜならそれからというもの、出会う農夫すべてが「ここはカラバ伯爵の土地だ」と答えるのですから。
さてどうしようかと少年は思いました。黒猫は自分を信じてくださいますかと若者に問うてきました。それはもちろんやぶさかではありませんが、黒猫の目的がなんだか変な方向にむかっているような気がしたのです。ううんと唸っていると、馬車の外から鳥の羽ばたく音が聞こえてきました。ふとみると、走る馬車の窓に並走するように一羽の鴉が飛んでおりました。
若者がぽかんとそれを見ていると、ついで目を疑うようなものが視界に飛び込んできました。
「おお、こちらですぞ」
少年の正面に居るリンデーク国王が鴉を追うように飛んでいる「それ」に向かってほがらかに手を振りました。
「西の魔女ミランダ殿!」
領地内の者に話しかけながら走っていた黒猫は、やがて魔法使いの住む城にたどりつきました。弓の弦をぴんと張りなおして、黒猫は門番に声をかけました。
「魔法使いオーク様の弟子にしてもらいたく参りました。どうかお目どうり願えませんでしょうか」
「何を言う、おまえのような娘がオーク様にお会いできるものか」
黒猫はほんの少しだけ考え込みました。ふと自らの着ている立派な服とマントに目を落とします。そうして口を開きました。
「私は西の魔女の使い魔に縁のあるものです。西の魔女よりオーク様の方が能力が高いと見込んでここまでやってまいりました」
「何、西の魔女だと」
「はい」
「西の魔女とはあのミランダのことか」
「はい、そのミランダ殿です」
実のところ黒猫は西の魔女の名前などさっぱりしらなかったのですが、ここでも持ち前のポーカーフェイスが役に立ってくれました。表情の読み取れない冷静な顔で、黒猫は知っている事柄だけを交渉の材料として伝えます。
「使い魔は黒い鴉。この極上の衣服もマントも、その鴉より奪い取ったものです」
「……嘘ではなさそうだな。しばし待っていろ」
門番の一人が城の中に消えて行ったのを見届けて、黒猫は胸の中だけでほっと息を吐きました。これで魔法使いには会えるでしょう。あとは、変幻自在に姿を変えるという魔法使いと対峙するだけでした。
魔法使いオークの評判はよくないものでした。領地の税は他のところより数倍も高く、その取立ても群を抜いて厳しいとのことでした。農民が冬を越せるだけの麦すら残さず、年によっては餓死するものもあとを絶たないと言います。
また、魔法使いであるオークは領地の民を使って魔法の実験をすることでも有名でした。城に連れて行かれた民はひとりとして帰ってこず、だから魔法使いオークは「人食いの化け物」とも呼ばれておりました。
だから、と黒猫は思いました。だから、だから仕方がない。
手にした弓をぎゅっと握ります。皮手袋の中の手にじっとりと汗がにじむのを感じました。
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「……」
黒猫は自分の目の前に膝をついている男の子をぼんやりとみつめました。いつもはこぶしひとつ分は高い位置にあるオレンジ色の髪のまんなかにあるつむじを見下ろせるなんて不思議なことでした。
さきほどまでただじくじくと痛かった右足に男の子の手が触れます。それはひどくあたたかくて、そしてびっくりして、黒猫はあわてて足をひきました。
「俺はぶったりしないぞ」
男の子の声に黒猫は頷きました。そんなこととうの昔にわかっておりました。男の子は、この男の子だけは、彼の父や兄たちとは違って黒猫たち奴隷にけっして手を上げたりはしませんでしたから。
黒猫の裸足の膝から下は赤黒く腫れておりました。それは黒猫の働きがわるかったせいで、男の子の長兄が怒ってその足を何度も蹴ったからでした。
男の子が再度手を伸ばします。立ったままの黒猫は今度は逃げませんでした。赤黒く腫れた醜い足を男の子に見せるのは恥ずかしかったのですが、逃げると男の子がどこか傷ついたような声を出すので、ぐうっと堪えたのでした。
男の子の手が足に触れます。腫れ具合をたしかめるように往復する指は、それはやさしいものでした。
「ごめんな、痛いよなあ。おまえだって人間だもんな」
つぶやかれた声に、黒猫はあわてて首を横にふりました。
「いいえぼっちゃま。私たちは人間ではありません、奴隷です。奴隷は家畜と同様のものだとお聞きしております。いえ、働けない奴隷は家畜以下であるとも。そんな私たちが痛がる権利などないとも」
「そんなわけ、ないだろ」
黒猫は膝をついたままの男の子をみつめました。男の子は黒猫の足にじいっと目を落としています。だからそのときにどんな表情を浮かべていたのか黒猫にはわかりませんでした。
しばらくして男の子は口を開きました。
「生きているんだから痛いことをされたら痛いに決まっている。そんなこと相手の身になって考えればわかることだろ。奴隷とか家畜とか、関係あるもんか」
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それは黒猫にとって少年が与えてくれた宝物のような言葉の一つでした。少年はたくさんのものを黒猫にくれました。言葉も、やさしさも、そして奴隷という枠をはずすことさえも。
だから、だから仕方がない。
黒猫は弓を持つ手に力を入れます。これから対するは人々を苦しめる悪い魔法使い、人食いオーク。
それを黒猫が弑して、その地位を主人にお渡しすることが悪いなんてあるはずがないのでした。