2話
「坊ちゃま」
黒猫は国王から受け取った立派な衣装を若者に着せながら小さな声でささやきました。
「よいですか、坊ちゃまは今からカラバ伯爵と名乗ってください」
「はあ? なあ、いったいさっきから何が起こっているんだよ。わっけわかんねえ。 黒猫、カラバ伯爵ってなんなんだよ」
「カラバ伯爵とは私が思いつきで適当に作った伯爵のことです。たくさんの領地を持った、たいへんやさしい伯爵さまということにしました」
「なんじゃそりゃ。それにえらくへんてこな名前だなあ」
思わずこぼれた素直な言葉に黒猫がその青白い瞳をすうっと細めます。あわてて若者は言葉を重ねました。
「いやいや、それにしても俺がそんな伯爵とうそをつくには無理があるって。領地はおろかほとんど金もねえんだぞ。おまえの船代ぐらいは稼いできたけどよー」
「船代?」
かすかに瞠られた黒猫の瞳を見下ろして、若者はまあなと明るく笑いました。
「おまえが狩りに行っている間稼いできてたんだよ。ほら、まあ最後のけじめというか罪滅ぼしと言うか、まあなんというかさ。せめてこれぐらいしないと恰好つかないじゃん?」
黒猫はぽかんとしたようでしたが、すぐにいつものような無表情にも戻るとまぶたをふせてそっと息を吐きました。
「……坊ちゃま、坊ちゃまは、私を信じてくださいますか」
「ん? ああ、そりゃあな。なんたって俺たち、ほら、ダチだし?」
「ならばあなたはこれからカラバ伯爵としておふるまいください。領地のことならお気になさらず、すぐに領地も城も手に入れてまいりますから」
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黒猫の生まれた地は作物の生えない不毛の地といわれておりました。砂だらけの土地には水も少なく、だからこそ黒猫の部族はオアシスと呼ばれるわずかな水と木を育む土地を転々としておりました。
オグル族と呼ばれる彼らがそんな地においやられてしまったのは、かつて黒猫たちの部族の血から世界に仇なすものがあらわれたことがあったからでした。一族特有の小麦色の肌のそれは、当の昔に聖なるものに封じられたのですが、一族に対する世界の軋轢は深く深く根ずくことになったのです。
黒猫がその軋轢にのみこまれたのは、5歳になる2日前のことでした。オグル族は5歳になると、精霊と契約をかわすひとつの儀式を行うのです。黒猫はそれをとても楽しみにしておりました。毎日指折り数えてそわそわとしては、兄や姉たちにからかわれておりました。
世界のひずみは突然黒猫の元にやってきました。それらはいきなりあらわれ、黒猫のような小さな子供たちを網でとらえて行ったのです。麻袋におしこめられたあとのことを、黒猫は見ておりません。ただ、聞きなれた大人たちの悲鳴や怒号を聞いたような気がします。そして、何かが燃えるような嫌な臭いも。
そうして黒猫たちは白い肌の人間たちが住む土地に連れてこられました。暴れたり泣いたりするとそれはひどい折檻を受けるので、そのころにはみんなすっかりおとなしくなってしまっておりました。鎖に繋がれ、売り物のように市場に並べられてからは見知った顔がぽろぽろと欠けていきました。売られたのか死んだのか、それは黒猫にもわかりませんでした。黒猫たちの扱いはとてもひどく、扱いもそのあたりの動物よりみじめなものでしたから、もしかしたら病気で死んでしまったもののほうが多かったのかもしれません。
オグル族は売れねえな、あんなに苦労して狩ってきたのにどういうことだ。
そう言われて殴られたことも一度や二度ではありませんでした。黒猫もそのころには何にも逆らえなくなっておりました。毎日がひどくこわくて苦しくて、もういやだとなんど思ったかしれません。
そんなとき黒猫は一人の粉屋に買われました。なんでも黒猫はとても安く売られていたのだそうです。その国では一家に幾人かは「奴隷」をもつことは当たり前でしたから、粉屋も幾人かの奴隷を持っておりました。
「お前の肌は黒いし、目は猫のように大きい。名は黒猫にしよう」
黒猫には部族で呼ばれていた名前があったはずなのですが、商人たちにひどい折檻を受け続けているうちにすっかり忘れてしまっておりました。なので動物の名をつけられてもどうでもよいとさえ思いました。自分が二度と懐かしい故郷に戻れないことを、こどもながらに悟ってしまっていたのでした。
黒猫はよく働きました。余計なことをしゃべるとぶたれることは学んでいたので、非常に無口でしたが、奴隷としては申し分のない子供でした。
粉屋には三人の子供がおりました。みんな男の子で、黒猫よりも年上でした。うえのふたりは奴隷である黒猫なんかにちっとも興味はないようでしたが、末の男の子だけは違いました。明るいオレンジ色の髪をした男の子は、興味津々で黒猫によく話しかけてくるのでした。
普通に挨拶をしてきますし、怪我をしたら心配してくれます。その笑顔は誰に対しても変わりなく明るいものでした。
男の子には奴隷も自分も「おなじ」ように見えているようでした。この土地に住む人間にあたりまえのようにある身分の差など彼にはどうでもよいようでした。その感じ方ははこの地の人間にとっては非常に気持ちの悪いもののようでした。ですから彼は頭の軽い子として扱われておりました。
実のところ黒猫だってとまどっておりました。明るく挨拶されてもどのように返していいのか分からなかったのです。よく末の子が父や兄たちに「奴隷なんぞに構うんじゃない」と言われておりましたが、末の子はきょとんとしておりました。それを見てはらはらしているのはむしろ黒猫の方でした。あんなふうにいわれてしまうのだから私に何てかまわなければよいのに。そう思っておりました。
そんなある日のことでした。黒猫は風邪をひいて高熱が出てしまったのです。ひとり小屋の中で藁を被って横になっていてもちっとも気持ちが悪いのは良くならず、黒猫はそこではじめて涙ぐんでしまいました。頭は痛いし喉は痛いし身体のあちこちも痛みます。そんな中、かつて風邪をひいたときは優しい家族たちがかわるがわる世話を焼いてくれたことを思いだしてしまったのでした。青い月とつめたい砂の土地。二度と帰ることのできない場所でありました。
末の子が窓から入ってきたのはそんな時でした。うずくまって、涙を流している黒猫を見てびっくりした顔をしておりました。しんどいんだろ、リンゴもってきたから食べなよ。そういいながら心配そうな顔をする末の子の心づかいがうれしくて、びっくりするほどうれしくて、黒猫は思わず泣きながらつぶやきました。
かえりたい、と。
かえりたいかえりたい。
ぼっちゃま、わたしはいえにかえりたいです。
末の子は新緑色の瞳をきょとんと見開いておりましたが、ちょっとかなしそうな顔をしながらも泣きじゃくる黒猫のそばにずっといてくれました。