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そういえば、日本屈指の標高を持つ山で人質事件があったらしい。朝からメディアが大騒ぎしる。たまたまついていたニュース番組では、何処の馬の骨だかわからないような胡散臭い心理学の教授が、黒縁眼鏡を大袈裟な演技でずり上げ、訳知り顏で推論を並べ立てていた。

恐らくどの推論も当たっていないのだ。そういうものだろう。犯罪者の心理など、同志にしかわからない。本当に正確なコメントが欲しいのであれば、犯罪者をコメンテーターに雇うべきだろう。

正夫はただただ騒々しいだけのテレビを消し、曲がり始めた腰を労わりながら、ゆっくりと立ち上がった。最近はこう立つのも時間が掛かってしまう。

先日業者に取り付けてもらった手摺りに掴まりながら縁側へ移動する。

家の中に手摺りを取り付けてもらったのは正解だった、と正夫は思う。手摺りが必要かどうかよりも、久しぶりに若者と話した、という刺激が、彼の痴呆を遅めてくれるのではないかと踏んだのだ。


隣の市にある業者に電話すると、明らかに若い男が応対に出た。話によると彼が工事にくるのだという。若干の不安は残るものの、しかしながら正夫は少しにやけてしまった。

工事の前日には、わざわざ村に一つしかない大型スーパーまで行った。

数年前にできたこのスーパーは、未だにこの村の中では新しい建物と認知されている。白い壁は不良の落書き以外に殆ど汚れが付いていない。誰が見てもこの村ではこの建物だけ異様に目立っている。これが出来た当時は、村の住民が皆で公民館へ集まって宴会をしたものだ。しかし正夫はここへくるのは本当に久しぶりであった。贔屓にしている八百屋や肉屋で買い物は事足りてしまうからだ。

スーパーの建物の無機質さとあまりの大きさに圧倒されながらドアの前に立ち竦んでいると、ドアの開け方がわからない人だと思われたのか、中から初老の女性店員が現れた。やはり村が村なだけあり、ここで働いている人は皆正夫とたいして年齢が変わらなく見える。同じ年代の人がまだ働いているのを見ると、彼らの境遇を推測してしまうのは正夫だけではないはずだ。

店内は真夏であることを忘れさせてしまうほど涼しかった。恐らくは環境省が掲げている冷房温度の事など端から頭にないのだろう。

よく老人は、体を壊すから冷房を使わないというが、正夫もその一人だ。真夏でも日本家屋風の家の中には風が通り抜ける。どこも不自由なく暮らせているのだ。そのため、このような人工的な涼しさを受けると、物理的な寒さよりも寧ろ薄ら寒さのほうを感じてしまい、どうも落ち着かない。

正夫は小さく首を振り、足早に飲み物が陳列してある一角へ移動した。ネオンカラーの液体ばかりがペットボトルに入れられ無造作に置かれていて、いきなり見せつけられたカラフルな光景に少々たじろぐ。自分が若かった時、飲み物の色は原材料の色そのものであった。正夫は長くため息をついて、一番手近な緑色の飲み物を買った。メロンソーダと書いてあった。正夫には想像もできないような味がするのだろう。

家に帰ってから三十分ほど、独自の発声練習をした。近頃の若者は老人の言葉を聞き取り辛いようだ。電話の応対の時もそうだった。正夫は若者の話し方のほうが聞き取り辛いのだが、若者は若者で正夫の言葉がわからなかったらしくお互いに何度も聞き返す様な事になってしまった。お陰で電話をかける時にあった若者への生理的な嫌悪感は消え失せ、単純に彼が来るのが待ち遠しくなった。

正夫は他人の性格を考えるのが好きだ。無趣味であるが故の唯一の趣味と言えるものかもしれない。行き交う人の中で目についた人や心に残った人がどんな人間だかを想像する。電話に出た若者は根は純粋な人間だろう。まだ若い声をしていたから、きっと現代人らしく髪を茶色に染め、耳にピアスなど付けている事だろう。通常正夫が絶対に関わる様な事のないタイプの人間だ。その様な人と話すのも楽しいかもしれない。

少し遅めの夕食を作る事にした。普段は簡単なもので済ましてしまうのだが、今回はカレーを八人前だ。家じゅうに手摺りを付けるとなると一日かかるはずだから、昼食くらいはこちらが振舞わなければと思ったのだ。小さな音でクラシックを流しながら作っていく。包丁とまな板があたる音が家じゅうに拡散していくのがわかる。何か音楽を流さないとやってられないのだ。あまりに音が少ない。孤独は老人をも憂鬱にさせるのだ。やはり、人が恋しい。

心ここにあらずのまま遅めの夕食を終え、そのまま寝てしまった。静かすぎるのはさみしいが騒々しいのも嫌いだ。世の中は極端で正夫にはあわない。だから早く寝てしまうしかない。


その日は朝から大忙しだった。業者は十時にやって来ると聞いていたが、正夫が起きたのは八時過ぎであった。手早く朝食を済まし、家の掃除に取り掛かる。

まずは家からでてみる。朝日と微かな甘い香りが心地よい。きっと今日は猛暑日とまではいかなくても真夏日にはなるだろう、と正夫は思った。しかし、穏やかな風が吹いているから不思議と暑さは感じない。

前庭の木にあんずがなっている。十年程前、ご近所友達に貰ったあんずを食べた後に種を前庭に埋めてそれっきり放置していたのだった。ここ二、三年は勝手に実がなる。甘い香りがすると、正夫は夏が始まったのだと思う。

正夫の身長で手が届く範囲のあんずを採った。百七十センチない身長ではあまり採ることはできなかった。若者が来る前に冷蔵庫で冷やして置かなくてはならない。例年彼は採れたあんずをシロップ漬けかジャムにする。甘みと酸味のバランスが良く気に入っているのだ。

しばらくぼうっとしていると蝉が激しい音を立てながら飛んでいって正夫はふと我に帰った。最近は頭の中が真っ白になってしまうことが多々あって良くない。ボケ防止にと買った数独も全く手つかずのままだ。

よしっと膝を叩き玄関に入ってみる。やはり、外から見てみないと、自分の家を客観的に見ることができない。ざっとあたりを見渡すが特に何もない。

順々に巡っていって台所まで来たところで、持っていたあんずを野菜室に入れた。三時のおやつの頃には程よく冷えていることだろう。


数分も経たないうちに若者がやってきた。彼の名前は岡崎だ。早々に渡された名刺に書いてあった。

挨拶もそこそこに、一杯メロンソーダを飲んだところで早速工事をはじめるという。

「玄関から順にやっていきますんで。」

「道具とかは?」

「全部車の中です。なかなかの量っすよ。長期戦になりそうです。」

岡崎は足早に車の方へ行ってしまった。手持ち無沙汰になった正夫もとりあえず玄関へ行く。

それにしても、若者は爽やかであった。正夫にとってそれは意外だった。もっと不良あがりのような人相の悪い人間を想像していたのだ。なかなかそう瞑想な顔をしている。老人はそういう人間には弱い。

「あ、時間かかりますんで部屋でゆっくりしてくださって大丈夫っすよ。工事の音は大きいかもしれないっすけど。」

「いや、暇だからいいんだ。最近はやることがなくてね。その代わりわしの話し相手になってくれないかね。」

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