なんで――――わかってくれないの?
始まりの前兆なんてものはなかった。
ただ結果だけが、すとんと私の前に降ってきた。
「勉強、はかどってる?」
突然後ろから声をかけられ、身体が硬直した。
何が起こっているのか分からない。父も母も働いている我が家には、夏休みの昼間に誰かの声がするなんてあり得なかった。
クーラーが効いた部屋の中で、全身から一気に汗が吹き出す――そんな嫌な感覚にふりかえることさえできなかった。
「どうしたの?」
また、声が耳元で鳴る。
気配が顔のすぐ横にあった。
心臓が早鐘を打つ。
ひどく嫌な声。
滑舌が悪く、猫なで声のように聞こえる人を苛立たせる声。
覚えが、ある気がした。
この時の私はまだ知らなかった。自分が普段聞いている声と、他人が聞いている自分の声は全く違うものだという事を。
「―――――――――――――――っ!!」
耐えきれず振り返ってしまい、声にならない悲鳴を挙げて思いっきりそいつを突き飛ばす。
床に転がったそれは、「痛いよう」と体をさすって立ち上がる。
逃れようと椅子から半ば転げるように腰を上げ、背一杯壁際による。
怯える私にそいつは、精一杯笑顔を作った。
「おっ、おはようだね!!」
――――吐いた。
鏡でいつも見ていたのと、寸分たがわない姿の《わたし》。
ぎこちなく手を振る動作、笑みが微妙に引き攣っているところ、上ずった声の調子。
何もかもが私といっしょ。
紛れもない《わたし》自身。
「な……なんで」
訳が分からなかった。
今まで向き合わないようにしていた。それができたのは同じ肉体を共通しているため、自分で自分を見ることは鏡なくしてはできないからだった。
それが全て意味を失くした。目を逸らすことも出来ず、心の底から組み上げられるドロドロしたものを吐き出そうと嘔吐した。
鼻につく嫌な匂い。酸っぱい液しかでなくなったあとも、胸の奥にある真っ黒なものは詰まって出てこなかった。
「大丈夫?」
《わたし》が私に触れてきた、ぞわりと鳥肌が立ち反射的にその手を払う。
「嫌ああああああああああああぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ペンたてに入れてあったハサミを手に取ると、自分の手が傷つくのにも構わず刃を握り、もう片方の刃を《わたし》の顔面にーーーー
「殺せないよ」
私の攻撃は空を切った。《わたし》に寸前でかわされたから。
この子は私。《わたし》には私のすることなど筒抜けに決まっている。
本来ならもっと考えておくべきことがあったと思う。
どうして《わたし》が現れたのか。なんで二人になってしまったのか。
だけどーーあの時の私は自分の中に沸き起こる憎悪と戦うのに必死で、そんなこと考える余裕はとてもなかった。
考えるまでもなく目の前にいる気持ち悪い存在は、自分自身だとわかっていた。
「どうしてっ……!」
床に倒れ、暴れ喚きたて、私は叫んだ。
目を潰したくてぎゅっと抑えた。その手を《わたし》は掴んだ。
「――――っ!!」
声ならぬ声をあげ、獣のように暴れた。手の自由を奪われ、目を開くと《わたし》がいる。
狂わないわけ、なかった。
「だって、私から逃げないと、《わたし》殺されちゃいそうだったから」
脈絡もない話。そう、こいつはこんな喋り方をするから嫌いだ。
「《わたし》はまだ死にたくないの」
わからない。なにをこいつは言ってるのか、理解ができない。
私のはずなのに。《わたし》には私のことがわかるのに、私には《わたし》のする事なす事、そのすべてがわからない。
だから嫌いだ。
「《わたし》は、私にはもう還らないよ。これからも、《わたし》は《わたし》として生きていくから」
悪夢のような言葉。
わたしが私としてあるうちは、縛り付けたり、押さえつけたり、――――殺すことだってできたはずなのに……
止まらない吐き気に、涙が溢れた。
なんで……何でなのよ。
「末長く、よろしく」
あなたは私なのに、なんで私のことわかってくれないの?
本文が暗すぎて、後書きで何書けばいいのかわかりません(汗
今回、時間が少し巻き戻ってます。
次話から2話の続き、新学期が始まります。