これがお嫁さまのしきたりです。
き、きつい……。
髪がきつく縛られたところに飾られたかんざし。
シャラシャラと繊細に加工された金属の触れあう音がする優美な代物だけど、なんていっても金属だから重い。しかも、そこに小さな光る石が無数に埋め込まれているものだから、さらに重い。
それらを支える私の頭から首、そして肩にかけて悲鳴をあげていた。
くらくらする……。
でも、これをかぶせられる時に、侍女頭にはっきりと言われたのだ。
「これを婚儀の最後まで付け通すことが、我が赤龍家に嫁いで来られるお嫁さまのしきたりでございます」
と。
白髪の細い身体でありながら、背筋がすっと伸びた堂々とした態度の侍女頭はさらに、
「これもお嫁様のしきたりでございますゆえ」
といって、下着となる薄布すら取り去り真っ裸になった私に、ぐるぐるとサラシのような布を胸元から下腹部まできつく巻いていった。
わたし、ミイラか……と一瞬思ったけれども、そもそもお嫁様になる人は婚儀が終わり旦那様と共に部屋に入るまで口を開いたらいけないという……これまた「しきたり」だとかで、抗議することもできなかった。侍女頭は、サラシをまかれずん胴になった私に、煌びやかなヒラヒラとした衣装を着せていった。
今の私は婚儀の祝宴が行われている広間の上段に座っているけれども、さきほど侍女頭が巻いてくれたサラシのおかげで、いくら頭が重くても前かがみにすらなれない状況だった。
つまり、頭は重いし、肩はがちがちにこるし、けれども身体を傾けるような上半身に余裕はないし……で、ただ座って唇に微笑みをたたえる努力をしているのが今の私。
でも、このつらさももう少しの辛抱のはず。
私の目の前にひろがる広間では、祝宴が繰り広げられているけれど、ずいぶんと皆は飲み食いし、談笑しており和やかなムードとなっていた。
あともうちょっと。
この頑張りも、私の隣に同じような煌びやかな衣装をつけている、大きな大きな熊のような男……私の大切な炎鳳の妻となるためなのだ。
がんばれ、私。
ちらっと横を見上げると、いつもボサボサになっている赤茶の髪が綺麗にまとめあげられ、ただ前を見つめる無愛想な……いや、はっきり言えば睨みつけるような三白眼をたたえている厳しい炎鳳の横顔がある。
よくみれば、いかついなりにもなかなか良い男なんじゃないかと思うんだけど、ごっつい顎のラインと鋭い目つきによって武骨さと荒々しさが表に出すぎてしまい、女子供は怖がって震えあがるという外見だった。極めつけ、左頬上から鼻をつっきって右頬下に通る斜め一文字の傷跡が、生々しくてさらに恐ろしげな顔にしてしまっている。
まぁ、その女子どもが怖がる顔のおかげで、炎鳳は名門赤龍家の跡取りであり、かつ、この晶国の将軍にありながら36歳のいままで結婚する機会に恵まれずに来たのだというのだから、私にとって感謝すべきところだろう……この強面と優美とは言い難いいかつくデカい身体つきに。
私の視線に気づいたのか、炎鳳がちらっと私の方に視線をよこした。
お世辞にも甘い瞳とは言えない……鋭さと険しさがある百戦錬磨の武人の目つきだ。
けれど、その瞳に少し柔らかなあたたかさを湛えて私を見てくれることを、知っている。
私が婚儀と祝宴のこの広間を出るまでは言葉をはなしてはいけないしきたりなのを知る彼は、「どうした?」とは口にはしないけれども、その瞳に「大丈夫か」というような気遣うような色をにじませてくれる。それを見るだけで、私はがんばる力が湧いてくるのだ。
(大丈夫だから)
そんな気持ちを込めて、微笑んで頷いてみせると、炎鳳は少し安心したような表情となった。
ちょうどそこに祝いの言葉を述べながら、彼の親族のものたちが杯を交わしにやってきた。私は炎鳳のとなりに挨拶にきた人たちに首を傾けて会釈をする。これも事前に侍女頭が「お嫁さまのしきたり」として教えてくれた作法だ。
かんざしが揺れて、シャラシャラと音を鳴らすことが大切で、それが「お嫁さま」のあいさつがわりとなるらしい。
なんとかうまくこなして、私は侍女頭が注意してくれたとおり、また楚々とした態度で前を向く。あまり誰かひとりに長く挨拶したり目を向けるのもマナー違反らしい。
(あぁ、肩がこる……でも、あともう少し)
そう、このお嫁さまのしきたりというかんざしも、この胴にまきつくサラシも、口を開いていけない苦痛も……あと少し。
それを超えれば、私は、晴れて炎鳳の妻になる。
そして、あの逞しくごつごつしたでっかい熊のような腕に抱きしめられる……はずなのだ。
――……やっと。
出会って、もう2年がたつ。
ことばで思いを告げ合って、約1年だ。
でも、その間に私と炎鳳にあったのは、数度の抱擁だけ……。
性の価値観が私が生まれ育った日本と違うとはいえ、晶国であっても炎鳳の態度は紳士というか……オクテすぎた。
私だって、男性経験なんて高校時代の彼氏とディープキスしただけのレベルなんだけど、炎鳳とは唇の触れあうキスすらなかった。
求められないことが、なんだか怖くて……そんな中、結婚を申し込まれた。
そしてとうとう私は、今夜、炎鳳の妻になるのだ――……身も心もすべて。
日本で就職活動中だった大学3回生の私が、見知らぬ世界で結婚する……そんな不思議なことが起きるなんて、誰が想像しただろう?
これが夢だったらどうしようとも思うけれど、現実、私はここにいる。
一人暮らしのアパートのお風呂でうたたねして……あまりの苦しさと冷たさに目を覚ましたら、谷川の急流にのまれていて。
岩場で一人、鍛錬をしていた炎鳳が私に気付き、川から引き揚げてくれた二年前。
風呂場からこちらの世界になぜ来てしまったのかわからないものの、とにかく私は全裸のままで。
鋭い視線といかつい身体の荒々しい炎鳳に抱きかかえられたときは、いろんな意味で自分の終わりを感じたけれども……彼は私を自分の上着でつつみ(身体が大きいので、彼の上着で十分私なんか包める)それ以上は手をださず、火を焚き身体をあたためてくれた。
言葉はかろうじて通じて、でもこちらの晶国のことを何も知らない私を不憫に思ったのか、炎鳳は館に引き取り保護者のようにして世話してくれるようになった。
戦場での炎鳳の姿は鬼と聞く。
得意の大剣をふりまわし、幾多の敵陣に乗り込んで行くという……。
たくさんの命も奪ったであろう、炎鳳。
けれど、私にとっては誠実に部下に接し、私という小さな無知な娘を庇護してくれ、自分の領地の民に優しい、真面目な良き人なのだった。
外見はいかつく恐ろしげなものだけど。
ほとんどにこりともしないけれど。
その熊のような大きな姿で、のっしのっしと歩きつつも、領民や部下、館の使用人たちの状態に細やかに気を配っている人なのだ。病で倒れたと聞けば、まるで睨んでいるかのような目で、朝早く摘んだ露に濡れる野に咲く花を枕元にそっと置いて黙って去ってゆく……そんな不器用な人なのだ。
ふるさと……日本のことを思い出さないわけじゃないけれど、私の心は炎鳳でいっぱいで、私は炎鳳の妻になるこの日をずっと心待ちにしていた。
いよいよ。
もう少しで――……炎鳳のたったひとりの妻になれる。
*********************
「ぷはぁぁぁ~」
私は大きく息をした。
まだ身体にサラシはまかれているから、胸一杯に息を吸い込むことはできないけれど、頭のかんざしをはずして髪をほどくだけで、ずいぶんと頭から肩にかけて楽になった。
ここは、婚儀を済ませた新婚夫婦の寝所だ。
寝所には寝間着で入室するのが普段の生活の作法だったが、婚姻をすませた夫婦は衣装のまま入室し、そこで着替えるのがしきたりだという。
ということで、炎鳳と私は婚儀の祝宴のきらびやかな格好のまま新しい寝所に入った。
夫婦ふたりの部屋もかねてるとあって、寝所といっても寝床だけではなく、テーブルや椅子、また衣装箱なども置いてありなかなかの広さがあった。
この寝所に入った時点から、私は口を開いていいことになっていたので、入室と同時に「かんざし、重い……」と私はずっと内心で思っていたことを呟いてしまった。
それを聞いた炎鳳が、私の後ろにそっとまわりかんざしを抜いてくれ、髪を結っていた紐もはずしてくれた。
――……そして、今やっと大きな息ができたのだ。
振り返ると、炎鳳が私を見下ろしている。客観的にみれば、まるで睨みをきかしているかのようなんだろうけれど、慣れた私からするとその炎鳳の瞳はいつもより笑いをにじませているように感じた。
「疲れたか」
「うん。あぁ、話しができないのもあんなにつらいと思わなかった!」
私は口をもぐもぐと動かした。
ずっと微笑をたたえた形で唇を固定していたからか、口が固まってしまったかのように強張って気持ちが悪い。
「水でも飲むか」
そう言って炎鳳は器に水を注いでくれる。もらって口にすると、花の香りをつけてある水だった。すがすがしい香りがすっと身体をらくにしてくれる。
ふだんならこうやって水をもってくることなども侍女などがしてくれるので、炎鳳に世話してもらうのがなんだか照れてしまう。
互いに水を飲むと、私と炎鳳の間に沈黙がおりた。
――……。
それにしても、これからどうしたらいいんだろう。
綺麗に着飾っているとはいえ、衣装の下はサラシだし。
髪はほどけたけれど……互いに入浴もしていない。
このまま、その……寝床にいくんだろうか。
ひとまず汗を流したいんだけど……。
日本から来た私にとってありがたいことに、晶国はこまめに入浴をする国だった。
水が豊富なことがひとつ。あと、炎石という水の中に落としてあげると水を熱くしてくれる不思議な石があって、それによってお湯を作りやすいという理由もあった。
だから、入浴をこまめにする文化の晶国で、祝宴などが開かれた後に多少でも汗ばんだ状態でそのまま床につくっていうのは、いつもの状況からしてありえない流れだった。
でも、今日はなんといっても婚儀の夜。つまり……初夜。異例なこともあるのかもしれない。
婚儀の前に今日一日の流れを説明していた侍女頭は、「いったんご寝所に入られてからは、鶏が鳴く夜明けまでは部屋から決して出てはなりません……それがしきたりです」と締めくくっていた気がする。
ということは、部屋の外に入りにいくわけにはいかない。
私が着替えとお風呂についてどうすればいいかと考え込んでいると、炎鳳の方が先に口を開いた。
「風呂にするか」
「え、入れるの?侍女が寝所からは出ては朝までいけないって……」
炎鳳の言葉におどろいて私がたずねると、炎鳳は軽く頷いた。
「あぁ、こっちにある」
連れていかれたのは、部屋の一番奥だった。木戸があり……その木戸をあけると、屋根のあるテラスが続いていた。
木戸をあけたので、涼しい風が部屋のなかに拭きこむ。一瞬それに気をとられて目をつむり、もういちど目を開いてよくテラスを見ると――…。
そこに、おおきな風呂釜があった。
水がなみなみと湛えられていて、脇の棚に湯をわかすための炎石がおいてある。
「ろ、露天風呂……」
屋根と高めの生け垣があるものの、その隙間からは満天の星が見える。
涼しい風がまた私の頬をなでた。
こちらで露天風呂を見たのは初めてで面食らう。
いつもこの館で使わせてもらっていたのは、銭湯のような浴場だった。
「夫婦だからな。未婚で外風呂を使うわけにはいかんだろう?」
炎鳳はそんなことをいいながら、炎石をぽいぽいと風呂桶の中に放り込む。
どうやら露天風呂は既婚者の楽しみらしい。さすが将軍の炎鳳の館だから、マイ露天風呂が夫婦の寝所にあつらえられている……と考えたらいいのかな?
晶国に来てまだ二年。
文化の差というか……知らないことがまだまだあるなぁと思いながら、こちらではめずらしい露天風呂をキョロキョロと眺めていると、ふっと背後から腕を回された。
「!」
びっくりして硬直する。
炎鳳から、こんなに積極的に触れられたことは初めてだった。
たくましい私の倍ほどもある腕が私に回され、痛くない程度にぎゅっと力をこめられ、背後の炎鳳と密着する。
あたたかな胸板を背中に感じ、私はますます身を硬くした。
「身布をはずさねばな」
「みぬの?」
「婚礼衣装の下に巻いただろう、きつく白き布を」
あぁ、あの侍女頭が巻きつけたサラシのことか……。
私がうなづくと、炎鳳はいつもの低く響く声で言った。
「寝所でかんざしをはずし、身布をはずすのは夫の務めだ」
「ふぅん……って、え?」
私は、炎鳳の言葉の意味に気付いて息をのんだ。
身布を夫がはずす……つまり、私に巻かれたあの長いサラシをくるくるくる……とはがすってことですか。
え、でも、ここで?風呂で!?
「あ、あのまさか……」
「なんだ」
「お風呂って二人で入るの!?」
私の声は悲鳴めいたものが混じっていた。
だって、私と炎鳳は抱擁数回の仲。
そりゃ、婚儀をすませたから「夫婦」なんだけど、互いの身体を知っているレベルでいえば、出会いの最初の私の裸を見られたことをのぞけば……布越しにそっと触れる、だけ。
キスもまだ、手をつなぐのもまだ。
そ、それで風呂をご一緒に――……なんて、ハードル高すぎやしませんか!?
「……私と共に入りたくないのか」
その声は、背後から響いた。
低く私の心をえぐるような声だった。
悲痛なものをにじませる声音に驚いて、私は炎鳳の腕の中でぐっと身体をひねり炎鳳の顔をのぞきこんだ。
左頬から右頬にかけて斜めに入った、生々しい傷。
その上にある鋭い双眸、そして太いしっかりとした眉。
いつもなら睨みつけるようにこちらをじっとみる、そらさない強い瞳が……今はなんと……。
――……潤んでいた。
あ、あの……。
「え、えんほう?」
「……さなえ…。共に入りたくないというのか」
名を呼ばれ、私は熊のような大きな炎鳳の身体をよじのぼるようにして、顔をもっと近づけた。
苦しそうに……いや、それは哀しそうというべきなのか、顔をゆがめはじめている炎鳳は、さすがに泣いてはいなかったが、眉は寄せられ懸命に何かをこらえているかのように微かに震えていた。
もちろん私は炎鳳のこんな姿を見たことがなかった。
いつも強く、逞しく、あたたかな……炎鳳。
こんな切ない瞳で見つめてくることなんかなかった。
「私の身体は……たしかに醜い。戦場に長くあり、また治癒に時間をかけるよりかは、次の戦場へと向かう毎日で、無数の傷が全身を覆う。共に入る気にならないのかもしれない…。だが……」
いつも寡黙な炎鳳が、切実な声で訴えてくるその低い声に、私は耳を傾ける。
「夫婦になって風呂が別などと……それはあまりに酷なことではないか…」
――……え、いや、夫婦でお風呂って、そんなにこっちでは重要なんですか!?
私は戸惑いつつも、頭の中で思いめぐらす。
国によって文化は違う。
入浴が盛んで、頻繁に行われる晶国では未婚では大浴場(もちろん性別は分けられている)を使うが、夫婦では露店風呂も入れるようになる(らしい)。
――……あぁ、そうか。36歳にして初婚の炎鳳は露天風呂、初めてだっていうことだ。こちらの国では18歳くらいには結婚するから……
「炎鳳……露天風呂、楽しみにしてたんだね?」
私が確かめるように炎鳳を見上げて尋ねると、炎鳳の頬が一気に上気した。
赤くなる炎鳳なんて初めてみた。
よほど、長い年月、「夫婦で露天風呂」を楽しみにしていたんだな……。
まぁ、お嫁さんが見つからない限り体験できないなら、なおさら期待も憧れも膨らむよね。
「……ごめんね?一緒におふろがそんなに大事なことって知らなかったから……こちらの文化の勉強不足だったの。炎鳳と入るのがいやなわけじゃないんだよ」
「共に入ってくれるのか」
おそるおそるという風に尋ねてくる炎鳳に苦笑する。
好きな人にこんな切ない目で訴えられて拒めるわけがない。
私にとって、順序が違う……手をつなぐよりも、キスよりもお風呂が先っていうのに違和感あっただけで――…まぁ恥ずかしささえのりこえれば入浴くらいできるかもしれない。けっこう風呂釜は広いから、中に浸かってしまえば目のやりばにもこまらないだろうし。
そう思って、私はおずおずと炎鳳に向かって頷いた。
「うん、大丈夫。一緒に入ろう」
そう言い終わらないうちに、がばっと抱きしめられた。
「!」
あ、ちょっと……抗議するまもなく、衣服の紐が解かれる。
ヒラヒラした婚礼衣装は結び紐が少なく、いくつか解かれるだけでハラハラと足元に舞い散っていく。
夜風が頬をかすめ、あらわになった首元や鎖骨にも吹き抜けていく。炎石によってぬくもったのか風呂釜の湯からは湯気がたちのぼりはじめた。
あの大きくてごつごつした炎鳳の手がこんなに器用だとは知らなかった……というくらい、あまりにもすばやく衣装が脱がされて、私はサラシ巻き……炎鳳の言う「身布」に巻かれた状態だけの姿になった。
炎鳳も私を脱がすあいだに自分の衣装の紐もはずしたのか、肌着の薄布姿になっている。
うひゃ……。恥ずかしい。
これは、恥ずかしい。
もちろん結婚するにあたって、覚悟していることはたくさんあった。
異世界ということもあって、念のため、医師にも相談した。こちらの人間の身体や生殖方法と、私がもといた世界と同じかをたしかめ、老医師に産婆を呼んでもらって内診もしてもらったのだ。結果、こちらの女性と外形だけでなく体内の形もほぼ同じということが確認された。生殖方法も妊娠期間や出産の在り方も(医療制度は日本ほど整っていないにしても)人として同様の処置が行われていることも確認して、私が炎鳳の妻となりいつか妊娠するかもしれない、その可能性も考慮した上で……この婚儀にのぞんだのだ。
でも!
まさか、床を共にするよりも風呂……しかも露天風呂とは思わなかった。
炎鳳の前に、サラシをまきつけただけの姿で立つ私は、非常にこころもとない。
目の前の炎鳳は浅黒くたくましい身体をさらけだしていた。薄布で隠れているので、下半身はかろうじてみえないのが、経験なしの私にとって救いというかなんというか……。
「綺麗だな…」
ぽつんと炎鳳はつぶやいた。
見上げると、炎鳳の目は私の全身を見つめているかのようだった。
体中が燃えるように感じる。
いたたまれなくなって私は目を伏せた。
傷痕がいくつものこる、たくましい幹のようながっしりした腕が私の身体に伸びてきた。
そっと身布の上から身体をなぞられる。
なんどか胸から腹のラインを触れるか触れないかの距離でなでられた後、布の端をはずされた。
すっと少し、胸が軽くなる気がした。
実際は何重にも巻かれているので、いっきにゆるむわけはないのだけれど、最初の一重が炎鳳の手によってはずされたのが、私と炎鳳に間にあった距離が縮む合図のようだった。
くるりと炎鳳は器用に布を巻きながら私の身体から身布をはがしてゆく。
一巻き、二巻き……。
はがされるのに合わせて私も回転すれば速いんだろうけれど、それはさすがに恥ずかしく思ったので、私はただ立ちつくす感じですべてを炎鳳にまかせていた。
ぱらりぱらりと私の身体から白い布が巻き取られてゆき、とうとう後、二重ほどというときに、炎鳳の手は止まった。
「髪を洗わねばな」
「え?」
当たり前のように告げた炎鳳の言葉にとまどう私に、炎鳳はそっと腕をのばし、風呂釜横にあった腰かけをよせてきて座らせた。
そして、自分自身は私の背後にまわる。
「目を瞑らないとしみるぞ」
そう声をかけられて、思わず目をつむると、さっきのはがされた身布の一部が私の目にかけられた。
――……えぇ目隠し!?
「え、炎鳳…ど、どうするの?」
視覚を遮られて不安な声を上げた私に、炎鳳は不思議そうな声で聞き返してきた。
「髪を洗うのだ……夫が妻の長き髪を洗うのはしきたりだろう?知らなかったのか?」
……し、しらないわよ!同性しか入ってない浴場しか使ったことないんだし!
私が慌てるまもなく、やわらかな手つきで私の髪を梳かれた。そうして、大きな左手が私の身体を背後に倒すようにする。倒れた背後に炎鳳の胸板を感じ、炎鳳が私を斜め仰向けに抱えているのだということがなんとなくわかる。
そして「湯をかけるぞ」と一声かけられて、あたたかな湯の感触が私の髪をぬらしていった。
日本にいたころ、美容室で男性の美容師さんにシャンプーしてもらうことはそりゃありましたとも。
でも……。
全然ちがうでしょ、このシチェーション。
夫の腕の抱きとめられて、やさしく髪を洗われて……って、すごくなごむ表現な気がするけれど、今の私の心はヒートアップして緊張で線でプツンと切れそう。
節ばった指が私の髪をゆっくりと梳き、頭皮も揉む。
目隠しされているので、触れられているところに鋭敏になってしまって、必要以上に炎鳳の指の動きが生々しく感じられる気がする。
石けんの香りが甘くて鼻をくすぐる。泡越し耳やうなじをなでられると、さわさわと背中がむず痒くなる気がした。
ゆっくりと洗われたあと、何度か湯がかけられながされてゆく。
夜風がときおり通り過ぎ、湯でぬくもった頭を冷やしていくので、ここが外につながっていると気付かされて、余計にはずかしくなってくる。
ところかわればどんな文化やらしきたりやらが待ってるかわからないとはいえ……なんですか、この羞恥プレイ。
洗い終えたとき、私は全速力で100メートル走を何本も走ったかのような脱力感と無理してしまった感がぬぐえなかった。
息をついて、いちおうたずねる。
「炎鳳の髪は、私があらうの……?」
炎鳳はもちろんというように頷いた。けれど、
「それがしきたりだが……無理はしないでよい」
と付け加えた。
こんな風にいわれてしまうと……なんだか、申し訳ない気持ちになってくる。人に髪を洗ってもらうのって、気持ちが良い……と私は思ってる。今のは、気持ち良さを感じる間もなかったけど、緊張で!
私は湯桶をつかみ、炎鳳の腕の間から立ち上がり、炎鳳に座ってもらって少し頭をさげてもらった。
「さなえ……あらってくれるのか?」
うつむきかげんの炎鳳の表情はわからないけれど、声に喜びの色がにじんでいるのを私は聞き逃さなかった。
こういう声をきかされちゃったらなおさら頑張らないわけにはいかない。
私は、
「妻として最初の仕事だね」
と、小さくつぶやいて、そっと湯をくんだ。
ガシガシあらって、湯をながして……。
私には塗ってくれたリンスのような香油は男性はいらないらしくって、肩につくかつかないかの髪を石けんで洗うだけなのは案外すぐにおわった。
ふたりして髪を洗い終わったら、なんとなく……順番として気付くのは、身体なんだけど。
顔をあげて困ってしまう。
炎鳳も目を所在投げにちらちらと動かしているのだから。
――……うろたえた炎鳳を見るときが来るとは…。
そんな姿を可愛いと思う自分が、おかしいのかもしれないけれど。
髪を洗われたことで、羞恥心がマックスを振りきってしまったのか、気持ちがどーんと構えられたのか、私は自分から炎鳳にたずねた。
「次は身体……かな?なにか、夫婦でこなす『しきたり』はあるの?お嫁さんがしなくちゃならないしきたりとか……」
「……」
「黙ってちゃ、わからないよ?」
「あとは互いに身体を洗い、つかるだけだ。ただ…」
「うん?」
「……一糸まとわぬ姿で…とは言われている」
つまり……脱げ、と。
内心、なんでこんな「しきたり」があるのか……と思ったけれど、しきたりに理由がある場合もあればいつのまにか出来たような理由なきものも多いのかもしれない。
「妻の身布をはずすのは……夫の務めだ」
そう炎鳳はすまなさそうな顔で私に言った。
なぜすまなさそうな顔なんてするんだろう……。
私は大きくていかつくて、それなのにこちらをうかがうように私を見つめる炎鳳のその頬にそっと手を伸ばした。
ビクッと炎鳳の巨体が揺れた。
「はずして、いいよ?さっきは勢いよくはずしてたのに、どうしたの?」
私が炎鳳の頬をさすりながら尋ねると、炎鳳はくっと止めていた息をふぅぅと吐きだした。
頬がこころなしか赤く、そして炎鳳の険しい目つきの三白眼の目尻が微妙に潤んでほんのり紅色になっているように思った。
「これからは……戦いだ」
炎鳳はそういった。
「戦い?」
私がわからなくて尋ねると、炎鳳はこちらをじっと見た。
「……自分との……自制心との戦いだ」
「……」
炎鳳の言葉の意味を少し考える。
自制心……つまり、自分の中の欲と戦うということだよね?
お互い裸になるけれど、交わるのは床まで我慢しないといけないっていうことなのかな……。
――……まどろっこしい!最初から普通に床にいって夫婦として向かい合えばいいじゃん!
と、思うけれど、しきたりってまどろこっしいものだよね……と思いなおして、私は炎鳳を見上げてひとまず「がんばってね」と言ってみた。
くるくる……はらり。
最後まではずされた布。
私は一糸まとわぬ姿となった。
炎鳳は目をそらしつつ、身体を洗う布をわたしてくれた。
私は恥ずかしさのあまり彼に背を向けた。彼も背後ですべての布を脱いだようだった。
私と炎鳳は互いに一糸まとわぬ姿になったものの、おたがい背をむけあってそそくさと身体を洗った。
すべてが気恥かしかった。
互いが身体にかける湯音が止まったのを合図に、炎鳳は黙ってこちらを向いた。私も覚悟を決めて、彼に向き合う。
無言の炎鳳は、私をこわれやすいものを扱うかのように、そっと静かに私を抱きあげた。私は咄嗟に彼の首に腕をまわす。
寄りそった彼の傷だらけの身体は、たくましく堅く、女の私の身体とはまったく違うつくりであることがわかった。
炎鳳は、そっと私を抱いたまま湯船のなかにゆっくりと入った。
湯の中で、炎鳳の腕から解放されるかと思ったが、そんなことはなかった。
そのまま抱きとめられたままふたりとも黙ってつかっている。
お風呂ってリラックスするものだと思うんだけど……。
なんのためにこれだけ緊張してふたりでお風呂にいるのかわからない。
……つまり、侍女頭が何度も私に言った
「これが、しきたりでございます」
と、いう「しきたり」をこなしているってことなんでしょうけどね……。
私が身をかたくしたまま炎鳳の腕の中にいると、ぽそりと炎鳳が何かを言った。あまりに小さい声で聞き逃した。
「なぁに?炎鳳?」
私は聞き返してみた。
すると、さっきよりは少しはっきりした声が響いた。
「二人で入るのは……良いものだな」
炎鳳の言葉は柔らかく胸に響いた。
「そう?」
「あぁ、良いものだ。あたたかい。柔らかくて……安らかだ」
「……」
「これが……平和なのだな。さなえの命が平和のかたまりなのだな」
炎鳳はそういって、私を包み込むように抱きしめた。
湯が揺れる。
炎鳳の肩越しに、立ち上る湯気とそのむこうにまたたく星が見えた。
「身体をよくあたためておくれ。そしてもし神のはからいで子を宿すことがあるのであれば、その子もあたためてあげてほしい」
子……。
この後、私と炎鳳が湯から出て何をするのか……ということを漠然と思う。
炎鳳が今、自制という戦いをしているのであれば、この後、床では私は未知の痛みや怖れと戦わないといけないんだろうか。
――……。
このお風呂のしきたりがなんでできたのかはわからないけれども、ここで初めて私は、この夫婦でお風呂のしきたりが良いものだなと思った。
婚儀の後にいっきに怖れがあるよりは、こうやってぬくもりあえる時間があるのは……良いかもしれない。
私は、こわばっていた全身の力をふっと抜いた。
それに答えるかのように、炎鳳の私を抱きしめていた腕のちからも柔らかくなった。
そして、しばらくした後――……。
「でようか……。共に寝所へ」
炎鳳が耳元で囁いた。
*******************
き、きつい――……。
寝床で、私は呻いた。
自分の足の間が自分のものじゃない気がする。
もう激しい痛みはないものの、ひきつるような痺れるような独特のいたみがジンジンと身体に響いてきていた。
鶏の鳴き声がする。
窓の木戸から差し込む光はじょじょに強くなる。
となりでは、炎鳳はすやすやと眠っている。憎たらしいぐらいの熟睡っぷり。
下腹部から足にかけての痛みをやりすごしながら、炎鳳の顔に顔を近づけると、髭がのびはじめていた。
ほっぺたをくっつけるとじょりじょりとした感触。
「ん……さ、なえ…」
重く逞しい腕が私に回される。
まだ半分眠っているのか、私にすりよりつつも息は寝息のような規則正しいものだ。
昨夜、あんなに私を翻弄したこの唇や節ばった指や、そしてこの大きな身体が熱の塊りのように熱く情熱的で時に欲が溢れるように荒々しかったのが夢のようだと思う。たぶんあれでも彼なりに配慮してくれたんだろうとは……思うんだけど。
その時、控え目なノックの音が聞こえた。
小さく返事すると、そっとはいってきたのは侍女頭だった。
この状況で入室するのってどうよ…と思うけれど、これは昨日婚儀の前に聞かされていたことだった。明け方近くに参ります……と。
なぜわざわざ初夜のあけた部屋にくるんだとその時はわからなかったけれど、「必要になりますから」と侍女頭は言っただけだった。
「失礼いたします。床布の取り換えにまいりました」
床布……いわゆるシーツの取り替えの意味することに、赤面する。
たしかに汚れてしまっていた。
「炎鳳さまはまだおやすみで……」
私がそういいかけると、
「いや、起きているぞ。交換をたのむ」
そうはっきりした声が隣から聞こえた。
振り向くと炎鳳の瞳は、寝起きとは思えないような鋭さと明確な意識を持っていた。
歩けない私を炎鳳は抱きあげて、傍らの椅子に座る。
侍女頭はてきぱきと床を整えてくれた。
あまりの恥ずかしさに、これまた顔をあげられない。なぜ炎鳳はこんなに堂々としていられるのかと思う。
すると、床を整え終わった侍女頭が茶器ののったトレーを持ってきた。冷やされた水のグラスもある。
汚れたシーツを取り返させた上にお茶まで持ってこさせてしまったのかと思うと、いくら厳しい侍女頭とはいえ申し訳なくてどんな顔をしていいかわからない。しかも私は炎鳳に抱きかかえれているのだし。
そう所在なげにしていると、侍女頭は私に言った。
「さなえ様、お顔をあげてくださいませ」
「……」
のろのろと顔をあげると侍女頭と目があった。
「ご婚礼おめでとうございます」
「……」
「お茶を…」
あたたかなお茶が、炎鳳にでなく私に差し出された。
「初夜の明けは、旦那様からではなく奥方様からお飲みになってよいのでございます」
「あ…」
「痛みを和らげる香りのお茶です。どうぞ」
「……ありがとう」
受け取ると、熱すぎずぬるすぎないほど良いあたたかさのお茶だった。まろやかな味わいと、包み込むようなやさしい香りが身体のこわばりをとかしてくれるようだった。
私にお茶を渡してくれたあと、炎鳳の分もだしたのち侍女頭は、
「では私はこれで。控えておりますゆえ、何かありましたらお申し付けください」
そう一礼した。
私は、さきほどの心のこもったお茶のお礼をと思って、もういちど「ありがとう」と声をかけた。
顔を上げた、白髪のしゃんと背筋の伸びた侍女頭は、すこし目を細めて微笑んだ。
「代々、これが赤龍家のお嫁さまのしきたりでございます……。御身を大切になさってくださいませ」
そう言って、美しく礼をし、音をたてることなく退出したのだった。
それを見送って私はちょっと息をつく。
「私……結婚したんだね」
「そうだ、我が妻となったのだ」
これからは、あまりお嫁様のしきたりが厳しくないといいなぁ……そんなことを思いながら、私は小さくあくびをした。