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シンガポールのお食事事情 第8章

作者: junju

物語はこれにてお終いです。

いかがでしたか?

また この続きをかきます。


 第8章 ムーンケーキ


「あなた。」

名揚メイヨウがよぶ。

「起きた?少し熱があるね。」

李顕龍りー・シェンロンは妻の額に手をおいた。慣れた手つきで優しく汗を拭く。床擦れをおこすからだ。

「ロン、私もうお薬はいらないわ。頭がぼんやりするの。」

そろそろ午後のモルヒネの時間だ。最近、名揚は薬のせいで眠っていることが多くなった。しかし薬を点滴しなければ激しい痛みがあるはずだ。幻覚や幻聴もある。

「カヤトーストを買ってきて。」

今日も名揚はカヤトーストを買ってこいと言う。しかしもう一口も食べれない。名揚は点滴だけで生かされているのだ。いつも代わりに顕龍が食べることになる。

「メイはカヤトーストが好きだね。僕もカヤジャムの淡い緑は好きだけど毎日は食べれないよ。」

名揚は小さく笑って言った。

「ロンが私の側を離れないから、時々外の空気を吸って欲しいの。ずっと病院でいたら病気になってしまうわ。」

「僕の事なんて心配しないで。」

「私、ロンの事以外もう何も心配することがないわ。もっと一緒にいたかったけどもう無理みたい。ごめんね。意地ばかり張って。こんな事になるならあなたの側で可愛い奥さんをしてればよかった。まだまだ時間が沢山あると思っていたの・・・。顕龍、私が死んでもきっと誰かと幸せになってね。」

名揚はうっすらと笑った。顕龍は涙がこみ上げて来るのをかろうじてこらえた。名揚の前で泣くわけにはいかない。

「あなた・・・最近妙ちゃんの話をしないわね。」

「彼女は6月の終わりに日本に帰ったよ。君にお母さんのことで感謝してた。」

「そう・・・。」

名揚は目を閉じた。眠ったようだ。


 6月の中旬に、突然妙が病院に来た。その時何か言いたそうにしたが、顕龍シェンロンは妙を病院から追い返した。

「妙、病院には来ないようにって言ったよね。」

「ごめんなさい。でもどうしてもロンに聞いて欲しい事があって。」

「悪いね。妻の容体がよくないんだ。また今度ね。」

「分かってる。でも、お願い今聞いて欲しいの。」

「ほんと悪いけど。困るんだ。ここには来ないで欲しい。」

顕龍は珍しく強い調子で言った。いつも穏やかに話すので妙はびくっと体を硬くした。

 まだ名揚が歩けた頃は、何度か妙の母親の事で妙を会わせた事があった。名揚も患者の話になると気力が沸くようだった。そして、妙をとても可愛がった。しかし、名揚がベットから動けなくなってからは会わせてない。妙にも病院に来ないように言ってあった。それなのに今日はいったいどうしたんだろう。

妙は一粒ポロっと涙をこぼしたかと思うと

「ロンのばか。」

と言って病院から駆け去った。


 その頃の妙は、キリニーコピティアムで、顕龍がカヤトーストを買いに来るのを待っているようになっていた。顕龍は最初驚いたが、カフェで妙と話をしていると良い息抜きになった。人の話を聞いている間は名揚の病気の事を考えないで済む。以前の妙は堪えていた気持ちを吐くように母親の事を話した。顕龍も溺れている子犬のような妙をむげにも出来ず何度か名揚に会わせた。名揚のカウンセリングを受けて妙は徐々に落ち着いていった。母親の病気についてもまったく無知であったのが、客観的に見れるようになった。そして、両親が帰国してからは学校の話や、一緒に住み始めたシオという日本の女の子と遊び歩いている話になった。たわいもない話ばかりだが、顕龍は名揚の病状が進行するにつれて妙と会う時間を楽しみにしている自分に気がついた。毎日がつらいほど妙とのなにげない時間が大切になってくる。それは名揚に対する裏切りでは無いだろうか。そんな顕龍の気持ちを見透かしたように名揚はカヤトーストを買ってこいと言う。(もう妙と会うのはやめよう。)顕龍はそう思い始めた。自分の気持ちの中にいつの間にか妙がいる。顕龍はキリニーコピティアムにいくのは妙が学校で来れそうに無い時間帯を選ぶようになった。最後に妙に会ったのはラッフルズホテルだ。妙がどうしてもシオという友達に会って欲しいと頼んだからだ。

 その日もキリニーコピティアムで待ち合わせていた。妙は夏らしいワンピース姿で入り口のガラス扉を押して入ってきた。顕龍は初めそれが妙だとは気づかなかった。妙は南国の日差しを受けてきらきら輝いている。細くて長いばかりの腕や足がすこしふっくらとして、薄い色素の髪や白い肌が妙を繊細で美しい女の姿に変えていた。顕龍は初めて妙を女として見た。体の芯がぐっと堅くなる。そんな自分にとても慌てた。妙はそんな顕龍に気づかないのかいつものようにまとわりついてくる。顕龍はラッフルズホテルでも出来るだけ妙との間に距離を置こうとした。妙の友達は妙と自分の事を誤解して見ているようだ。ちらちらと顕龍の結婚指輪を見ている。妙はエリザベスウオークに行きたいと言い出したが夕方のそこは恋人達の場所だ。(もう妙と会うのはやめよう。)顕龍は今度こそ心に決めた。


妙を病院から追い返してからそろそろ二週間が過ぎる。時々妙の白い腕や首筋が頭の中をよぎることがあった。と同時に名揚に申し訳なく思う。顕龍はそんな自分を情けなく思っていた。そして明日で6月も終わると言う日、再び妙が病院にやってきた。

顕龍はどうして自分が妙に会うのか解らなかった。面会拒絶で受付に断れば済むのに足が勝手に動く。心臓も勝手にドキドキする。顕龍の考えを無視して体が勝手に妙に会いに行った。

面会所で妙はうつむきがちに待っていた。顕龍が部屋に入ってくると弾かれたように立ち上がった。

「よかった。来てくれないかと思った。」

きつい一重の切れ長の目からみるみる涙があふれてくる。妙はまた痩せたみたいだった。ふっくらとした印象が消えて肩やあごの線が尖っている。顕龍はすこしホッとして椅子に座った。

「久しぶりだね。元気だった?」

妙は頭を左右に振った。

「ロン、私、明日日本に帰るんだ。病院に来て迷惑とは思うけどどうしてもさよならを言いたくて。」

「明日帰るの?」

顕龍は言葉が続かない。妙が帰るからほっとしたのか、会えなくなるのが悲しいのか、反対の気持ちが混じり合う。たぶんその両方だ。しばらくお互い何も言わずに時間が過ぎた。顕龍は自分がどうしたいのか解らなかった。こんな曖昧な自分に合ったのは初めてだ。いつも顕龍は自分のやるべき事がはっきりしていた。しばらくして妙が、

「明日帰るから、思い出に抱いて欲しい。」

と言った。妙はいつも顕龍を驚かせる。

「何を言ってるの。おかしな事を言わないでくれ。」

「ロンの気持ちはわからないけど私はロンが好き。」

「僕は結婚している。妻を愛している。」

そうだ、そのとおりだ。でも妙にも惹かれている。だが、それを妙に言うつもりはない。

「ロンが奥さんを愛してるのは知ってるよ。あんなに素敵な人なんだもん。だから私のこと好きでなくてもいい。ただ思い出が欲しいだけ。今、自分がロンのことをすごく好きだったって。」

妙はラグビーボールを抱えてタックルするみたいに顕龍に真っすくにぶつかって来た。誤魔化しはできない。顕龍は喉にひっかかったようにポツポツ言った。

「たぶん、僕は・・妙のこと好きだよ。とても気になってる。だからそんな自分が許せない。君と何かしたら僕は心底自分が嫌になるだろう。もう勘弁してくれ。」

突然妙は立ち上がってテーブル越しに顕龍にキスをした。驚いて体を引こうとする顕龍の首に長い腕を巻き付けて唇を押し当ててきた。ほの甘いアズキの味がする。ここに来る前にアイスカチャンを食べたんだろう。顕龍はそんなことを考えてつき上げてくる衝動をこらえた。


 名揚が悪性リンパ腫を発症してそろそろ一年になる。最初ほとんど自覚がなかったが、腕の付け根にコロコロとした固まりが出来た。悪い予感がして精密検査を受けると血液のガンだった。

「何故私が病気にならないといけないの。」

百万遍、繰り返して自問自答した。でも理由なんてわからない。ただガンになった。それ以上でもないし、それ以下でもない。わかっているのはもうすぐ死ぬことだけ。

だんだん躰が衰弱するにつれて死ぬことも特別の事ではなくて今日の続きの事のように感じる。境目がはっきりしない。ただ、顕龍が心配だった。


 顕龍は主治医から名揚が中秋節を越えられないと言われていた。すでに名揚には今できる全ての治療を終えてしまったからだ。

 去年の中秋節は、家族みんなで賑やかに祝った。父の李光耀は、早く孫を授かるようにと祈っていた。顕龍には国の為に努力しろと言った。その時、自分はいったい月に何を願ったんだろう。いつか子供が出来たら、名揚と過ごした英国の湖水地方の春を見せてやりたいと願ったかも知れない。しかしどれもかなわない夢になってしまった。名揚がずっと健康でいるように祈っておけばよかった。中秋節の為に取った休暇はそのまま休学になってしまった。

 顕龍は李光耀の後継者として早くから厳しい帝王学を受けてきた。ロシア語・マレー語・北京語・英語の4カ国語を話し、シンガポール陸軍に入隊後ケンブリッジ大学に留学、その後ハーバード大で国際政治学を学んでいる。妻の黄名揚とはケンブリッジ大で知り合い、お互い学生だったが、無理をして結婚した。国に帰れば自分の気持ちとは違う結婚を進められるのではないかと思ったからだ。しかし結婚後、名揚は精神科の医師としてシンガポールで働き出したので、お互い忙しくすれ違う事も多かった。相手が何を考えているのかわからなくなってしまった時期もあった。名揚が発病しなければ自分はまだ米国でいただろう。こんなにゆっくりと妻と過ごす事もなかった。この一年、顕龍は今まで名揚の側にいれなかった時間を埋めるように看病した。


 以前から、名揚は顕龍に内緒で顕龍の身辺を監視していた。シンガポールに残り、今まで寂しいと思うことは幾度もあったが、自分にはプライドがあった。医師としての仕事もあったので顕龍について米国に行くことは出来なかった。愚かな女と思われたくなかったので米国に行かないでとも言えなかった。ただ顕龍が米国でどんな生活をしているかどうしても知りたかったのだ。恥ずかしい事とは思ったが、自分が愛されている自信がなかった。だが、初めて女の影が報告されたのは意外にも顕龍がシンガポールに帰国してからだった。その頃の名揚は、自分のガンは治らない、時間もあまりないと医者として確信していた。そんな時に痩せた日本人学生の話を聞いた。皮肉だ。

昨年、再検査を受けた後、名揚は顕龍にこう聞こうと思っていた。心がささくれ立っている。

「私が病気になったから恋人を作ったの?」

名揚が今日こそ聞こうとしたとき顕龍がいった。

「メイ。君に相談があるんだが。」

「なにかしら。」

「僕、クス島で日本人の女の子と知り合いになってね、君の意見を聞いてやるって言ってしまったんだ。」

「私の意見?クス島?」

「うん。君の専門分野の話さ。その子の母親が鬱病みたいなんだ。」

「私の為にクス島に行ってくれたの?」

「そう。このところ君の体調が悪いみたいだから、クス島に行ってみたんだ。検査の結果が問題ないようにってね。」

「まあ。」

「ガンの再検査ってなんだか怖くなってね。」

「いくじなしね。」

「そうさ。僕が意気地なしなのを知っているのは君だけだけどね。」

顕龍に女が出来たと言うのは間違いのようだ。名揚は聞いてみた。

「その日本人の女の子は可愛いの?」

顕龍は「うーん。」と言って考え込んでいる。

「そうだなあ。見方によるなあ。なんか危ないんだなあ。ガリガリに痩せていて男の子みたいだよ。その子もお母さんの為にクス島に行ったらしいけど、フェーリーからじっと海の中をみていたよ。僕は飛び込むんじゃないかと思って、声をかけたけど、その後、島で気絶してびっくりした。帰りのフェリーでも気絶したまま吐き続けたよ。その子も君の患者じゃないかなあ。」

顕龍は名揚が何故聞いたかも気づかず律儀に答える。

名揚は、顕龍を疑って悪かったと思った。


 それからもう一年も経ってしまった。時間がない。顕龍の為にいったい自分は何ができるだろう。

 名揚は、ランタンの明かりが美しい中秋節ムーンケーキフェスティバルのカードに航空券を添えて日本に送るようメイドに頼んだ。中秋節は中国人が家族で祝うお祭りである。でも今年の中秋節の頃には顕龍は一人になっているだろう。


 親愛なる 妙


 元気ですか。その後、お母さんの体調はいかがですか?

顕龍から妙が日本に帰ったと聞きとてもさびしかったわ。

ずいぶん急な帰国だったのね。でも、妙が帰ってご両親もほっとされた事でしょう。

お母さんはちょうど体の変化する年齢です。妙が日本に帰ればきっと良くなっていくと思います。焦らずにゆっくり見守ってあげてください。

 ところで妙、久しぶりにシンガポールに遊びに来ませんか?もうすぐ中秋節です。シンガポールの町がいっそうきれいになるわよ。それに私、最近何も食べられなくて、私の代わりにロンとムーンケーキ(月餅)を食べてやって欲しいの。無理を言ってごめんなさいね。  

それでは、また。お会いすることを楽しみにしています。                      黄名揚         


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