結婚式で「誓います」と言ったのに、祝福の鐘が鳴りませんでした
この国では、結婚する二人が心から誓いを立てると、教会の鐘が鳴る。
誰かがひもを引くわけではない。風が吹いているわけでもない。ただ、神の前で二人の言葉に偽りがなければ、塔の一番上にある銀の鐘が、一度だけ澄んだ音を響かせるのだ。
だから結婚式で鐘が鳴らないことなど、めったにない。
少なくとも私は、自分の結婚式で鳴らないとは思っていなかった。
「アリシア・ベルフォード。私はあなたを妻とし、生涯大切にすると誓います」
向かいに立つエドガーが、まっすぐ私を見つめてそう言った。
幼いころから知っている顔だった。黒い髪も、少し緊張すると右の眉がわずかに上がるところも、何度も見てきた。
私たちは十六歳で婚約して、今日で二十二歳になる。
六年。
短くはない。
私は白い手袋を重ねた手を胸の前で組み、ゆっくり息を吸った。
「私、アリシア・ベルフォードも、エドガー・レインを夫とし、生涯あなたを愛し、支えることを誓います」
司祭が微笑んだ。
参列している人々も、自然と塔の方へ目を向ける。
私も待った。
一秒。
二秒。
三秒。
鐘は鳴らなかった。
静かだった。
広い教会の中には、誰かが息を飲む音まで聞こえそうなほどの静けさが広がっていた。
「……あら?」
思わず声が出た。
隣でエドガーも、同じように塔を見上げていた。
「鳴らないな」
「そうですね」
「もう少し待つものだったか?」
「結婚式に遅刻する鐘という話は、聞いたことがありませんけれど」
私がそう返すと、前に立つ司祭が困ったようにせきをした。
「お二人とも、少しお待ちください。まれではありますが、鐘がすぐに反応しないことも……」
「あるのですか?」
「いえ、私は見たことがありません」
では、ないのでは。
そう思ったが、口には出さなかった。
参列席がざわめき始めた。
当然だ。
王都の大教会で、侯爵家同士の結婚式をしている。その新郎新婦が誓いの言葉を口にしたのに、祝福の鐘が鳴らなかったのだ。
この鐘は、言葉の真偽を確かめる道具ではない。
たとえば「私は浮気をしません」と言えば、嘘を見抜いて鳴らない、というものではないらしい。
ただ、結婚する二人が本気でその誓いを信じている時にだけ鳴る。
だから鳴らない場合、どちらか、あるいは二人ともが、今口にした誓いを心の底では信じていないということになる。
私はエドガーを見た。
エドガーも私を見た。
「アリシア」
「はい」
「俺は浮気していない」
「私もしておりません」
「好きな男がいるわけでも?」
「いません。エドガーは?」
「いない」
「男性も?」
「なぜ広げた?」
「念のためです」
「いない」
少しだけ笑いが起きた。
参列者の何人かが、すぐに口元を押さえた。
場を和ませるつもりはなかったのだが、少なくとも息苦しさは少し消えた。
けれど鐘は、まだ鳴らなかった。
司祭が少し考えてから言った。
「もう一度、誓いを立ててみましょう。言葉を間違えた可能性もございます」
「間違えてはおりません」
「私も覚えております」
「ですが、念のために」
仕方なく、エドガーがもう一度私の手を取った。
「アリシア。私はあなたを妻とし、生涯大切にすると誓います」
声は落ち着いていた。
迷いも感じない。
続いて私も言う。
「私も、あなたを夫とし、生涯愛し、支えることを誓います」
また待つ。
鳴らない。
今度はさすがに、私の母が参列席で立ち上がった。
「どういうことですの?」
「母上、少し落ち着いてください」
「これが落ち着いていられますか。アリシア、あなた何か隠しているの?」
「何も隠しておりません」
「ではエドガー様が?」
今度はエドガーの母が立ち上がった。
「うちの息子が何かしたとおっしゃりたいのですか?」
「鐘が鳴っていないのですから、どちらかに何かあるのでしょう」
「それならアリシア様の可能性もございますでしょう」
「まあ!」
「母上」
「お母様」
私とエドガーの声が重なった。
六年も婚約していたせいか、こういう時だけは息が合う。
「少し二人で話します」
エドガーがそう言うと、司祭もすぐにうなずいた。
「それがよろしいでしょう。控え室をお使いください。鐘については、私どもでも確認しておきます」
確認して直るものなのだろうか。
少なくとも、鐘が壊れていたという結論になれば一番平和だった。
けれど私は、たぶん違うだろうと思っていた。
控え室に入るなり、エドガーは椅子に座って深く息を吐いた。
「どうする?」
「どうすると言われましても。鐘にお願いして鳴っていただくわけにもいきませんし、まずは原因を考えるしかないでしょう」
「君は冷静だな」
「今さら泣いても鳴りませんもの」
「それもそうだ」
エドガーは少し笑った。
私も向かいに座る。
しばらく二人で黙っていた。
六年も一緒にいて、何度も二人きりになったことはあるのに、今日ほど何を話せばいいか困ったことはなかった。
「まず確認しましょう」
「何を?」
「あなた、本当に私と結婚したいの?」
エドガーが目を見開いた。
「したい」
「すぐ答えましたね」
「そこは迷うところじゃないだろう。だから今日ここにいるんだ」
「家が決めたから、ということではなく?」
「最初はそうだった。でも今は違う。俺は君と結婚したい」
彼の声に迷いはなかった。
それを聞いて、胸の中にあった固いものが少しだけほどけた。
「では私も同じです。エドガーと結婚したいと思っています」
「それなら、何が嘘なんだ?」
「分かりません」
私たちはさっきの誓いを思い返した。
彼は「生涯大切にする」。
私は「生涯愛し、支える」。
どれも結婚式では普通に使われる言葉だ。
「大切にする、か」
エドガーがぽつりと言った。
「何か引っかかります?」
「いや。ただ……大切にできるのかなと思って」
「私を?」
「ああ」
私は思わず眉を寄せた。
「それは、どういう意味でしょう。大切にしたくないということですか?」
「違う。逆だ」
エドガーは少し困った顔をした。
「大切にしたい。でも、一生できると本当に言い切っていいのかと思った」
「なぜ?」
しばらく彼は答えなかった。
やがて、ゆっくり口を開いた。
「父を見て育ったからかもしれない」
エドガーの父は、三年前に亡くなっている。
私も何度か会ったことがあった。厳しい人ではあったが、家族にはきちんとしているように見えた。
「父は母を愛していたと思う。少なくとも若いころは。でも年を取って、領地が苦しくなってからは、母に当たることが増えた。怒鳴ったり、何日も口を利かなかったり、母の意見を聞かなくなった」
私は黙って聞いた。
「母はそれでも『お父様は私を大切にしてくださっている』と言っていた。でも俺には、そうは見えなかった」
「……」
「俺も父に似ているところがある。仕事がうまくいかないと、機嫌が悪くなる。追い詰められると、一人で抱え込む。だから今日、『生涯大切にする』と言った時、少し思ったんだ」
エドガーは自分の手を見る。
「俺は本当に、ずっとそうできるのかって」
私はそこで、ようやく少し納得した。
「では、鐘が鳴らなかった原因はあなたですわね」
「ひどいな」
「事実でしょう?」
「そうかもしれない。でも君だって鳴らなかったんだから、無関係ではないだろう」
その言葉に、今度は私が黙った。
確かにそうだ。
もし私だけが誓いを心から信じていたなら、鐘がどう反応するのかは知らない。
ただ、何となく分かる。
私にも何かある。
「私は……」
口に出そうとして、止まった。
「愛していない?」
「それは違います」
「なら支えたくない?」
「それも違います」
「じゃあ何だ?」
私は膝の上で手を組み直した。
「一生、という言葉かもしれません」
「俺と同じ?」
「少し違うと思います」
考えながら話す。
「私はエドガーを愛しています。たぶん、今は。それに結婚した後も、できる限り支えたいと思っています。でも『生涯愛します』と言った時、少しだけ変だと思ったのです」
「変?」
「十年後、二十年後の私が何を考えているかなんて、今の私には分かりません」
自分で言葉にして、初めてはっきりした。
「エドガーが変わるかもしれない。私も変わるかもしれない。大きなけんかをするかもしれませんし、ひどく傷つけ合うこともあるかもしれません。そんな未来を何も知らない今の私が、『一生愛します』と断言することに、少しだけためらいがあったのだと思います」
エドガーはしばらく黙っていた。
「それ、結婚式で言って大丈夫なことか?」
「大丈夫ではない気がします」
「正直だな」
「今日くらいは正直にしておいた方がよろしいでしょう。鐘が鳴りませんから」
「確かに」
二人で少し笑った。
けれど、笑っているうちに私は思った。
私たちは今まで、こういう話をしたことがなかった。
結婚後はどの屋敷に住むか。
領地の仕事をどう分けるか。
子どもは何人ほしいか。
夜会へどの程度出るか。
そういう話はたくさんしてきた。
でも、
「愛し続けられるか不安だ」
「良い夫になれる自信がない」
そんな話は、一度もしていない。
「エドガー」
「何?」
「私たち、結婚についてはたくさん話しましたけれど、夫婦になることについては、あまり話していなかったのかもしれません」
「どう違う?」
「結婚式や家のことは話しました。でも、けんかをした時にどうするかとか、嫌なことをどう伝えるかとか、そういう話はしたことがありません」
「確かに」
「私、あなたが機嫌の悪い日にどう接したらいいのか、知りません」
「俺も、君が怒った時どうなるか知らない」
「怒りますよ、私」
「知ってる。静かになる」
「それはまだ怒っていない時です」
「もっと上があるのか」
「あります」
「怖いな」
「今日知れて良かったですね」
エドガーが笑った。
その笑い方を見て、私は少しだけ肩の力が抜けた。
「じゃあ、どうする?」
「誓いを変えません?」
「変えていいものなのか?」
「司祭様に聞いてみましょう」
私たちは控え室を出て、司祭に事情を話した。
最初、司祭はかなり驚いていた。
「一生愛するとは誓えない、と」
「今この場で未来まで分かるとは思えませんので」
「ですが、結婚の誓いとはそういうものでは……」
「できるか分からないことを、できると言っても鐘が鳴らなかったのでしょう?」
そう言うと、司祭は黙った。
エドガーが横から助け船を出す。
「形を変えたいのです。結婚する意思はあります。ただ、できない約束を立派な言葉で飾るより、俺たちが本当に守れると思うことを誓いたい」
司祭はしばらく考えた。
「前例はございません」
「でしたら、今日が最初になりますね」
私が言うと、司祭は困ったように笑った。
「ベルフォード侯爵令嬢は、昔からこういう方でしたか?」
「今日ほどではありません」
「エドガー」
「事実だろ」
結局、司祭は許してくれた。
参列者たちの前へ戻る。
両家の母親は、まだ少し不安そうな顔をしていた。
「原因は分かったの?」
母が聞く。
「たぶん」
「どちらだったの?」
「二人ともです」
母はますます不安そうになった。
しかし私は、さっきまでよりずっと落ち着いていた。
もう一度、祭壇の前に立つ。
エドガーと向かい合う。
今度は、決められた誓いの文は使わない。
先に私が話すことにした。
「エドガー」
「ああ」
「私は、あなたを一生愛すると約束することはできません」
参列席がざわめいた。
母の顔が見えた。
ものすごい顔をしていた。
あとで怒られる。
でも今は続ける。
「十年後も二十年後も、私たちが今と同じ気持ちでいるかは分かりません。けんかをするでしょうし、嫌になる日もあると思います」
エドガーは黙って聞いている。
「でも、分からないことを勝手に決めないと誓います。怒っているなら怒っていると言います。嫌なことは嫌だと言います。あなたの気持ちも、私が勝手に想像せずに聞きます」
少しだけ息を吸った。
「そして明日もあなたと一緒にいたいと思えたなら、私は明日もあなたの妻でいます。その次の日も、その次の日も、自分で選び続けます」
教会は静かだった。
鐘はまだ鳴らない。
次はエドガーだった。
「俺も、君を一生幸せにすると約束するのはやめる」
今度はエドガーの母が目を見開いた。
「君が何を幸せだと思うか、俺が全部分かるとは思わない。俺自身、これから先ずっと良い夫でいられる自信もない」
少し間を置く。
「だから、うまくできない時に隠さないと誓う。余裕がなくなったら余裕がないと言う。君のためだと言って、君の望んでいないことを勝手に決めない」
エドガーが私の手を取った。
「それでも俺は、今日、君と夫婦になりたい」
胸の奥が熱くなった。
「私もです」
その瞬間だった。
ごおん、と。
大きく、澄んだ音が教会いっぱいに響いた。
誰もひもを引いていない。
風も吹いていない。
それでも塔の上で、銀の鐘が鳴っていた。
一度。
長く、遠くまで届くような音だった。
静かになったあと、誰かが拍手をした。
次の瞬間には、教会全体から拍手と笑い声が上がった。
母は泣いていた。
エドガーの母も泣いていた。
司祭まで目元を押さえている。
「ずいぶん時間のかかる祝福でしたね」
私が言うと、エドガーが笑った。
「俺たちが時間をかけたんだろ」
「六年も婚約していたのに」
「六年かけて、今日ようやく夫婦になる話をした」
「そう考えると、少し遅いですね」
「でも間に合った」
それはそうだった。
結婚してから、私たちは何度もけんかをした。
最初の大げんかは、三か月後だった。
エドガーが仕事で疲れているからと、夕食を三日続けて別々に取った時だ。
私は四日目に言った。
「一人になりたいならそう言ってください。私に気を使っているふりをして逃げるのは嫌です」
エドガーは少しむっとした顔をしたあと、
「今日は誰とも話したくないくらい疲れてる。でも明日の朝は一緒に食べたい」
と答えた。
「分かりました。では今夜は一人でどうぞ」
それで終わった。
半年後には、今度は私が領地の仕事で無理をしすぎた。
エドガーが止めようとしたので、
「私のためと言って仕事を取り上げないでください」
と怒った。
彼は一度口を閉じてから、
「じゃあ聞く。どうしてほしい?」
と言った。
「仕事を減らすのではなく、手伝ってください」
「分かった」
そうして二人で書類を片づけた。
たぶん、これからもこうなのだろう。
私たちは一度誓っただけで、完璧な夫婦になったわけではない。
今日できたことが、明日もできる保証もない。
それでも結婚記念日になると、私たちは毎年あの教会へ行く。
鐘を鳴らしてもらうためではない。
あの日の鐘は、結婚式で一度鳴ったきりだ。
十年目の結婚記念日。
教会を出たところで、エドガーが私に聞いた。
「アリシア」
「はい」
「明日も俺の妻でいてくれる?」
私は少し考えるふりをした。
「今日の夕食次第ですね」
「そんなに重要なのか?」
「もちろんです。あなた、昨日から魚料理ばかりでしょう。私はお肉が食べたいと申し上げました」
「分かった。肉にする」
「では、明日も考えて差し上げます」
「結婚十年目でも厳しいな」
「あなたこそ、毎年聞くではありませんか」
エドガーは笑った。
「だって、一生分は約束してもらってないからな」
「そうでしたね」
私も笑った。
塔の上の鐘は鳴らなかった。
もう、それでいい。
あの日鳴った鐘は、「永遠に変わらない」と祝福したのではなかったのだと思う。
明日も一緒にいるかどうかを、明日また二人で選ぶ。
私たちが誓ったのは、そのために話すことだった。
「では帰りましょうか」
「ああ。肉を買って帰ろう」
「忘れたら?」
「その時はちゃんと謝る」
「よろしい」
私たちは並んで教会の階段を下りた。
背後では、銀の鐘が夕日に照らされていた。
今日は鳴らない。
鳴らなくても、私たちは同じ道を帰っていった。




