第9話 初めて選ぶ自分の力
小国ヴァルナートの国境近くに、不穏な気配が流れ始めたのは早春の頃だった。
「隣国ゼルファルトの軍が動いているらしい」
「いやだよ、また戦になるのか? 前に攻め込まれたときは、男衆が何人も戻らなかったって……」
村の広場では連日そんな声が飛び交い、皆が不安げに空を見上げていた。
(戦争……)
リリアーナは心臓がぎゅっと掴まれるような思いがした。
都にいた頃は遠い話だった戦の噂が、今は自分が暮らすこの村を覆おうとしている。
数日後、ヴァルナートの国境伯家から、再び使節団が村にやってきた。
あのルディオが先頭に立ち、深刻な表情をしていた。
「皆さん……失礼します。村の長を、そしてリリアーナ殿にも話さねばなりません」
老女やハル、村の主要な人々が集まる中、リリアーナもミーナと並んで話を聞いた。
「隣国ゼルファルトは、すでに国境沿いに五千の兵を集めました。こちらの兵は千にも満たず、まともに衝突すれば蹂躙される恐れがあります」
広場がざわめく。
「ですが……」
ルディオはそこで視線をリリアーナに向けた。
「噂はすでに我々だけではなく、ゼルファルトにも届いています。『ヴァルナートの村に神の奇跡を操る巫女がいる』と」
リリアーナは思わず息を詰めた。
「それは……」
「誇張された話でしょうが、それでも敵国は慎重になっている。彼らはまず恐れています。あなたがどんな存在か、まだ見極めかねているのです」
ルディオは静かに頭を下げた。
「お願いです。リリアーナ殿、どうか村と国境を守るため、前に立っていただけませんか」
(私が……前に……?)
リリアーナは震える指先を胸に当てた。
かつて都で過ごした自分なら、到底考えられなかったことだ。
ただ家の中で、家族の決めた道を歩かされていただけの人形のような存在。
でも今は──
思い出すのは、畑を耕すハルの大きな背中。
羊飼いの夫妻の笑顔。
泣きながら「ありがとう」と言ってくれた病気の子ども。
自分をただ「役に立つから」ではなく、ひとりの人間として受け入れてくれた村人たち。
(私の力は、あの人たちのためにある……)
夜、ミーナがそっとお茶を差し出した。
「……お嬢様、どうか思い悩まないでください。決めるのはお嬢様です」
「……ううん、もう決めたの。私、この村を守りたい。この村に生きる人たちを、失いたくないの」
ミーナは瞳を潤ませながら、リリアーナの手をそっと取った。
「きっと、お嬢様ならできます。今までだって、たくさんの命を救ってきたじゃありませんか」
(今度は……自覚してやるの。あのときのように無意識じゃない。私の意志で、この力を使うの)
翌朝、村の広場には国境伯軍の指揮官や兵士、村人たちが集まっていた。
国境沿いで軍を見せつけることで隣国を牽制しようというのだが、恐怖の色は隠せない。
リリアーナは深呼吸をして、一歩前に出た。
「私に……やらせてください。この村を守るために、国境に立たせてください」
ルディオが息を詰め、そして深く頭を下げた。
「……感謝します。あなたのその決意が、この国の命を救います」
その日、リリアーナは国境の丘に立った。
数百メートル先には、ゼルファルトの軍勢が鎧をきらめかせ並び立つのが見える。
その威圧感に脚が震えそうになったが、リリアーナはぎゅっと拳を握った。
(私、もう逃げない……)
そっと地面に膝をつき、目を閉じた。
(この地を、これ以上苦しませないで。争いが生まれないように。私が……私たちの村が、穏やかでいられるように)
胸の奥に溜まっていた温かなものが、一気に広がる。
途端に風が柔らかくなり、木々がそよぐ音が優しく響き渡った。
小さな光の粒がリリアーナの周囲に浮かび上がる。
それはまるで春先の花びらのように舞い、丘を包む。
ゼルファルト軍の兵たちが、遠くでざわめいた。
次の瞬間、彼らの陣営の馬たちが一斉に嘶き、恐怖に駆られたように後退し始めた。
風はその陣営の中を通り抜けると、突如として花々が咲き誇る幻影を見せ、敵の兵士たちを戸惑わせた。
彼らは武器を構えたまま立ち尽くし、やがて次々に剣を下ろした。
指揮官らしき男が混乱の中で叫び声を上げたが、兵たちは誰も動かなかった。
やがて、軍全体がずるずると退き始める。
決定的な戦意の喪失だった。
「……追い返した……いや、何もしてないのに……」
ハルがぽかんとした顔で呟く。
羊飼いの女性は涙ぐみながらリリアーナを見つめた。
「リリアーナさん……あんたが守ってくれたんだね……」
その声に、リリアーナはふっと笑った。
「私一人じゃないわ。みんながこの村を大事にしてきたから。だからこの村を守る“力”が、きっと私を通して動いてくれたの」
村へ戻る道中、ミーナがそっと耳元で囁いた。
「お嬢様……とても綺麗でした。あの光の中に立つお嬢様を見て、涙が出ました」
「……ありがとう、ミーナ。私、自分の力が初めて怖くなかった」
「そうでしょう。お嬢様は、誰かを傷つけるためじゃなくて、守るためにこの力を使うと決めたからですよ」
胸がじんと熱くなる。
(ああ……私はこれまでこの力を怖がっていた。でももう違う。これからは自分で選んで、この村を、この国を守っていくんだ)
丘を振り返ると、そこにはまだ小さな光の粒が残り、風に乗って優しく舞っていた。