第8話 遅すぎた手のひら返し
それは、あまりに静かな朝だった。
鳥が木々でさえずり、子どもたちが広場を駆け回る。
村はすっかりリリアーナを受け入れ、彼女自身も毎日畑に立ち、村人と笑い合うことが当たり前になっていた。
(もう、あの頃の私じゃない……)
そう思えた矢先だった。
村の見張りをしている青年が慌ただしく駆け込んできた。
「おい、リリアーナさん! また立派な馬車が来た! 今度は国境伯家の紋章じゃない、大国──お前さんの国のものだ!」
血の気が引くのが分かった。
(まさか……)
震える指先をそっと握りしめる。
それを見たミーナがそっと手を重ねた。
「大丈夫です、お嬢様。もう誰も、お嬢様を勝手にどこかへ連れて行ったりはさせません」
数十分もしないうちに、立派すぎる馬車が村へ入ってきた。
護衛の兵士が十数人、馬に跨り剣を光らせる。
貴族の到着を知らせるかのように、家紋が刺繍された旗がはためいていた。
やがて馬車の扉が開く。
そこから降り立ったのは、見覚えのある顔だった。
「……お父様……兄様……」
声がかすれた。
さらにその後ろからは、見間違えるはずもない人物が降りてくる。
「ユリウス……様……」
リリアーナの元婚約者。
かつて自分を「平民以下」と切り捨て、嘲笑いながら婚約を破棄した男だった。
彼らの視線が自分に注がれると、胸の奥が嫌な痛みで軋む。
公爵家当主である父は、しばらくリリアーナを見つめ、少しだけ表情を曇らせた。
「……リリアーナ。よくここにいたな」
それだけで胸が痛くなる。
あの日、冷たく「お前なんかいらない」と言い放ったのは、他でもないこの人だった。
けれど次の瞬間、父は驚くほど柔らかい声を出した。
「戻ってこないか。公爵家はやはり、お前が必要だ」
「え……?」
頭が真っ白になった。
父の口から出るはずのなかった言葉に、何が起こっているのか理解できない。
続いて、兄も一歩進み出て口を開く。
「正直に言おう。お前がこの村で数々の奇跡を起こしていると聞いて、我々も目を疑った。魔力量計測ではゼロだったはずの娘が、国を揺るがす存在になるなど……思いもしなかった」
兄の声はどこか悔しげだった。
けれど次の言葉にはしっかりとした下心がにじむ。
「公爵家に戻れば、その力は正式に家のものとなり、大国での立場も磐石になる。婚約の話も、もう一度進めることができる」
「待ってくれ」
被せるように声をあげたのは、元婚約者のユリウスだった。
「リリアーナ……いや、リリアーナ様。あのときは……本当に申し訳なかった」
顔を引きつらせながら、懸命に下手に出るその姿は、あの頃の尊大さは微塵もない。
「私が軽率だった。君がこれほどの奇跡を起こせる人だったとは……いや、能力など関係ない。君はいつも気高く、美しかった……。もう一度、婚約をやり直そう。私と一緒に国へ帰ろう」
(……)
耳鳴りがした。
あの日、婚約破棄の席で「平民以下」と吐き捨てた冷たい声を、リリアーナは一生忘れられない。
広場の隅では村人たちが不安そうに見守っていた。
ハルが大きな体を少し前に出し、子どもたちを背中に隠すようにしている。
老女は唇を結び、そっとリリアーナに目で「大丈夫かい」と送ってくれていた。
(私は……)
リリアーナはそっと胸に手を当てた。
この村で流した涙、この村でかけてもらった温かい言葉。
病の子を救ったときの小さな手の温もり。
どれも貴族の屋敷で得たものではなかった。
「……申し訳ありません。私は……もう公爵家には戻りません」
父の瞳が大きく見開かれた。
兄の顔はあからさまに歪み、ユリウスが慌てて言葉を継ぐ。
「そ、そんな……リリアーナ様、どうか考え直してくれ。私は……私はあのとき間違っていた! 私には君が必要だ。いや、我々の国には君が必要なんだ!」
「違います」
リリアーナはきっぱりと言った。
「私が必要なのはこの村です。そして、私にとって大切なのもここなんです。力があるからではありません。ここで私は、やっと誰かに必要とされて生きていけるから」
その瞬間、村のあちこちから声が上がった。
「そうだ! リリアーナさんはこの村の人だ!」
「勝手に連れて行かせるもんか!」
「もうあんたらに泣かされる顔なんざ見たくねえよ!」
ハルが大きな声を張り上げ、老女が「お前たちにこの子を渡すもんか」と杖を握りしめた。
公爵家の者たちは一瞬言葉を失い、顔を赤くして睨みつけた。
けれど村人たちの数は多く、その瞳は揺らがない。
「……覚えていろよ、リリアーナ。いつまでも、我々の手が届かぬと思うな」
父が吐き捨てるように言い、兄は悔しそうに唇を噛んだ。
ユリウスは最後まで何か言いたげに手を伸ばしてきたが、リリアーナはその視線を静かに拒絶した。
やがて彼らの馬車が去っていき、砂煙が静まる。
リリアーナはようやく張り詰めていた息を吐いた。
その瞬間、ハルが大きな手でぽんと肩を叩く。
「言ってくれたな、リリアーナさん。やっぱりあんたはこの村の女だ!」
「わしも涙が出るところだったよ……。よく言ったねえ!」
老女がぐっと目元を拭う。
子どもたちは笑顔で飛びついてきて「お姉ちゃん、よかった!」と口々に言う。
(私、本当にここにいていいんだ……)
泣きそうになって顔を俯けると、ミーナがそっと背中を抱いてくれた。
夜、家の小さな窓から月を見上げる。
(きっとこれで終わりじゃない。あの人たちはまた私を求めるでしょう。力を、いや、この奇跡を……)
それでも、怖くはなかった。
どんなに国が自分を求めようと、ここには自分を守ってくれる人がいる。
(私にはこの村がある。そして、この村のためなら……私はこの力を使う)
月は優しく輝き、その光はまるでリリアーナの決意をそっと照らしてくれているようだった。