第7話 噂が国境を越えて
村に流れる空気が、少しずつ変わり始めたのは、あの病が収まってからだった。
「リリアーナさんがいると、どうも畑の出来がいい」
「去年はもっと害虫に悩まされたのに、今年は見かけないな」
「病気の子どもがすぐ元気になるなんて、あの人はきっと村に福を呼んでくれてるんだ」
噂はあっという間に近隣の村々へ伝わり、さらには国境沿いを守る小国の兵士たちの耳にも届いた。
ある日、村の広場で収穫の選別を手伝っていると、見慣れぬ立派な馬に乗った一団が村へ入ってくるのが見えた。
剣を腰に下げ、胸には小国ヴァルナートの紋章が刻まれたプレートを付けている。
(……兵士?)
リリアーナは息を呑んだ。
思わず手に持った籠を落としそうになり、傍らのミーナがそっと支える。
「お嬢様、大丈夫です。顔を上げてください」
そう言われても、不安は消えなかった。
公爵家の令嬢として生きていた頃、貴族や軍の使節が屋敷にやってくるたび、父はいつも緊張し、少しでも非礼があれば罰を恐れていた。
(ここには私しかいない。村に何かあったら……)
兵士たちに先導されて馬から下りてきたのは、一人の青年だった。
まだ二十代半ばほどだろうか。背筋が伸び、涼やかな灰色の瞳を持つ。
その瞳が村を見渡し、そしてリリアーナを見つけると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「この村に、最近不思議な癒しの力を持つ女性が住んでいると聞きました」
周囲の村人たちはどこか緊張した面持ちで、視線をリリアーナに向けた。
「わ、私です……けれど、私は何者でもありません。ただ、この村に住んでいるだけで……」
リリアーナの声はわずかに震えていた。
それでも目を逸らさず、青年の視線を受け止める。
青年は少しだけ目を細め、それから柔らかく口を開いた。
「失礼しました。私はヴァルナート国境伯家の使いで、ルディオ・グランツと申します。この辺りで疫病が不思議に収まったと報告を受け、調査に参りました。決して脅しに来たのではありません。どうか安心してください」
「……あ、ありがとうございます」
胸の奥の張り詰めた糸が少しだけ緩む。
ルディオはしばらく村を視察し、村人たちと話をしていた。
羊飼いの夫妻、畑を守るハル、子どもたち──皆が口々に「リリアーナさんがいてくれたからこそ」と語る。
「正直、あの子が来る前はこの村も先が見えてなかったんです」
「干ばつも疫病も、全部リリアーナさんが触ってくれてから良くなった気がするんですよ」
ハルが照れ臭そうに笑いながらそう言った。
(みんな……)
不思議なほど胸が熱くなる。
貴族の屋敷では聞いたことのなかった、自分を肯定する言葉ばかり。
ルディオは最後に、リリアーナの目を真剣に見つめて言った。
「これはただの噂ではないようですね。あなたの力を私たちの国でも生かしたい……そう願うのは当然です。ですが、まずはこの村の方々に許可をいただきたい」
「え……?」
ルディオの視線は村人へ向けられた。
「皆さんにとって、リリアーナさんはどのような存在ですか? 私たちが彼女を国境伯家に迎えたいと言ったら……反対されますか?」
村の広場に沈黙が落ちた。
やがて、羊飼いの女性が口を開く。
「……この子はこの村の大事な仲間です。どこに連れて行かれるのも本当は寂しい。けど、本人が決めることじゃないですかねぇ」
「そうだな。俺たちがこの村で一緒に生きたいって気持ちはあるが……リリアーナさんが望むなら、無理に引き止めることはしねえ」
次々に村人たちが頷く。
(……私、ここに居ていいって……)
目頭が熱くなる。
貴族だった頃、家の名誉や都合ばかりで自分の意思など誰も聞いてくれなかったのに。
今は、こんなに小さな村の人々が、自分の選択を一番に尊重しようとしてくれる。
ルディオは少し微笑み、そして頭を下げた。
「あなたがどのような選択をされても、私たちは感謝を忘れません。今日お目にかかれただけでも、十分です。国境伯家として、これからもこの村の守りを強化するよう手配します。せめてそのくらい、私たちにさせてください」
「……ありがとうございます」
リリアーナも深く頭を下げた。
こうして少しずつ、この村は守られていくのだと思うと、胸がじんわりと温まった。
視察団が去った後、村人たちがわらわらと集まってきた。
「リリアーナさん、大丈夫だったかい?」
「緊張したろう? あんなお偉いさんに囲まれて」
ハルや子どもたちが口々に言う。
リリアーナは少し照れながら、頷いた。
「ええ……でも、みんなのおかげでちゃんと答えられたわ」
「何言ってる。あんたはもうこの村の立派な仲間だ。どこの貴族様が来たって関係ねえよ」
ハルがそう言って、がっしりした手でリリアーナの肩を軽く叩いた。
「私……この村が好きです。だから、これからもずっと、ここで暮らしていきたい」
「おう、歓迎するよ!」
その晩、小さな家の中でミーナが静かに笑った。
「お嬢様、あれだけの使節に物怖じせずにいらしたのは立派でしたよ」
「……物怖じはしていたわ。でも、みんながいてくれたから……」
「そうですね。お嬢様はもう、この村にとって欠かせない人です」
リリアーナは肩掛けをぎゅっと抱きしめ、窓の外を見つめた。
月がやわらかく輝いていて、その光が村の家々を優しく包んでいる。
(私、本当に幸せだな……)
静かに目を閉じた時、心の奥から小さな確信が芽生えた。
(この力は、きっと誰かのためにある。魔力量なんかで測れなくても、私に与えられたものなんだ)