第5話 村を救う小さな手
「リリアーナさん、大変だよ!」
朝、畑へ向かおうとすると、小さな男の子が息を切らして駆け寄ってきた。
顔は真っ青で、今にも泣き出しそうだ。
「どうしたの? 落ち着いて話して」
「羊が……羊が病気なんだ! 立てなくなって、ご飯も食べないの!」
その言葉に、リリアーナの胸がざわめいた。
家畜はこの村にとって命そのものだ。
畑から穫れる作物だけでは生活が回らず、羊の毛や乳が村人たちの暮らしを支えている。
「どこにいるの? 案内してくれる?」
「う、うん……こっち!」
少年に連れられて向かった納屋の奥。
薄暗い藁の上に、痩せた白い羊がぐったりと横たわっていた。
荒い息をしていて、瞳には生気がない。
傍らには羊飼いの夫婦がいて、リリアーナに気づくと困ったように眉を下げた。
「リリアーナさん……ごめんね、こんな所に呼んでしまって。医者にも見てもらったけど、もう駄目かもしれないって」
「……そうですか」
リリアーナは静かに羊の傍らに膝をついた。
小さく呼吸をする羊の体に、そっと手を添える。
(苦しいのね……)
瞼を閉じると、いつものように不思議な感覚が広がる。
羊の身体の奥に、小さく濁った流れを感じた。
それは冷たく淀んでいて、まるで息を詰まらせているようだった。
(大丈夫よ。もう頑張らなくていいのよ)
心の中で優しく語りかける。
すると指先がほのかに温かくなり、そこから光が淡く溢れた。
「……あ」
羊飼いの女性が小さく声を上げた。
次の瞬間、羊の身体がかすかに震え、苦しそうにしていた呼吸が落ち着いていく。
重たく閉じていた瞼がゆっくりと開き、黒い瞳がこちらを見つめた。
「……立った……!」
羊はよろりと体を起こし、少しふらつきながらも自分の脚で立ち上がった。
驚いたことに、先ほどまで覇気のなかった目がきらきらと輝き、口を動かして干し草を食べ始める。
「リリアーナさん……今の、何を?」
「……私、何もしていません。ただ、ちょっと撫でていただけです」
「そんなはずないよ。医者も諦めた子だったのに……ありがとう。本当に……ありがとう」
羊飼いの男性が目尻を押さえ、深く頭を下げた。
女性も何度も頭を下げ、リリアーナの手をぎゅっと握った。
村へ戻る途中、少年がリリアーナの袖を引いた。
「お姉ちゃん、すごい人なんだね」
「……私は、別に……」
「だってお姉ちゃんが触ったら、あの子、元気になったもん。なんか、魔法使いみたいだね!」
無邪気な笑顔に、リリアーナは少しだけ肩の力を抜いた。
村の子どもに「すごい」と言われたのは初めてで、恥ずかしさよりもどこかくすぐったい気持ちになる。
(本当に、魔法……なのかな)
魔力量計測でゼロを突きつけられ、婚約を破棄され、家族からも見放された。
なのにどうして、自分にはこんなことができるのか。
(きっとこの力は、魔力量なんてものでは測れない)
そう思うと、少しだけ胸が強くなった気がした。
家へ戻ると、いつものようにミーナが笑顔で出迎えた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。今日はずいぶん遅かったのですね?」
「ちょっと……羊が具合悪くなったと聞いて、様子を見に行ってたの。そしたら、少し元気になってくれて」
「また、お嬢様の不思議なお力ですね」
「……そんな大層なものじゃないの。私自身、どうしてこうなるのか分からないもの」
「でも、お嬢様がいなければ救われなかった命があったのです。それは紛れもない事実ですよ」
そう言われて、リリアーナは少しだけ微笑んだ。
その夜、家の外で月を見上げていると、昼間の羊飼いの夫妻が戸口までやってきた。
「こんな時間に、どうしました?」
「……これ、うちの羊から取れた毛糸で作ったものなんです。良かったら使ってください」
そう言って差し出されたのは、小さな手編みの肩掛けだった。
まだ少し羊の匂いがして、温もりを感じる。
「私が触ったあの子が元気になってくれたなら、それだけで十分です。こんな、いただけません」
「でも、どうしても渡したいんです。リリアーナさんのおかげで、私たちは救われたから……」
リリアーナはしばらく黙って、それからそっと肩掛けを受け取った。
「……ありがとうございます。大切にします」
夫妻は安堵したように微笑み、そのまま夜道を帰っていった。
(私、少しは誰かの役に立てているのかな)
柔らかな肩掛けに顔を埋めると、ほんのりと温かくて泣きそうになった。
「きっと、ここに居てもいいよね……?」
月は静かに輝いていて、その光が優しくリリアーナを照らしてくれた。