第2話 辺境の村へ
公爵家を追われた翌日から、リリアーナとミーナは馬車で北へ向かっていた。
目指すのは、国境に近い辺境の地。
大国の都から遠く離れれば、もう自分を知る者などいないだろう。
「……お嬢様、少しお顔色が悪いですよ」
ミーナが心配そうに覗き込む。
リリアーナは弱く笑みを返した。
「平気よ。ただ少し、疲れただけ」
けれど本当は、心に穴が空いたようだった。
昨日まで家族だと思っていた人々の冷たい瞳が、何度も胸を刺す。
屋敷の壁や廊下の匂いさえ、今は遠い夢の中の出来事のようだった。
三日ほど馬車を走らせた頃、小高い丘を越えると視界がひらけた。
そこにはこじんまりとした村があり、木造の家々と、畑を耕す人々の姿が見える。
「ここ……」
リリアーナは小さく息を飲んだ。
(ここなら──)
人々は粗末な服を着て、都にいた貴族や商人たちよりはるかに素朴だ。
けれどどこか、必死に生きている温度がある。
この地に来れば、もう誰も自分を公爵家の娘として扱わない。
ただの、一人の女として生きられる。
「ミーナ、私……この村に住みたい」
「……はい。お嬢様がそう望まれるなら、どこへでもお供します」
それだけを言って、ミーナは微笑んだ。
馬車を村の入口で止めると、村人たちが何事かと視線を向けてくる。
中にはあからさまに眉をひそめる者もいた。
「見かけない顔だな。旅の方か?」
粗野な声で声をかけてきたのは、斧を担いだ屈強な男だった。
その隣の中年女も訝しげにリリアーナを見つめる。
「はい……。実は訳があってこのあたりで暮らしたいのです。できれば、この村で家を借りたいのですが」
「家を、だと?」
男は目を細め、女は腕を組む。
「何か訳ありかね? そう簡単に受け入れるわけにもいかないんだよ、ここは。余所者を入れると村に災いが起きるって古くからの言い伝えもあってね」
「そうですか……」
心がひやりとした。
辺境ならきっと優しく迎えてくれる、そんな甘い期待があった自分が恥ずかしかった。
(やっぱり私には、居場所なんて……)
「……けど、住む家が空いてるのは事実だ。ひとまず泊まるくらいならいいだろう。ただし、何か問題を起こしたら追い出すからな」
「はい、ありがとうございます。決してご迷惑はかけません」
リリアーナは深く頭を下げた。
その晩、村のはずれにある空き家に泊まることになった。
壁はところどころ崩れていて、床板もぎしぎしと音を立てる。
けれど今のリリアーナには、それでも十分すぎる場所だった。
「お嬢様……本当にここで暮らすのですね」
ミーナが心配そうに問いかける。
「ええ。たとえ粗末でも、誰にもお前なんかいらないと言われない場所なら、私にはそれで十分」
ミーナはそっとリリアーナの手を握った。
「お嬢様はいつだって人に優しかった。きっと村の人たちも、それに気付く日が来ます」
リリアーナは小さく笑った。
「ありがとう、ミーナ。あなたがいてくれて、本当に良かった」
夜、布団代わりに古い毛布に包まって横になると、昼間必死に保っていた感情が一気に溢れた。
(お父様……お兄様……ユリウス様……どうして……どうして私を、あんな目で……)
涙が止まらず、声を殺して泣いた。
ミーナはそっと背を撫でてくれたが、その温かさが余計に悲しみを引き出した。
(でももう、後戻りはできない)
家族に捨てられ、婚約を破棄され、すべてを失った。
ここから先は、自分で選ぶしかない。
翌朝、村の広場を通ると、昨日の男や女たちが畑の収穫をしていた。
リリアーナは勇気を出して近づき、小さく頭を下げる。
「おはようございます。……私にも何か、お手伝いさせていただけませんか?」
すると最初は怪訝な顔をしていた村人の一人が、少しだけ視線を和らげた。
「じゃあ、そこにある籠の野菜を倉に運んでくれ」
「はい、ありがとうございます!」
手渡された籠は重かったが、リリアーナは心の中で少しだけ光が差した気がした。
(きっといつか、ここで新しい居場所を作れるはず……)
まだ誰にも必要とされてはいない。
でも──そうなれる日を、諦めたくなかった。