第3話『美学の罪』
東京の夜は、なぜこんなにも“綺麗”なのだろう__
ふと、神楽李有はそう思った。
繁華街のネオン、濡れた路面の反射、都会的で均整の取れた無機質な建物群。その全てがどこか整いすぎていて、整っているが故に、息苦しかった。
(……だからこそ、壊したくなるのかもしれない。こんな美を)
そんな事を考えながら向かった現場はとある美術館だった。夜間は閉館しているはずのその館内に、耳を劈くような警報が鳴り響いていた。
そんな音とは真逆に、軽快な足取りで神楽を見つけると、軽く手を挙げながら近づく探偵・綾辻仁がいた。
「いつも通り、浮かない顔だね」
「当たり前です。次から次へと……」
いつものように歩きながら話す二人。目の前に居た若い警官がそのまま案内するよう先を歩いた。
「遺体は二階の展示室です」
その足取りは、無意識に遅くなっていた。
ガラス張りの空間。展示物はモダンアートのような抽象的作品ばかり。
だが、その中心に「具象的」な作品が一つだけあった。
椅子に座らされた裸の女性の遺体。全身に赤い絵具のような液体が塗られており、頭部には金属製の仮面が嵌められていた。
胸元には、「罪と美学」とだけ書かれたカード。
「これは……何のつもり?」
神楽が小さく呟いた。
「“作品”だよ」
それに対し、綾辻が低い声で答える。
「ここにあったはずの展示物は撤去されている。そしてこの遺体だけが置かれていた。
つまり、これは“展示された死体”なんだ」
「……また、“柘榴”?」
「まず間違いないだろう」
神楽は口を噤んだまま、遺体に近づく。
赤い液体は、どうやら“血”だけではなかった。油絵具のような粘着性のある液体が混じっており、遺体はまるで“絵画の一部”のように加工されていた。
「顔が……見えない」
金属製の仮面には目と口の穴がなく、無機質な表情が刻まれている。感情の一切を排したそれが、かえって不気味だった。
「“個”を消して、“美”だけを残したかったんだろうな」
綾辻は仮面の輪郭を指でなぞる。
「この犯人、どんどん表現が過激になってきてる。“人間”という存在を、美の中から消し去ろうとしている」
「“個人”の人生を否定して、“美”のための“素材”にするってこと?」
神楽の声は、怒りを押し殺していた。
(父さんも__こんな風に“飾られた”んじゃなかったの?)
彼女の中で、過去と現在が交差し始めていた。
翌朝。神楽は父の墓の前に立っていた。周囲の木々が風に揺れ、柔らかい陽光が墓石を照らす。
彼女の手には、小さな古びた手帳。
「これは……父さんの?」
母から受け取った遺品の中に、ずっと気になっていたものがあった。そこには、父が生前綴っていた日記の一節が残されていた。
「“死ぬ理由”を探す人間は、まだ救える。
だが、“死ぬ美しさ”に憧れる人間は、救えない__」
神楽の胸が、酷く痛んだ。その文章を指でなぞれば少しの埃が指に付く。頬から落ちる水滴を零さぬよう彼女は日記を閉じた。
(父さんは……何を見て、こんな言葉を残したの?)
◇
その頃、闇部のアトリエでは、彫刻家・石神紅葉が仮面のレプリカを机上に置いていた。
「……無個性。無感情。“柘榴”が目指しているのは、たぶん……死の美の普遍化」
傍らでは画家・秋月芹が、絵具を調合しながら頷いた。
「“誰でもよかった”っていう犯行理由と似てるけど、これはそれよりも悪質よ。
“誰であってもいい”っていう、選ばれた人間の切り捨て方」
「どこかの信仰に似ている。救いという名の、“一律の浄化”」
2人の会話に一区切りついたその時、静かに声を重ねたのは納棺師・柊木優人だった。
「__あの女刑事が、動いているな」
「神楽刑事のことです?」
紅葉が眉を寄せる。
「俺の“見習い”が彼女の行動を追っている。……トア、報告を」
部屋の扉の影から、黒装束の青年が静かに現れた。納棺師見習い・夜見トア。
「彼女は“父親の死”をずっと追いかけているようでした。
警察上では自殺と処理されましたが、遺書も動機もなし。
__今回の“柘榴”の犯行と、構図が酷似しています」
「そうか……」
柊木は静かに組んでいた腕を解いた。
「女刑事は“感情”で動いている。それは“柘榴”に最も届くものだ。……だが同時に、最も利用されやすい」
「感情に引きずられては、美は見えないですからね」
紅葉が呟くように言った。
「死は感情と時間の果てだ。……それを切り捨てた瞬間、ただの造形になる」
柊木が頷いた。
「だからこそ、俺達が裁かねばならない。“死の偽物”を、“死の美”で上書きするために、な」
彼は静かに、仮面に指をかけた。その不気味なくらいに白い手に映える仮面は、まるで元々自分の物だったかのような、そんな感覚すら覚える。
「この“無表情”に宿る“罪”を、俺達が暴こう」
無機質な声が響いた。
その日の夜、闇部の元に新たな“作品”が届いた。
大きな黒い木箱。
中に入っていたのは__仮面をつけたマネキンの群れ。
全て同じポーズ、同じ服装、同じ角度。
「……これは」
紅葉が箱を開けた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
「“大量の偽物”だ」
マネキンたちは遺体ではなかった。だが、妙に“生々しい”。
「ただの“死体の代用品”……」
紅葉の言葉に、アトリエ内にいた秋月芹が目を細める。
「“人間じゃなくても、同じ構図なら美しく見える”……ってこと?」
「そういうことだろう」
ソファーに座っていた柊木が脚を組みながら呟く。
「“死そのもの”ではなく、“死の表現”に価値を見出す__それが“柘榴”の美学だ」
「それはつまり、人間の感情とか痛みとか、いらないってことでしょ。
“どう死んだか”も、“なぜ死んだか”も、“誰が死んだか”すらいらないっていう……」
「それは、“死の贋作”です」
秋月の言葉に紅葉が立ち上がる。
「__その偽りを、俺の彫刻刀で切り裂いてやる」
◇
その夜、神楽のもとに一本の電話が入った。
《次の“展示”が始まる。今度の舞台は“生きている者”だよ》
それだけを残して、電話は切れた。
神楽はすぐに警察を動かし、予告された場所――ある廃墟ビルの屋上に急行する。
そこには、照明を浴びたひとりの女性がいた。
……生きていた。
ただし、両腕を縛られ、口にはガーゼのような布。頭には、またしても“仮面”が装着されていた。苦しみから解放されるために藻掻くその姿に希望を見た。
「……生きてる!」
神楽が駆け寄ると、彼女は激しく頭を振っている。そのとき、屋上の床に仕掛けられていた“何か”が作動した。
――ボンッ。
白い粉末が舞い上がり、仮面に描かれた“笑顔”が赤く染まる。
その瞬間、綾辻が叫んだ。
「これは、“リアルタイムで完成していく死”の演出だ!」
神楽は縛られた女性を抱き起こす。
「……生きてる……まだ、“完成”してない!」
その言葉に、自分自身が突き動かされた。
(なら、私は……完成させない!)
神楽は叫ぶように命令する。
「救急隊を!仮面を取って、すぐに!」
後日、女性は助かった。
だが仮面を外された直後、彼女はこう呟いていた。
「……私、死にたかったんです。でも、“誰かの作品”になるのは……いやだった……」
その言葉は、神楽の胸に深く残った。
(“死にたい”じゃなくて、“綺麗に死にたかった”。それを誰かに“演出される”のは、違う)
父の死も、そうだったのではないか。
「……“美学”という名の罪。私は絶対に許さない」
彼女の声には、微かな決意が宿っていた。
▶次回予告:第4話『追う者たち』
“柘榴”が残した謎の仮面と、同一構図のマネキン群。
捜査線上に浮かぶのは、かつて芸術界で追放されたある“元天才”。
彫刻家・紅葉の彫り起こしが、“柘榴”の思想の一端を抉り出す。
__そして、神楽が知る“父の死”と“ある秘密”。
「偽りの死を、俺は彫らない。
ならば、真実を……この手で掘り起こすまでです」