彼女は闇に足を踏み入れる
告発、疑惑、報道。そして――沈黙。
それはまるで、獲物を追い詰める猟犬の息を潜める音だった。
セリナ・アルベリヒは、書斎の窓辺に立っていた。
帝都大学への不正流出疑惑。味方であるはずのクライトン教授が糾弾されている今、彼女のもとにも、目に見えない圧力が寄せてくる。
だが、彼女は怯えなかった。
むしろ、瞳に宿るのは凍てつくような集中――かつて政略結婚の中で、すべてを飲み込み、耐え抜いた令嬢の覚悟。
「戦場が変わっただけ。やるべきことは変わらない」
セリナは、机に置かれた一枚の手紙を手に取った。
それは、数日前に届いた差出人不明の文書だった。
「狐は目覚めた。君の誠実さは、もう通じない。影の中で踊れなければ、彼に喰われる」
手紙の中に、ある名が書かれていた。
狐――アシュレイ・グレイ。
「……ならば、こちらも『闇』の駒を使うしかない」
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その夜、帝都旧区・第三市場跡。
廃工場に忍び込む人影があった。
「まさか、あなたが私に声をかけてくるとはね。セリナ嬢」
現れたのは、漆黒のスーツに身を包んだ男。
帝都裏社会の《仲介者》として名を馳せる、リカード・エスト。
密輸、賄賂、裏文書――合法と非合法の狭間を渡り歩く男。
彼は笑う。冷たくどこか人を試すように。
「君の理想主義には期待してたんだけどな。ついに闇に手を伸ばす気になった?」
「違うわ。闇に手を伸ばすのではない。私は、光のために必要ならば、闇の力も使うと決めたの」
その言葉に、リカードの眉がピクリと動いた。
「強くなったな、セリナ。……それで、依頼の内容は?」
「アシュレイ・グレイの動き。彼の情報網を探ってほしい。あと、私の周囲に潜り込んでいる裏の手を割り出して」
リカードは頷いた。
それは決して安くない依頼だ。だが、彼は言った。
「報酬は、あとで君が、帝国を掌握した後に貰うよ」
「その約束、忘れないで」
契約は交わされた。
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数日後。
帝都大学構内、非公開の一室。
疑惑をかけられたクライトン教授は、沈黙を貫いていた。
だが、そこに現れたのはセリナだった。
「……あなたは逃げないのね」
「逃げる理由がない。僕がしたのは、公開されるはずだった予算モデルの試算だけ。機密でもなければ、不正でもない」
「でも、それを、そう見せかけた人間がいる」
彼女は、リカードから受け取った一枚の名簿を手渡した。
それは――帝都新聞の記者名簿。
そこに、かつてアシュレイ・グレイ配下だった元諜報員の名前が含まれていた。
「この記者、アシュレイと繋がっていた可能性が高い」
「つまり、疑惑は作られた。……これが、狐の手口」
セリナは頷く。
情報の操作、印象の操作――正攻法では勝てない相手。
「だから、私も変わらなければいけない。あなたに指一本触れさせない。それが私の戦場」
エルマーはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「だったら、僕も覚悟を決めよう。汚名を着せられる覚悟も、君のためなら受け入れるよ」
その眼差しは、まっすぐだった。
信頼。共闘。これはもう、個人の戦いではない。
――帝国という大地を賭けた、「理想」と「現実」の戦争だ。
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その夜、アシュレイ・グレイは宮内の地下執務室で報告を受けていた。
「クライトンは沈黙を保ち、セリナ嬢も記者への対抗声明を出しません。世論の反応はやや鈍化しています」
彼は苦笑した。
「なるほど……闇に学び始めた、というわけか」
灰色の瞳が、ほんのわずかに楽しげに細められる。
「そうでなくては面白くない。さあ、セリナ・アルベリヒ。君がどこまで闇を歩めるか……見せてもらおうか」
駒は揃った。
情報戦の幕は、まだ始まったばかりだ。