灰色の狐、囁く
帝都から東へ一里。霧深い旧軍区の廃館に、一人の男がいた。
薄汚れた外套。手にした杖は戦傷を思わせ、瞳は鋭く、だが疲れを隠さない。
――元・帝国軍情報部戦略中佐、《アシュレイ・グレイ》
灰色の狐と呼ばれた天才参謀。
五年前、軍部内の粛清で失脚し、今では政界からも経済界からも名を消していた。
そんな彼の元に、ついに客が訪れる。
「……本当に、来てしまったのですね」
現れたのは、皇女イリーナ・ベルベット。
冷徹な微笑を浮かべ、迷いなど一片もない歩みだった。
「貴女は、まだ若い頃のままだ。冷たくて、恐ろしく賢い」
「そして、あなたは……落ちぶれてなお、鋭いままですね」
二人は、昔からの同志だった。
だが、今の目的は共闘ではない。イリーナははっきりと切り出す。
「セリナ・アルベリヒを止めていただきたい」
アシュレイは沈黙した。
やがて、古びた燻製パイプに火をつけ、くゆらせながら、問う。
「理由を聞こうか。嫉妬か? 権力闘争か? それとも……純粋な理想のためか?」
「帝国のかたちを壊させたくないだけですわ。あの方の理想は美しい。でも、理想は時として国家を焼きます」
「同意だ」
即答だった。
「セリナ嬢の動き方は、あまりにも早すぎる。民意という燃料に火をつけすぎれば、帝国そのものが瓦解する」
「ですから、あなたの知恵が要るのです。私一人では、彼女の先を読みきれません」
イリーナの表情が、ほんのわずかに緩んだ。
彼女が心を許せる、数少ない存在。それがアシュレイだった。
「だが、私はもう表舞台には立てん。君が私を使うには――名目が必要だ」
「ええ、用意しました。《宮内戦略顧問》の肩書きと、旧情報部の資料復権。あなたが動くには、それで十分でしょう?」
アシュレイは目を細める。
その条件の裏に潜む策まで読みきったかのように、乾いた笑みを浮かべた。
「……まったく、君の策士ぶりは見事だ。いいだろう。では、狐は再び動こう」
彼は机の引き出しを開き、封印された古い書類を取り出す。
「まず狙うべきは、銀の獅子の最も脆い部分だ」
そう、それはセリナではない。
――彼女の同盟者たち。すなわち、《帝都大学の改革派学者たち》だった。
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一方その頃、帝都大学構内。
セリナは一人の男と密談していた。
大学経済学部の若き天才、《エルマー・クライトン》教授。年齢はわずか28歳にして、すでに経済モデル理論の第一人者とされる存在だ。
「君の案、議会では検討項目に昇格したわ。次の会期で提出できる」
「……それは、つまり僕らが本気で潰されに来るってことですね」
エルマーは皮肉気に笑った。
だが、目の奥は燃えている。
「銀の獅子商会が勝てば、帝国の商流そのものが変わる。けど、その代償として……僕らは、反逆者と見なされる可能性もある」
「それでも、後には退けないわ」
セリナの言葉に、エルマーは頷く。
だが、彼らが知らぬところで、灰色の狐の罠はすでに仕組まれていた。
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――三日後。
帝都大学に届いた、ある一通の告発文。
それは、「クライトン教授が国家予算の一部試算を不正入手していた」というものだった。
瞬く間に、帝都新聞の一面に載る。
《大学改革派の背後に、国家情報の漏洩か?》
《銀の獅子商会、法の外にある存在か?》
セリナの元には、記者たちが殺到した。
「この疑惑についてコメントを!」
「改革の正当性はどう説明されますか?」
セリナは沈黙を貫いた。
だがその瞳の奥には、見えざる敵の気配が灯っていた。
「……これは、偶然じゃない」
彼女は呟く。
「情報戦。軍の動き。……まさか、あの人が動いたの?」
心当たりが一人だけあった。
失脚したはずの《狐》――アシュレイ・グレイ。
戦いは、知略の領域へ。
そして、ついにセリナ自身も《表ではない戦場》へと足を踏み入れることになる。