双つの影
帝国歴1024年、初夏。
北と南、ふたつの陣営が静かに火を灯した。
ひとつは、《北部同盟》
元婚約者セリナ・アルベリヒが率いる、新興勢力。
経済・軍需・諜報の三本柱を軸に、帝国を裏から掌握することを目指していた。
もうひとつは、《王都派閥連合》
王太子妃イリーナ・ベルベットを中心に、正統貴族、宮廷官僚、聖堂騎士団を擁する表の勢力。
この日、帝国はまだ気づいていなかった。
歴史を塗り替える二人の魔女による、静かなる覇権争いが始まっていたことに――。
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《エルザルト》本拠。
「王都で、影の取引が活発化しています」
メイが報告書を差し出す。私はその一枚に目を通し、眉をひそめた。
「これは……イリーナの仕業ね」
文面には、《禁書商人の釈放》《魔術薬市場の一部緩和》《賭場規制の見直し》とある。
要するに、裏経済への干渉。
「真面目ぶった聖女気取りが、裏の世界に手を出してくるとはね」
私は苦笑しつつ、少しだけ警戒を強めた。
王太子妃イリーナ・ベルベットは、確かに見た目は、おっとり清楚。
だが、内面は毒蛇のように狡猾だ。
「アラン、諜報部はどう?」
「影の傭兵団が一部、王都に雇われました。我々の旧契約者です」
「なるほど、買い戻されたのね。やるじゃない」
私は指先で水晶盤を操作し、帝都の地図を浮かべる。
すると、王都周辺に点在する光点のうち、いくつかが赤に染まった。
「……なら、こちらも影を動かす時ね」
私はそっと、机の引き出しから一枚の封筒を取り出す。
中には、《亡命貴族の連絡網》――つまり、かつて失脚し、国外に逃れた才人たちの名簿があった。
「《影の騎士団》を呼び戻すわ」
「……あの、処刑されたはずの……?」
メイの声に、私はうなずいた。
「死んだことにして逃しただけ。今こそ、再登場の時よ」
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一方その頃、王都王宮。
「おや、もう少しで手札が揃いそうですわね」
イリーナは夜会の後、一人で執務室に籠もっていた。
机の上には、各地の非合法者たちのリスト。彼女が裏から資金援助し、操っている者たちの名簿だ。
「セリナ様は強敵です。ですが、わたくしには表がある」
イリーナが微笑む。彼女には、王太子の信任と、帝国法の正統性がある。
セリナがどれほど才知を持とうと、正面から戦えば反逆者でしかない。
「ええ、陛下にもお願いしませんとね。法をもっと便利に使えるように」
彼女が筆を取ったのは、新法案の草案だった。
内容は――《帝国内における外資・非貴族による金融活動の制限》
つまり、セリナのような新興財閥を法で縛るためのものだ。
「お姉様、あなたが自由であるなら、わたくしは縛る力を手に入れますわ」
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翌週。王都では、帝国議会の臨時召集が決定された。
表向きは、経済安定化を目的とした新法案審議。
だが、その裏にあるのは、王太子妃が仕掛ける『法による包囲網』だった。
一方その頃、北部では。
「――王都で法案が可決されるのは、十日後と見られます」
「十分ね。それまでに、こっちは、もう一手打つ」
セリナは、密室で《影の騎士団》の代表と対面していた。
黒ずくめの戦士たち。全員、かつて帝国の禁忌研究に関与し、追放された者たち。
「私は、あなたたちを解放する。ただし、条件があるわ」
セリナは、懐から新たな契約書を取り出す。
内容は、政治的暗殺ではなく、諜報と証拠収集を目的とした任務。
「あなたたちの過去は裁かない。その代わり、未来に使わせてもらう」
――戦争ではない。これは、情報と信用を奪い合う頭脳戦。
イリーナが法で縛るなら、セリナは真実を暴く。
どちらが帝国の運命を握るのかは、まだ誰にもわからなかった。
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夜。セリナはひとり書斎にて、手紙を綴っていた。
宛先は、帝国陸軍の若き副将――かつての理解者にして、唯一の盟友。
《あなたの剣が、帝国を守るのなら。わたしの知恵は、帝国を変えるために使います》
封をして、蝋で封印する。
その瞬間、ふと過ぎったのは、王太子との日々だった。
偽りの愛。
利用された婚約。
そして、棄てられた運命。
でも――
「もう、迷わない」
セリナ・アルベリヒ。
元王太子妃候補。今は、影の帝国を築こうとする女。
そして、その才知は確かに、帝国を動かす力を持ち始めていた。