最初の手札
帝国歴1024年、春。
王都グレイファルトの中央広場では、珍しく市場が騒がしかった。
「値が……上がってる? たった三日で?」
「商会が売らねえんだ。新しい令嬢様のご命令でな」
庶民の間で囁かれるのは、物価高騰の噂。
原因は、王太子妃の座に収まったイリーナ・ベルベットの経済政策だった。
――そう。思い通りに動いてくれて、助かるわ。
遠く離れた北部の隠れ拠点で、私は微笑んだ。
水晶盤に映る市場の混乱は、私にとって計算通りの一幕。
「ベルベット派が経済政策に口出しを始めた途端、王都商人たちは混乱。その隙を突いて、私たちは――?」
アランが、にやりと笑う。
「北部鉱山の利権を買い漁りました。帝都で足りなくなる鉄と銅は、我々の手に」
「ええ。次は、それを、高く売るのではなく貸すのよ」
私は帳簿を広げ、用意していた契約書の山を確認する。
利息率、担保条件、債権回収のルール。どれも隙はない。
「物資を売るだけでは一過性。でも貸すことで、支配権を得られるわ」
経済を握るとは、財布を握ることではない。
『誰が、誰に、どのように金を流すか』――その構造を支配することだ。
「すでに、三つの中堅商会が動きました。王都に戻って取引を希望しています」
メイの報告にうなずきながら、私は手元の印章を取り上げた。
「アルベリヒの名は、王都を離れても死なないわ。むしろ、自由になった今こそ真価を発揮する」
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翌週。王都・商工区の一角。
「……これは、どういうことだ……!?」
商工会議所の長老、トロワンは机を叩いた。
手元の報告書には、信じられない文字列が並んでいる。
《帝国北部商会連合、アルベリヒ財団より融資を受け始める》
《首都工業組合、鉄材購入先を北部へ切替》
《旧アルベリヒ派、再結集の兆しあり》
「馬鹿な……王太子妃がアルベリヒ家を追放したというのに、なぜ!」
答えは単純だ。
――セリナ・アルベリヒは、王都を去っただけであって、敗北してなどいない。
彼女は王宮という表舞台を離れたことで、むしろその制約から解放された。
そして今、裏から静かに、しかし確実に帝都を包囲しつつある。
「まさか、これほど早く仕掛けてくるとは……!」
王太子妃となったイリーナは、まだ舞踏会の余韻に浸り、貴族とのお茶会ばかりに忙しい。
だが、その裏で帝都の血流とも言える商流が、着実に書き換えられているのだ。
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夜、再び《エルザルト》
私の前には、報告書の山と、各地から届いた密書が広がっていた。
私は静かに、ひとつひとつそれを読み、選別していく。
「西部のサヴァンナ商会が協力を申し出ています。条件は帝国議会での口添え」
アランの声に、私は小さく笑った。
「それは後回し。今は足元を固めるのが先よ。王都の金融に根を張るの」
「セリナ様……その先にあるものは?」
メイが問いかける。目には不安と期待がないまぜになっていた。
私はしばし考え、言葉を選んだ。
「玉座そのものには、正直、興味はないわ」
「では、何のために……?」
私は少しだけ、唇を歪める。
「私は、もう二度と、誰にも振り回されない場所が欲しいの」
かつて、王太子に見初められたとき。
私は信じていた。努力が報われ、才能が認められたのだと。
けれど結局、選ばれたのは愛という不確かなもの。
――私は、もう気まぐれな感情で、人生を左右されたくない。
「だから私は作るのよ。私だけの帝国を」
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その頃。王都王宮、夜会にて。
「お姉様って、本当に怖いのね」
王太子妃イリーナ・ベルベットは、控え室でひとり呟いていた。
手元には、なぜか密かに届いた匿名の報告書。
《アルベリヒ、経済界再起動》
《地下ギルドとの接触複数》
《セリナ・アルベリヒ、次の動きは未定。要警戒》
「ふふ。でも、わたくしだって、負けていませんわ」
彼女は静かに鏡に映る自分を見つめ、口元に笑みを浮かべる。
その笑顔の奥には、かつて宮廷にいた、もう一人の魔女への対抗心が見え隠れしていた。
――これは、ただの復讐劇ではない。
――帝国全土を巻き込んだ主導権争いの、始まりに過ぎない。